2-3.恐るべき拳


 ホルマルはむくりと起き上がられ、夜月を浴びて、思い切り伸びをされる。

 あれから一昼の間ずっと眠られ、太陽がしっかり落ちきって後、ようやく目を覚まされたのである。

 勿論側には誰もいない。下男の奴も、ようやくホルマル翁にくたばっていただけたとでも、思っている

のか、姿を見せない。

 それとも、何か別の狙いがあるのだろうか。下男の今後の動向に注意を払わねばなるまい。

 どちらにせよ、我らがホルマルが、この程度の苦難で挫ける訳が無い。皆様にはご安心して、読み進め

ていただきたく思います。

「うーむ、気のせいか薄暗いが、どうにか見えるな。やはり日の光は大事じゃい」

 邪魔無くたらふく眠ったせいか、すっかり熱も下がられたようだ。薄暗いのも夜のせいで、熱が原因で

ホルマルの視力が落ちてしまわれた、という事ではない。

 むしろ未だに昼夜の感覚を取り戻せない辺り、頭の呆け具合の方が致命的であられよう。

 月を朝日と勘違いしておられる事を考えれば、逆に非常に目がよろしいとも考えられる。確かに昔から

こういった、オホンオホンと具体的評価を咳払いして隠したくなるような人物というのは、何となく身体

能力やら何やらが、無意味に飛びぬけて高い事が多いように思える。

 もしかすれば本来は脳に行くべき栄養が、全て他の部分へ行っているのかもしれない。

 だから脳はどんどん退化していくのに比べ、身体の方はやたらに元気で、むしろ呆ければ呆ける程強大

な体力を手に入れる事になる。

 これは酔拳に通じる極意であり、或いはホルマルは偉大なる酔拳使いとなる資質があるのかもしれない。

 いや、むしろホルマルのコビット生こそが酔拳であって、その雄々しきお力で、酔拳の極意、真髄を体

現しておられるとも言えよう。

 だとすれば、この無用にも思える大呆け具合にも光明が差し、逆に評価が高まる可能性すら出てくるよ

うな、そんな希望的観測にも似た、子供のお遊戯に近い気まぐれを、そっと、ほのかに、心に漂わせるよ

うにも、思えるような、はたまた思えないような、奇妙なる気持ちを味わえる。

 無論、その全てはまやかしであって、ホルマルは所詮ホルマルでしかあらせられないとしても。誰もが

夢を見る権利ぐらいは、持ち合わせていると思うのである。

 そうとでも思わない限りは、もうやっていられない昨今、せめてその一線だけは、誰かが常に保持し続

けていなければなるまい。

 だからこそのホルマル、その為にこそのホルマル。

「よし、そろそろ狩りに行かねばなるまいて。そうじゃ、そういえば一年だか何十年か昔から、わしはそ

のように考えていたような気がする。それを今思い出したのは、確かにコビット神のお告げに違いあるま

い。今こそわしの力をコビット神の前に示し、コビットのコビットたる姿を、不思議と物忘れたあの場所

にでも示さなければなるまい。コビットが失った何かを、今わしが取り戻すのだ!」

 ホルマルはいきなり何を仰られるのか。今まで一度として考えられた事の無い事を思い出され、ありも

しない狩り道具を探して、部屋中を散かされ始めた。

 まったく凡人には測り知れないお方である。

 その散かし具合は、本当にどうしようもない散かし具合で、探すというよりは手当たり次第に物を投げ、

そしてその投げた物をわざわざ拾いに行ってから落とし、改めて他の物を投げるといった風情であり、と

てもとても探し物をしているとは思えない。

 しかもその内、投げ捨てる事自体に喜びを感じられてしまわれたのか、満面の笑みで。

「これ楽しいわい。いやっはっは、これ楽しいわい」

 などと大げさに見えるくらい、踊り投げ始められた。

 しかしホルマルが例えコビット踊り投げ自慢大会、くじ引きで決められるよ賞を獲得された、何故か意

味の無い時だけ非常に運の良いお方であられようとも、それは無茶な話である。

 文字通り、寝起きの老体がいきなり全力疾走したようなもので、いくらもしないうちに再び倒れられ、

そのまま深い眠りへ誘われてしまわれた。

 肝心の火傷がまったく治られていないのであるから、これも当然だった。

 しかしそれを考えても、いくらなんでも寝すぎだろう、と言われても、本来のホルマルは一生の十分の

九くらいを睡眠に当てていると思えば妥当なくらいなのであるからには、要らぬツッコミなどは、無用な

のである。

 下手に突っ込まない方が、ホルマルは上手く回るのである、きっと。



 ホルマルが再び目を覚まされた時、当たり前のようにして高き日の光が窓の外から差し込んでいた。

「やはり朝はこうじゃ。こうでなくてはいかん」

 ホルマルはすっと立ち上がられると、そのまま陽気に外へ飛び出され、くるくると軽やかに回りたいと

願いながら、その実不恰好な姿で、一心不乱に踊っておられる。

 通行人達が慌てて逃げていくが、そんな事はホルマルには一向に関係の無い事。何せ踊りに夢中で他に

目が行かないのだから、初めから誰がそこに居ようと、そしてそこで誰が何をホルマルに思おうと、まっ

たく関わり無い事なのである。

 偉大なりしホルマルにとって、たかが通行人の一感情などは無用の物。彼の生にとって、まったく無価

値かつ無意味なものだ。

 だからこそホルマルは無敵であり、無敗であらせられる。

 初めから誰も相手にしてくれないのだから、勝敗以前に敵か競争相手になってくれるような、奇特な人

物には巡り会われなかったのである。

 だからこそこうして一人でぼろい家に住み。下男などという勝手に家に住み着き、今では我が物顔に家

中を好きにしているようなコビットにしか、相手にされておられない。

 まさに常勝不敗、ホルマルの神話は今も尚続いておられる。まったくなんという偉大なコビットであら

せられようか。あまりにも偉大過ぎて、現世とまったく噛合わず、むしろその存在自体が無意味ではない

かと思えるくらい偉大だ。

 しかしそのあまりにも噛合わない歯車、仮にホルマル機関としよう、が最大限に活動しているにも関わ

らず、突如ぴたりと動きを停止される。

「なんとな!!」

 するとなんという事だろう。ホルマルのお腹が、物凄い勢いで鳴かれ始めたではないか。

 いや、お腹の調子がよくないというのではない。むしろ健康過ぎて、つまりは空腹を覚えられ、飢えて

おられるのだろう。

 そういえばここの所まともにご飯を食べられた事が無かった。よくよく考えれば、今まで生きておられ

た方が不思議である。

 勿論、普段からまともな食事とは無縁のお方ではあるが、例え残飯にもならない酷い物を常食とされて

いても、それなりにきちんと食べておられた。

 そしてそれこそがホルマルに僅かしかない、コビットらしい営みの一つであられたと云うのに・・・。

 先立つ物が無いからには、食事のほとんどを妄想で補うしかないとはいえ、身体は正直者、いつまでも

耐えていられる訳が無い。

 空腹のまま生きていられるなら、初めから誰も苦労しない。それは誠に羨ましくも、へんてこな話だ。

 いくらホルマルがへんてこであっても、そこに羨ましさが付きまとう限り、絶対にそのような境地に到

れる事はあられない。それは決してあってはならない事である。偉大なるホルマル翁が他ビットから羨ま

しがられるなど、あってはならない事だ。

 もしそんな事にでもなれば、天地開闢(てんちかいびゃく)以来の大惨事が巻き起こると思われる。

 だから今ホルマルが空腹を覚えられたのには、憐れみや蔑みよりも、安堵の溜息が似合うのである。

「いかぬ。空腹こそコビットの敵。今ここで例の何とかの何某の、ああそうじゃ、ハレイヨじゃ、ハレイ

ヨ。あのハレイヨ日和でも来てみよ。きっともうとんでもない事になるわい。とんでもない事じゃぞ。わ

しが空腹などと知れてしまえば、無数にいる宿敵達が、一斉に襲い来るに違いない。そうなれば、この村

の平和もこれまで。ああ、わしが為に救われ、わしが為に滅ぶとは、何と皮肉な運命じゃろうか」

 ホルマルはこれまた突然に声を大にして泣かれ、通り過ぎる人々の失笑を買われた。

 涙さえ買われてしまうとは、流石はコビットの中のコビット、ホルマル。偉大なりし英雄には、捨てる

所などありはしないのだ。

 捨てるなどと生易しい事は言わず、全てを完全に処分していただきたい。

「なればこそ、はよう食わねばなるまい。しかし何という事じゃ! 財布が無いではないか。まさか昨夜

の激闘の最中、何処かへ落としてしまったのだろうか。流石のわしも財布が無くては何も買えぬ」

 ホルマルは初めから財布など持った事も、触った事もあらせられないのだが。想像力だけは逞しい故、

昨日の夢にでも出てこられたのだろう。またしても声を出して泣かれ始め、周囲の平和に暮す住民達に対

し、非常な不快感を与えてしまわれた。

 やはりホルマルは全てに影響を与えられる、偉大なるコビットなのであろう。

 だが無い袖は振れない、と云うように。金か交換できる品かが無ければ、本当に何も買えない。

 ホルマルは元より、家財といえるような上等な物を所有されておられず。今も人々の慈悲で辛うじて生

きていられるような身分であるからには、元手になる物もあるはずがなかった。

 涙が本当に売れれば良いのにと思うが、これは表現の一つであって、本当に売れる訳ではない。ホルマ

ルの涙など、むしろ金を払ってでも浄化したいと思う事だろう。

「致し方あるまい。こうなれば、やはり狩りに出かけるしかあるまいて。しかし肝心の道具が・・・・。

いや、あるぞ、狩れるぞ。道具など初めから要りはしないのだ!!」

 ホルマルに諦めるという心は無い。だからこそ救いようが無いのだが、こればかりはコビット神の悪戯

と、周囲のコビットの方が諦めている。

 また何か碌(ろく)でもない事を閃かれたのだろう、毎度のように突如走り始め、周囲に埃と迷惑をま

き散らかしながら、ホルマルは一心不乱に森への道を駆けて行かれた。

 幸い、村は森に囲まれている。実はまったく方角や方向など考えておられなかったのだが、何処でも真

っ直ぐさえ行けば、いずれは森に辿り着けるのだから、ホルマルは幸運の下に生まれたとしか言いようが

ない。

 正にコビット神の賜物であらせられる。




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