2-2.水竜にも敵無し


 ホルマルは絶える事無き水臭さに、閉口しておられた。

 その雄々しき鼻と、間抜けな程に開いた穴は、絶えずぴしゃぴしゃと下男に水をかけられ、むしろ噴水

のようにして、垂れた水を流し続けておられたからである。

 例え治療であっても、これほどぴしゃぴしゃとされるのは、どうにも落ち着かない。これがもしぴちゃ

ぴちゃであれば、まだ可愛げがあったのだが。そこはそれ、下男がやっている事に、良い事が起こるはず

が無かった。

 だからこそ彼は下男であり、まったく役に立たないからこその、下男なのだ。

 そもそも下男という職業は無く。役立たずだからこそ下男。げなん、ではなく、したおとこ、とでも呼

んでいただきたい。

 彼の本性が怖ろしき火吹き竜であっても、今はただの水かけ下男。ここで火竜が水竜に変わるというよ

うな、ちょっと素敵な展開は訪れないのである。

 水がぴしゃぴしゃとホルマルの鼻穴を這いまわる度、酷いくしゃみとともに、ホルマルの鼻奥から新た

なる水が発せられる。それこそが病気の素であり、それを取り除く事が大事だと、ババサモは言ってい

た、ような気がしないではない。

 下男は水をかける事以外を、その意味も何もかもを、とうに忘れてしまっていたが。それはそれとして、

自分の仕事に対して、大きな満足を覚えている。

 むしろホルマルの鼻に水をかけるのが楽しい。始めは面倒だとしか思わなかったこの治療も、やってい

る内に、あまりにもホルマルの反応が面白くて、ホルマルがあまりにも醜い顔になられる為に、それを洗

い清めてやっているようで、一種の神の施しのような誇りまでも感じるのである。

 ようするに憐れんでいた。畏れ多くも、ホルマルという一大尻物に対し、正当にも下男は憐れんでいた

のである。

 それは下男からしても、ホルマルは憐れむべき対象でしかないということで、非常に良くホルマルの現

状を表している。

 コビットは身体が資本。例えホルマルであらせられても、こう病弱になってしまわれては、最早そこに

何の価値も示されない。哀しくも、それが自然と共に生きる。いやむしろ、自然しか友達がいないホルマ

ルにとって、行くしかない道だったのである。

 それはホルマル御自身が一番良く解っておられる事で、現状に誰よりも憤慨し、悲しみ、何か手はない

かと、惨憺(さんたん)たる心持の中で、必死に光明を探しておられた。  しかし現実には絶望と水気しかなく、流石のホルマル翁もコビットの子だったかと、そう諦めるしかな

いと思われた矢先、それは訪れた。

 ホルマルの片穴、下男が必死にぴしゃりぴしゃりと水をかけている穴、その水穴から、絶え間なく水が

流れ出る事により、何と云う事だろう、ホルマルの口の中へ大きな湖を作り出してしまったのである。

 そしてその湖が不快極まりないホルマルのいびきと同調し、耐え様も無く不快な調へと、その姿を変え

たのだった。

 これはうるさい。しかもどうして喉の奥へ水が流れ込まないのか、誰にも解らない。

 不解も不快へ繋がる。何しろ同じ文字なのだから、同じと言ってもいいと思う。むしろ紛らわしいから、

一緒くたにするのが良いと思える。

 その不快な調にこの下男が、むしろ舌男が耐えられるはずもなく。彼はホルマルを力一杯なぐりつけ、

よほどなぐりつけてすっきりした後で、ゆうゆうと逃げ出してしまった。

 そう、これこそ深謀遠慮、ホルマルにして最大の鬼策。下手すれば窒息するしかない状況の中、微細に

して剛胆なるその心で、見事に自らの口に湖を作り上げてしまわれたのだ。

 こんな芸当が一体誰に出来るというのか。むしろ誰もしたくない、金をもらってもしたくないはずだ。

 流石は至高のホルマル。彼には不可能という言葉すら、生易しい。むしろあらゆる言葉を冒涜されてい

る。その生こそ汚点、なんという猛々しさか。

 ホルマルは下男、いや宿敵、鋼の巨竜ことマムボムマンベア、を撃退したのを見計らって、その湖を豪

快に飲み干され、むくりと起き上がられた。

「この塩気や良し!」

 水分補給だけでなく、塩分の摂取まで兼ねているとは、まさに恐るべき鬼謀。流石は鈍感帝王、ホルマ

ルであらせられる。



 ホルマルはゆっくりと睡眠をとられ、ここ数日の間の事を綺麗さっぱり忘れられていた。

 勿論痛みも感じない。もともと痛みや熱さなど気のせいだったのだ。例え真実がどうあろうと、ホルマ

ルはその鈍感さゆえに、全てを覆す事が出来る。これこそが雄々しき大ホルマルの、大鈍感の大たる所以

である。

「おお、よく寝たわい。これほどよく寝たのは、そうじゃ、・・・・ああ、まあええわい」

 焦げ付きぷすぷすと煙が立ち昇らんばかりの日差しの中、想い出に浸るような高雅な趣味は、ホルマル

は持ち合わせておられない。そんなものはもっとこう立派にコビット生を歩み、悔いはあっても、決して

人に卑下するような生き方をしてこなかった、立派なコビットがするものなのだ。

 そのような軟弱な心は、下等な、いやむしろその甘さ故に過糖なホルマルは、持ち合わせておられない。

ホルマルの人生は卑下されるばかり。だからこそ鬚(ひげ)を生やしておられる訳で、ホルマルこそがコ

ビットの中のコビットなのである。

 むしろ卑下を恐れぬ勇気こそ、コビットの男として、必要な事であろう。

 ホルマルはいつぞやからほったらかしにされたままの、鬚を整える為の道具を見付け、コビットとして

朝の身だしなみを整え始められた。

 まるで五年は使った歯ブラシのように、見事にあちらこちらへ反り返っているブラシを使うと、鬚を通

らせる度に、見事に先が飛び跳ねる。右へ左へ縦横無尽、尽きる事無き混沌には、無上の芸術性を感じる。

 他の誰にも出来ないと言う点で、これはまさに芸術だった。

 芸術とは思い込みと下らなさである。そういう点で、芸術家としてホルマル以上のコビットはいない。

 彼を芸術家の道へ歩ませなかった運命を、我々は大いに嘆くべきだ。

 もし芸術家の道を歩んでいたのなら、限りなきどうしようもなさを持ち合わせるホルマルも、一握りの

役には立てたかもしれぬものを。

 勿論、今でも充分に、ノミの頭くらいの価値はあられるのだが。もし芸術を志していれば、これがノミ

の体くらいにはなっていたかもしれないのである。

 真に嘆かわしい。それもこれも全ては戦士としての宿業(しゅくごう)を持って生まれてしまわれた為。

偉大なる定めの前には、あらゆる可能性は無視される。

 正に天の采配。大きな迷惑、巨大なホルマル。運命以上に厄介かつ、どうしようもない事は無い。

「よし、今日も良い鬚じゃあ」

 ホルマルは見事な跳ねラインを見、大いに満足された。何しろ鏡が酷く曲がっているからには、何を見

ても満足されるのである。むしろ曇りすぎていて、初めから何も映らない事もしばしばだ。

 ホルマルは元気良くベットから出られると、そのまま雄々しく歩かれ、そして突如襲う物凄い痛みに吃

驚しながら、部屋中を転げまわられた。如何に鈍感とはいえ、新しき痛みに慣れる為には、立ったまま寝

る事が必要だったのだろう。

 それを下男の奴が気を利かさずに、勿体無くもベットなどに乗せるから、また大きな痛みを味わわれる

事になってしまう。

 何と言う理不尽さであろう。例え火傷の足で歩く方が馬鹿だと言われても、馬鹿でも痛いものは痛い。

馬鹿でも感じられる感覚、それが痛みである。

 しかし流石は天呆のホルマル。すぐにその痛みに慣れて忘れられ、雄々しく足を踏みしめられた。

 大体未だに高熱が出ているのだから、そんな細かい事にいつまでも拘っていられるはずがない。より大

きな痛みと悩みの前に、より小さな悩みや痛みなど、どこへなりとも行ってしまうものである。

 ようするに一応起きてはいても、今のホルマルは頭がぐるぐる回って、何も理解出来ないのであった。

 ただそれはあまりいつもと変わらない為に、なんらホルマルのコビット生に問題は無い。たかだが脳が

溶けるような高熱程度で、我らがホルマルが怖れを抱かれるはずもないのである。

 鈍感というよりは、痛みや苦しみも、そう感じる前に忘れてしまわれるからだ。

 何と言う強靭さ、流石は圧搾深海魚、ホルマルである。地上に出ては逆効果になるその力も、ホルマル

であるが故に、力となる。むしろ内臓が飛び出ようと、目玉が弾けようと、ホルマルにはまったく無意味

な事。

 そもそもそんな物が無くても、ホルマルはまったく困らない。呆けた耳や目に何が聴こえ、何が映るは

ずがなく。まったく意味を為しておられないからだ。

 むしろそんな物は無く、外界から完全に閉ざされていた方が、世界にとって好都合である。ホルマルの

ような偉大なる人物は、未来永劫どこかへ閉じ込めておいた方が平和なのだ。あまりにも偉大なる力は、

全てから敬遠されてしまうが故に。

「何じゃ、ぼうっとして何も見えぬ。何じゃ、これは。ああ、これは忘れようも無い、あの生涯最大の決

戦であった、あのどこそこの、何某の・・・・、ああ、何じゃ。まあ、ええわい。ともかくよく見えぬ。

よく聴こえぬ。むう、なるほど、これは夜だからに違いないわい。間違えて夜に起きたのじゃ。我ながら

しくじったものよ」

 ホルマルはそう発するなり、力尽きて床にごろりと倒れ伏され、大いにいびきをかかれ始めた。下男の

下らぬ策など、ホルマルに通用するはずがない。ホルマルは馬鹿ですら解る事が、一つとして解らないの

であられるから。

 例え今も煌々(こうこう)と陽光が照らしていても、これもまた下男の作ったまやかし。ホルマルがそ

のようなものに誤魔化されるはずがない。

 もはやホルマルには、昼夜の区別すらつけられないのである。しかし卑下されることは無い。あれだけ

の激闘を終えたからには、休息を取る事は自然である。

 ああ、勇ましき大呆者、ホルマルよ。せめて今だけは、永久に眠られよ。




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