3-6.仰げば尊し


 ホルマルは無事に森から救助され、どうしても放さない丸太と共に、自宅へと収納された。

 下男が面倒臭そうにホルマルを受け取り、ベッドの上に乗せるような力が無い為、玄関にほったらかし

にする事で、ホルマルは無事帰還されたのであられる。

 ホルマルは数多の苦難に関わらず、まるで瞑想する求道者のように熟睡されていたのだが、下男が何度

も扉を開け閉めしたせいか、その扉がその度にホルマルに痛烈な打撃を与えたせいなのか、程無く目を覚

まされておられる。

 今まではここで自らの過去と未来と、そしてその狭間にある現在というものに翻弄され、全てに悩まれ

る所であられたのだが。ハレイヨの呪縛に打ち克ったホルマルは一段と成長を遂げられておられ、今更そ

のような迷いに振り回される事はなかった。

「いざや行かん、議会場へ!!」

 そう、ホルマルはご自身が遭難され、そうして自宅へ連れ戻された事など理解されておらず、いやむし

ろそのような些細な事などは超越され、時間と空間を超えて、森での出来事から今に到るまで、全く整合

性が無いにも関わらず、その叡智によって見事に結合されておられたのであらせられる。

 まるで森を行くと自宅があった。そのような気持ちでホルマルは全てを悟られ、ありのままの全てを受

け容れられておられる。

 何しろホルマルは鍋、ボロ布、丸太、という三種の神器を揃われておられるのだ。最早全ての呪縛は無

意味であり、全ての常識という名の愚かな決め事さえ今のホルマルには通じず、全ての目論見は露と消え、

ただコビット神のみがそのお心を知られておられる。

 それはとうとう完全に呆けてしまわれたというではなく、あくまでも全てを超越された、真ビットとで

も云うべき存在へ、生まれ変れられたという事だ。

 全ての不条理と不合理を超え、ただホルマルの名の下に、全ては一つに、完全なる一つへ還った、と云

う事である。

 ホルマルは三種の神器によって悟りを啓かれ、この自然に満ちる無限大のエネルギーを得、今全てのイ

ヨ達の野望を挫くべく、議会場へ向われている。

 なんと云う雄々しさ、なんと云う情熱、なんと云う信念であらせられよう。

 ホルマルは邪魔な通行人や障害物を手にした丸太で弾き飛ばされ、襲い来る敵の攻撃を鍋で防ぎ、最低

限のエチケットを纏ったボロ布で解決され、正に霊柩車でも逝くような、誰も逆らえぬ一種のあの妙な空

気をかもし出しながら、只管に進まれている。

 誰もそれを止める事は敵わず、全てのイヨはホルマルの前に屈したのであった。



 議会場には爽やかな空気が流れている。

 外に居ても中からひんやりとした冷気が来るのを感じ、いつまでもそこに居たい気持にさせる。これこ

そがあのイヨの誘惑。コビットの始祖がその誘惑に屈する事で、この世に全ての邪悪を撒き散らす事にな

ったという、あのイヨの誘惑そのものであろう。

 腐っても神。イヨも怖ろしい力を持っている。並みのビットではあっさりとこの誘惑に屈していた事だ

ろう。

 しかしホルマルは違う。何故ならすでに皮膚で気温を感じられるような、そんな上等な感覚は持ち合わ

せておられず、色んな事があったせいで益々衰えられ、今ではもう爽やかな冷気など一切感じ取れなくな

ってしまわれておられるからであられる。

 そうであるからには、最早涼しげな誘惑など無意味。ホルマルの前に全ての誘惑もまた屈するのだ。

 議会場の門番もまた、ホルマルを止めようとはしなかった。面倒臭そうに一瞥しただけである。

 ホルマルの威光の前には、全ての存在は屈するのみ。後で叱られるよりも、今ホルマルと関わる方が厄

介であるからではない。三種の神器を持ったホルマルに怖れをなし、心から敬服し、その意に従ったので

ある。

 何度も繰り返すが、決して面倒臭いからではない。

 それに三種の神器という正当性を持っておられる以上、門番にはホルマルを止めるべき理由は無く、た

だ圧倒され、萎縮しているより他にはないのだ。

 ホルマルは丸太を抱え、意気揚々これみよかしと進む。

 室内には涼しげな空気。惜しげもなく大氷が置かれ、涼が取られている。これが寒くなってくれば、そ

こら中に火が焚かれ、場内を暖かさで満たしていた事だろう。

 金と見栄の結晶。イヨ達が嘲笑(あざわら)う声が聴こえてくる。

「善良なコビットを騙しおって!!」

 ホルマルは丸太を揮(ふる)い、手近の氷のほんのちょっぴり端っこを砕かれた。

 今のホルマルはある一定の基準を遥かに越えておられ、ぷっつりとさる大事な部分が切れられた事で、

逆に元々腐っていた脳みそと体が、逆療法で活性化されておられるのかもしれない。

 それは往年のホルマルを見るように、誠に猛々しい戦士振りであらせられた。

「キャーーーーーッ!!」

 その姿を見、主にぎりぎりのボロ布をまとった半裸姿を見、女性達が悲鳴をあげて逃げ惑う。

 声を聴いて警備員がやって来たが、ああ、ホルマルか、とうんざりして持ち場へ帰って行く。柱でも壊

されたなら心配だが、氷なんぞいくらでも壊せ、安いものだ。とでも言わんばかりの表情である。

 以前ホルマルに氷を盗まれた事もあるが、今もって指名手配されていないように、皆氷一つで済むなら

安い物だと考えているのだろう。

「うむ、憎きイヨにかけられていた呪縛が解けたと見える。女子達も警備の者も、皆すっかり元に還った

ワ。やはりこの氷こそがイヨの力の源。これを全て壊せば、この地にも平穏が訪れるはずじゃわ」

 気を良くしたホルマルは、議会場内を走り回り、目にした氷を只管に砕き続けられた。

「これで全ての呪縛は解けた。後はあのイヨの手先を成敗すれば終わりじゃい」

 氷を滅したホルマルは、中心部へと向われる。その途中にも氷が置かれていたが、ホルマルの中ではも

う全て砕いた事になっているから、そんな物はまやかしであって気にするような事ではない。

 愚かなイヨの幻術など、ホルマルには効かないのである。何しろ四六時中幻術にかかっているようなも

のなのだから、今更一つ二つ幻を付け足したとしても、大して変らないのだ。

 むしろその為にこそ普段から自己暗示をかけられ、常に酩酊(めいてい)状態にも似た、滑稽(こっけ

い)さ加減を滲(にじ)み出されておられるのであろう。ホルマルが何の意味も無く呆けておられると考

えるのは、大きな間違いである。そのような卑小な考えに左右されず、大きなホルマル視点で、余りにも

大き過ぎる為にかえって損なうような視点で、ホルマルを理解しなければならない。

 これはもう決定された事であり、嫌でも目を逸らす事の出来ない現実なのである。

「雁首揃えよって、このイヨ共めが!!」

 大声一喝、ホルマルは円卓に座り会議を続けていた議員達に向かい、猛々しい声を挙げて、勢い良く突

進された。

「な、なんだ?」

「ホ、ホルマルだ! ホルマルが来たぞ!」

「警備員は、警備員は!?」

 騒然となる議員達。

「とおりゃああああああああッ!!!」

 慌てふためく議員を心中で哂い、ホルマルは気合一閃、議員共の象徴とも言える円卓へと、手にした丸

太を叩き付けられた。

 するとどうだろう、あれだけ剛力を発していた筈の丸太が、円卓に触れた途端、派手な音と共に、粉微

塵に砕け散ってしまったではないか。

「なんとな!」

 ホルマルは砕け散った木片を呆然と眺めながら、その鉄の心が今初めて驚きと恐怖に支配されていくの

を感じておられた。コビット神から授かった杖が壊れた。これは即ち、コビット神の敗北を意味するので

はないか。ホルマルの米粒のような信仰心は今何百度目かに揺れ動き、神への絶対的信仰をすら揺るがす

迷いを覚えたのであられる。

「なんと云う事じゃ、なんと云う事じゃあ!!」

 ホルマルは耐え切れず、くるりと反転し、一目散に駆け出され、全てに目を背けて逃げ出された。

 敗北を知った以上、最早逃げるしかないのである。幼き頃より数多の戦場を経験された、ように感じる

ホルマルには、敗北の意味と、敗北した以上最早逃げるより他に無い事が、誰よりもはっきりと解るので

あらせられる。

 経験しておられるが故の弊害と云えるだろうか。なまじ知っておられるが為に、その恐怖からは逃れら

れない。

「何だ、何が起きた」

「解らん。だがとにかく掃除させよう」

「それにしても汚い木だな。腐ってボロボロ、スカスカじゃあないか」

「何にしても、ホルマル害がこの程度で済んで良かった」

「全くだ」

 議員達が嘲笑う声も、今のホルマルには届かれない。

 ホルマルは心を涙で濡らしながら、一目散に撤退されて行かれたのであられた。



 議会場から出られても、ホルマルは放心状態のままおられる。全ての力を失くされ、五十も余計に歳を

取られたかのように、全ての事に元気と云うものが感じられない。

 生きる屍という本来の姿を取り戻されたホルマルに、それ以上走り続ける力は、もう残されておられな

かった。次第に足が止まり、歩速がゆっくりになる。

 門番が胡散臭そうに見送る中、ホルマルは一人とぼとぼと帰路に付かれた。

「これは夢じゃあ、夢なのじゃ・・・」

 全ての希望を失い、文字通り絶望という本来の感情を取り戻されたホルマルには、この紛れもない現実

を夢と思う他に、気力を保つ手段を持っておられなかった。むしろこのままくたばってしまった方が世界

の為とはいえ、そう簡単にはいかないのがホルマルであられる。

 永遠の傍迷惑、というキャッチフレーズに相応しく、ホルマルを滅する事などは、誰にも、自分自身で

さえ、出来ないのであろう。

「何、あの汚いボロキレ」

「見てはいけません!」

 あまりにも無様で汚いホルマルを見せては目の毒と、子供を必死に遠ざけようとする母ビットの懸命な

姿を余所に、ホルマルはとぼとぼと進んで行かれた。

 例の飯屋を通り抜け、門を潜り、自宅の扉を開け、そしてベッドに倒れ込まれる。

 そしてそのまま誰知る事無く、眠りに付かれた。全ての戸締りを忘れたまま、ホルマルは一時の安息を

求め、深き睡眠の内へと沈まれたのであらせられる。

 下男が開けっ放しの窓や扉に気付いたが、盗る物があるくらいなら、とうの昔に自分が盗って逃げてい

ると、ゲオトコのシタオトコである愚かさを発揮し、彼の中では無かった事にし、そのまま何処かへ行っ

てしまった。おそらくまた何か良からぬ事でもするつもりなのだろう。

 むしろ開けっ放しの方が換気も良く、涼しくて良いと考えるのが、下男の下足る所以である。




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