4-3.この心、燃やし尽くせ


 一度走り出したホルマルは誰にも止められない。特に炎に包まれたまま駆けるホルマルに関ろうと考え

る者は皆無である。冥府の魔王だか、馬黄だかいう硫黄にちょっと似た臭いを出すという何とも言えない

恐るべき存在ですら避けて通りたいくらいだと、小一時間は悩みそうなくらい皆無である。

 全てのコビットはホルマルの放つ神聖な炎の前に畏れをなし、散り散りになって逃げていく。例えそれ

が聖なる浄化の炎だとしても、いやだからこそ、コビットはそれを恐れるのである。誰もが悪を憎みなが

らも、悪を放そうとしない矛盾さを持っているから。

 偉大なるコビット神がホルマルという使者を使わし、何をなそうとなされたとしても、コビット達に

受け入れられなければ救済を与える事は出来ない。

「あちゃちゃちゃちゃちゃちゃッ」

 そんなホルマルの尊いお言葉にも、耳を傾けようとする者は居なかった。

 嘆かわしく、悲しい事であるが、これが現実。だからいつまでもコビット達は救われないのだろう。

 しかしホルマルはその程度で諦められるような、腑抜けた心の持ち主ではあられない。コビット神もそ

れは一も承知であられる。だからこそホルマルのような何者にも屈しない、誰よりも鈍い心の持ち主にそ

の役目を与えられたのであらせられよう。

 気高く鈍い心をお持ちのホルマルが、百度や二百度の失敗で挫けられる筈がない。見よ、ホルマルはコ

ビット達の悲しき仕打ちにもへこたれる事無く、果敢に向かわれてイカレル。

「火がくるぞ、火がくるぞ!」

「危ないッ、あっちいけ、火だるまめが!」

「こんな野郎は井戸にでも落としちまえ!」

「そうだそうだ、あの糞井戸にでも落としてしまえばいい」

「さあ、押せ。やれ押せ。落とせや、落とせ」

「えいえいおー、えいえいおー!!」

 何ビットかの勇気あるコビットが集まり、物干し竿や草かきなどを持って、ホルマルを押し始めた。彼

らの目標は少し外れた所にある、今は使われなくなった古井戸である。

 随分昔に疫病が流行り、どうもその原因がその井戸にあったらしく、その時からずっと封じられたまま

になっていたのだが、確かにまだ水はあり、そこに落とせば上手く消火できる筈だった。

 例えその結果ホルマルがどうなられようとも、そんな事は問題ではない。コビット達はホルマルの事を

恐ろしき火の魔物としか考えておらず、むしろ始末できるのならいくらでもお金を払うくらいの気持ちで

いたので、その力と勢いは真に大したものであった。

 流石の傲力ホルマルも、集団の前には敵わない。よってたかって手にした棒で殴られ突かれ、身を焼く

炎で地獄の苦しみを存分に味わわれながら、その役目を全うする為、必死にその苦痛に耐え続けられるし

かなかったのである。

 こうして人の苦しみを代わりに受ける事も、ホルマルの大事な使命の一つなのであらせられる。

 そして神はそんなホルマルを見て一時の笑いを得、心の慰みとされ、世界は平穏にこのまま続いていく

寸法という訳だ。

「お、井戸が見えたぞ」

「いいぞ、もう少しだ、押せ押せ、突き落としてしまえ!」

「えい、えい、オー!!」

 ホルマルはひたすら体中を突かれながら井戸の蓋の上に押し上げられ、そのまま棒やら何やらで一心に

打ち据えられ、腐ってもろくなっていた蓋は砕かれ、破片と共に奈落へと落とされてしまわれた。

「・・・・・・ちゃ・・・ちゃ・・・・ゃ・・・」

 ホルマルの最後の咆哮は、井戸闇に隠れ、誰の耳にも入る事は無かったそうじゃ。



 体中の熱が浄化されていくのを感じる。そして全ての火傷を覆い隠すように、冷たい物が染み入ってく

る。いや、なんて暖かいのだろう。冷たい筈が酷く暖かい、体中が燃えるようだ。燃えるように痛い。

「いたたたたたたッ、なんじゃこれはッ!!?」

 ホルマルは井戸に満たされた水を、必死にその短く醜い手足でかかれ、苦しみに絶叫された。

 井戸に落ちた事で体中を覆っていた浄化の炎が消え、井戸水にお体を侵食され始められたのであられる。

汚い水がお体を浸食する度、激しい痛みが全身を走られる。

 その上井戸の中など流石のホルマルでも未体験。上にぽっかり明かりが開いているから上下の区別は付

いたが。もし蓋が壊れていなければ、訳が解らないまま溺れられていたかもしれない。

 元来ホルマルの体というものは、泳ぐようには出来ておられない。水には浮き難いし、その身長にして

はずんぐりと重いので、まるで水底から足を引っ張られるように、沈んでしまわれるのである。

 今は必死の水かきで何とか水面から顔を出しておられになるが、このままでは長くは持たれないだろう。

 もしこれが火傷を負っておられにならず、健康体のまま井戸に落ちられていたとしたら、有無を言わせ

ず溺れてしまわれていたかもしれない。

 この痛みによる錯乱状態により、無意味に手足をばしゃばしゃと動かされておられるからこそ、辛うじ

て溺れずにすんでおられる。

 その身を護っていた浄化の炎は、消えて尚、その傷跡に染み入る痛みでホルマルを助けている。これを

神の加護と言わずして、なんと呼べば良いのか。

「ぷえッ、ぷへッ、ぷぇっぷ」

 しかしそれも長くは持たない。ホルマルは懸命に手足を動かされておられたが、徐々にその力が弱まり

始められ、少しずつ顔が水面に沈んでいかれた。

「あぱば、ぼばば、えぶり、ぶっふじぇい」

 流石の神の力も井戸の奥までは届かぬのか、ホルマルもその身を穢れた水に託すより他になかったので

あらせられる。



「ぶぼぼぼえら、べるぼぼなっとふ」

 空気が漏れないように黙っておられればいいものを、神の与えし試練の更に上を目指そうとでも言われ

るのか、残り少ない力を空気と共に吐き出され、みるみるうちに顔色が悪くなり、手足に行き渡る力が衰

えていかれておられる。

 四方八方水に包まれ、これこそが宇宙であると言わんばかりに、ホルマルの世界は水に包まれ、全てか

ら穢れた臭いがした。

 おお、この臭いときたら、ホルマルよりも若干臭うではないか。なんという汚れ、世界にこれほどの汚

れがあったとは、おそらく汚神も穢神も裸になって嬉々として濁井戸温泉と洒落込んだだろう。

 しかしやはり神はホルマルをお見捨てになられなかった、よせばいいのにお見捨てになられなかった。

 井戸水の水嵩はホルマルと大して違わず、ふと気付くととうの昔に底へ足が付いておられたのであらせ

られる。ほんの拳一つ分も上に出れば、水面に顔が出せるというのに、ホルマルはそれでも見事に溺れて

おられた。このぎりぎりの境界を見極められるのが、神の英知というものであるのだろう。

 これは洗面器に入れた水でも溺れられるという噂を証明するに足る事態である。流石はホルマル、こん

な火急の時でさえ、コビットの英知の為に身を尽くされようとされるのか。科学者などといういかがわし

い者達は、この愚かなホルマルを見習うがよかろう。

 どの道誰もが馬鹿な事をやっているのだから、自分はホルマルと同等だという事に、今更ながら気付く

が良いのだ。そうすればホルマルも少しは役に立たれるというものであるのだから。

 ホルマルは無限に溺れていかれる。その姿はまるで例えようも無く、いやむしろ例える事さえめんどく

さく、全ての過程は省きたいと思われるくらいであられたが。突如振り回しておられた手足を止められた

と思うと、恐ろしい勢いで井戸水を飲まれ始められた。

「べぶべぶぶえら、べぼらぼぼえ・・・・・べべい、ぶぉーーーーぅ」

 みるみる内に水嵩が減っていく。まるで吸引力が衰えない。世界でだた一ビット、吸引力の衰えられな

いホルマル。そういう呼称が相応しくも憎らしいくらい、その吸引は見事であられた。

 そしてとうとう全ての水を飲み干されてしまわれたのである。

「ふーーーーぅ、やっと一息つけたわい。はて、ここはどこじゃ」

 ホルマルは火傷の痛みもとうに忘れておられ、ここに落ちた理由など当然ご存知なく、阿呆面のままき

ょろきょろと四方を見回される。

 しかしどこを向いても壁と水と上から差す僅かな明かりしか目に入らず、結局何も解る事はなかった。

「ううむ、はて、どうしたものか」

 仕方なくホルマルは腕組みをされ、考えるふりをしてみる事にされた。




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