4-6.きんきらホルマル道中記


 きんきらを身につけられたホルマルは、そのきんきらをいかんなく発揮され、まるで夜道を照らす月や

星々を目指されるかのように、ゆっくりと照らし歩かれておられる。

 これはもう普通ビットを超えた普通、街灯ット言っても過言ではないだろう。確かにホルマルは普通を

極めようとされておられるようだ。ホルマルに妥協は許されず、ホルマルに程好くという言葉は決して当

て嵌まらられない。ホルマルは行くか他の道に行くかであり、どちらにしても行かなくては仕方があられ

ない性分なのであらせられる。

 しかしその中でも、移動式街灯というさりげない特殊さを演出しておられるのは、流石であらせられる。

その上、それでいてホルマルとは認識されず、きんきら街灯として世に広まられたのもまた流石と言わな

ければならない。

 目立ちながらもその存在を知られる事はない。確かに普通ットの範囲に留められておられるのだ。

 誰もホルマルなどという名を覚える事はなく、ただのきんきら街灯であり、むしろそのきんきら服にこ

そ価値があるのであって、ホルマルご自身に何かしらの価値があるのだとは認めていない。

 ここにも逆説的で皮肉なホルマルの偉大さが隠れている。いくら目立とうと、その付属物だけが目立つ

のであって、ホルマルご自身には何者も注意を払わないのである。

 ホルマルがホルマルであるからこそ目立たれるのではなく、ホルマルに付属する事で、ホルマルが余り

にも取るに足らない意味の無い存在であらせられるからこそ、その付属物が目立ち、引き立つという寸法

なのだ。

 ここにホルマルの偉大さがあり、卑小さがあられる。ようするにそれは何かと何かを比べる事で初めて

はっきりする事であるからには、ホルマルは対比させられる存在として、誰よりも、何よりも偉大なので

あられる。

 何せゼロどころかはるかにマイナスなのであるからには、何を着てもプラスに感じられる。

 この世にホルマル以外にはマイナスという存在が無いのだから、ホルマルは全てを引き立たせる力をお

持ちなのである。これを偉大と言わずして、卑小なる偉大さと言わずして、何と呼べば良いのか。

 ようするにホルマル一ビットでは何の役にも立たれず、皆の中に入られたとしても何の役にも立たれな

い。ただ、それらと対比し、あまりにも次元の低すぎるホルマルという存在を見る事で、皆が幸せを感じ

るのは確かで、その力が偉大なのである。

 あの下男でさえそう思うくらいなのだから、他ビットから見ればもう自分の全てが優れているように錯

覚させる程の魔力を、ホルマルという卑小なる存在は持ち合わせておられるという事になる。

 これこそホルマル効果、ホルマル力、無用の用を体現されておられるのだ。

 それがコビットだけではなく、こうして身にまとわれておられる衣服にすら及ぶのであるから、嫌々な

がら、真に偉大であると言わなければならない。不承不承でもそう言って差し上げなければならない。非

常な困難を伴い、自分に対する最大の侮辱であってもそれを認めなければならないのだ。

 こうして見る者に幸福感と拭い去れぬ悔しさを与え、それによってホルマルはホルマルのお姿を見る者

達に反省というものを促しておられる。これもまたコビット神がホルマルに与えた悪ふざけであり、言っ

てみれば唯一のちっぽけな存在価値であるのだろう。

 それはつまり、無くても問題ないがまああっても別に良いか、とくらいには思わせる事の出来る、大い

なる祝福である。この力無くしては、とてもホルマルという存在は生きてこられなかっただろう。その救

いが無ければ、余りにも無慈悲であった。

 行き交うビット達は皆ホルマルのきんきらに目を留め、余りにも古臭く、そして趣味の悪い姿に失笑す

るが。しかしホルマルのご尊顔を仰ぎ見るに、余りにも哀れに想い笑いを止め、皆一様に悲しみの視線を

ホルマルへと送る。

 その存在はそれ程に哀れで、見るに堪えない物体なのである。そんな卑小で汚く、気持ち悪く、全ての

無意味さが結集したような存在を見て、自分がコビット神に確かに愛されているのだと錯覚し、それまで

の自分の行いを反省する事が出来るのだ。

 流石はホルマル、全てのビットに反省心を呼び起こし、今まで馬鹿にしていた者に対してさえ哀れみを

持たせる事が出来るとは。

 こんな事は並みのビットにはとても真似は出来ない。真似なんか到底したくない。やはり普通ビットを

気取られても、ホルマルの偉大さは隠せないようである。

 だがホルマルはそんな視線の変化など気にされる様子もなく、いつも通り愚かな足取りで目的も無く進

まれていく。

 この世に生まれ出でてから他ビットに哀れまれる事が当たり前だったホルマルにとって、その視線は心

地良い普通感しか与えず、とても心地良いものであられた。まるで何年も何十年も使ってきた愛用の品に

出会えたかのように、それはとてもしっくり来る視線なのである。

 そしてその視線が多ければ多い程、心の中にほんわりとした心地良ささえ現れてくる。

 これだ、この為に自分は生きてきた。そしてこれからも生きていくのだという誇りが生まれてくる。

 自分の意味と価値を実感出来るのは、どんな痴れ者にとっても素晴らしい事だ。

 これもまたコビット神が与えられた祝福であらせられよう。



 ホルマルがふと足を止められた。しかしそれはご自分の意志ではあられず、文字通り止められたのだ。

 止めたのは見知らぬビットで、仮に見知らぬビットと呼ぶ、あまりにも見知らぬ為に見知らなさがにじ

み出ているビットだった。

 ホルマルは当然知らぬ存ぜぬで足を踏み出して行かれようとされる。しかし止められているだけではな

く、この見知らぬビットがまるで自転車こぎのように、ホルマルの足回転に合わせて、丁度上手い具合に

空回りさせるものだから、実際には全く進んでおられない。

 その空回りは、後の世にホルマルこぎというダイエット商品を生み出すきっかけとなった程の見事さで、

全く前には進めず、カロリーだけが上手い具合に減っていく。ある種のビットにとっては都合のいい、夢

のような出来事であられたが、ホルマルは全く気付かれておられない。

 気付かぬまま永遠に歩かれておられた。

 何しろいつも地に足がついていない生き方をされておられるのだから、ご自分が進んでいるのかいない

のかさえ、ご自分では判断出来ないのも当たり前なのである。

 ホルマルは何度も何度も足を空回りさせられ、そんなこんなでとうとう日が暮れてしまった。



「ふぃーっ、今日も歩いたわい」

 ホルマルは心地良い汗を袖でふき取りながら、袖に付着していたきんきらがそのご尊顔にべっとりと付

いてしまわれても何ら気にされないままのお顔で、その場にゆっくりと腰掛けられた。

 ホルマルが腰掛ける所、そこが即ちホルマルのご自宅であり、ホルマルの居場所であらせられる。この

世の全てがコビット神の与えられし物であるならば、コビット神の使いであるホルマルには自然にその全

てに使用権が認められる事になる。

 例えそれが大きな間違いでしかないとしても、それはそういう事になるのである。

 そしてその場でホルマルは就寝され、夜明けと共にご起床され、再び歩き出され始められた。これもま

たいつものホルマルであらせられる。

 しかし相変わらず見知らぬビットがそのおみ足を大変巧みに空回りさせるものだから、ホルマルは進ん

でいる気持ちになられながらも、相変わらず一歩として進まれておられない。

 そんな事が実にもう五日も続いていたのだが、ホルマルとしては一歩も進んでおられないのだからお腹

も減られないし、喉も渇かれない。何しろ進んでいないのだから、それは消費しないと同じ事で、全ての

放出されたエネルギーは、全てホルマルの元へと、足と共に戻るのであらせられる。

 それが例え錯覚だとしても、ホルマルに対する物理的現象は、全てそれで説明出来るのだ。

 つまりそれだけ見知らぬビットの空回りが巧みという事であり、おそらくこの見知らぬビットは、全コ

ビット見知らぬ選手権見知らぬ内に見知らぬ相手を見知らぬ限り見知らぬように空回りさせる世界大会準

優勝くらいはいっていると考えられる。

 勿論それは予想でしかなく、実際は十三位とかであるかもしれないのだが、確かにそれくらいの心意気

はあって良さそうなものだった。でなければ、優勝者がとてつもない事になり、あまりにもとてつもなさ

過ぎて書き表す事さえ出来ず、こちらとしては困った事になるからだ。

 そんな困った事になるくらいなら、何となくぼやかして何気なくほっこりさせた方が十倍はいい。

 まあそれはそれとして、ホルマルは当然の如く見知らぬビットには気付かれておられず、ご自分がその

場でこの五日の間空回りし続け、実はさりげなく発電し続けておられたという事実にも、一向気付かれて

はおられない。

 行き交う人もこんなおかしな二ビット組に関わりたくないからには、誰もそれを指摘しようとはしなか

った。哀れみと不信感のこもった目でホルマルと見知らぬビットを見、その視線がこの二ビットをたまら

ない陶酔感へと導くのみでしかない。

 そんな風にして、便宜上、とうとう十日目の朝が明けてしまった。



 その日ホルマルはご自分の、いやさ衣服のきんきらが、かなりの勢いで衰えている事を覚られた。

 長い年月耐え抜いたきんきらも、おそらくホルマルの体臭や汗、その他諸々にはとてもの事敵わなかっ

たのだろう。見る見るうちにきんきらが剥がれ落ち、今ではきんき、どころか、きん、いや、き、と呼ぶ

のも難しいくらいになっている。

 これがきんきらホルマル道中記であるからには、由々しき問題である。何しろあいでんとぅぃとぅぃと

かいう何とかの危機であると考えられるからだ。

 しかしそこはホルマル。そんな事は一向御気になさらず、すぐにきんきらそのものさえ忘れてしまわれ

た。ホルマルはその時目にしたものが全て。昨日の事どころか、一分前の事も容易に忘れられ、今の事し

か認識できないと言う生命の愚かさを、その身をもって知らしめておられるのであられるからには、きん

きらが剥がれた事も、初めから無かった事になるのである。

 だから程好く汚れてきたき服にも、全く頓着されておられない。

 そしてきんきらを見事にきまで貶めた見知らぬビットは、ほくそ笑みながら、その手をホルマルのおみ

足から離し、ホルマルに再び自由を与えたのであった。

 果たしてこの見知らぬビットが何者なのか、目的は何であったのか、それは見知らぬが故に解らない。

 ただ想像させてもらうのであれば、何かむしゃくしゃしてやったか、それとも単にこのきんきらが目障

りだったかのどちらかだろう。それは正直な感想である。

 しかしそれだけの為に十日という時間を費やすとは、何と言う恐るべきビットか。そこには何者かの明

らかな陰謀の影を感じるが、大体においてそれは勘違いというものである。

 おみ足とお味噌汁の音が何か似ていると思うのも、ただの錯覚だろう。

 ともあれ、こうしてホルマルはきんきらホルマルからきホルマルとなられ、そのきも数日もすれば完全

に消えてしまい、ただのホルマルに戻られたのであらせられた。

 その衣服もきんきらを失ったからにはただの趣味の悪い衣服でしかなく、更にホルマルへの哀れみが強

化され、その道々で物を恵んでくれるビットも増えたのだった。

 これが見知らぬビットの狙いであったのならば、あの見知らぬビットもまたコビット神の使者、或いは

化身であったのかもしれない。

 とすれば、ホルマルにきんきらなどは勿体無いと思われたのか、それともコビット神はきんきらを敵と

されておられるのだろうか。

 まあどちらにしてもホルマルがただの小汚い爺ビットに戻ったというだけの事であり、それ以上の何事

でもないのだろうが。それにしても塵芥にも及ばなかったホルマルが、小汚い爺にまで昇格されたという

のは目出度くもあり、恐るべき事でもある。

 これはホルマルがビットビットに一ビットとして認められてしまうという事に繋がり、ビットビットの

目にコビットとして映るようになっているという事を意味する。

 ホルマルはこの一大転換期にも持ち前の鈍さで全く気付いておられないが、また一歩普通ビットへと近

付いたのであらせられる。

 きんきらホルマルからただのホルマルに還るという事は、確かにそういう事だ。

 もしかすればこれもホルマルの深慮遠謀の結果なのか。だとすれば、確かにホルマルは恐るべき存在で

あられる。ご自分では何も考えられず、何もされておられないのに、知らぬ間にその望みへと一歩近付い

ていく。これは恐るべき事だ。

 まさにコビット神の悪ふざけ。存在そのものが悪戯であるように感じる。

 ホルマルという存在を理解するには、まだまだ多くの謎が残されているようだ。

 そんな思考をよそに、ホルマルは今日も進み続けられる。その果てに何があるのか、何もないのか、そ

れすらどうでも良いと思えるくらいに。




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