5-4.宿命の臭い、ババサモ対ホルマル


 果たしてホルマルの鈍りきられた鼻でババサモの臭いを探れられるのか、というそもそもの問題が浮か

ぶかもしれないが、その心配は要らない。何しろホルマル以上の臭いを発せるのは、コビット狭しといえ

どもババサモくらいしかおらず。自分よりもちょっと臭いかもしれない臭いを嗅げば良いのだから、いか

に鈍ったホルマルの鼻でも、万が一くらいには辿る事が出来るかもしれないのである。

 だから何も心配する必要はなく、全てをホルマルに委ねてしまえばいい。そう、ホルマルの後を付ける

みビットのように、余りにもあまりな臭いに身を震わせながら、歓喜と共に歩めばいいのだ。

 ホルマルは躊躇(ためら)い無く進んでイカレル。その姿を拝見すれば、その前途に迷いはあられず、

いかにも自信を持って歩まれておられるように見えるが、当然ホルマルに自信などは存在されない。ただ

本能の赴(おもむ)かれるまま、自分に匹敵する、或いは超えるかもしれない臭いを追われておられるだ

けであられる。

 みビット邸の臭いに触発されたホルマルは今、ご自分の意志とはあまり関係なく、ただただ何か臭う方

へと向かわれておられる。これこそがみビットの狙い。残念ながらホルマルも今はみビットの掌の上で踊

らされていると言わなければならない。

 悲しいが、これもまた一つの真実なのである。

「おう、なんじゃいこの芳しい匂いわ」

 しかし突如その真実はまるで真っ二つにへし折られるかのようにして、無意味なものとなってしまった。

 ホルマルの鼻を襲った芳しい匂い。それはホルマルの好物にして唯一味の違いの解るかもしれない、少

なくともそういう雰囲気は持っている、やわらかくるみパンの焼きたての匂いだったのである。しかもそ

のくるみパンはふんわりという称号まで冠していた。

 つまりはふんわりやわらかくるみパンであり、その魅力の前にはババサモなど裸で反り返っても二億倍

は劣るくらいの代物なのである。

「たまらん、たまらん匂いじゃあ・・・・」

 ホルマルはふらふらとそちらの匂いの方へ導かれられ、ババサモの臭いなどはもう一欠片も気にされる

事はなかった。そもそもババサモを探しておられた事すら、今のホルマルは忘れておられるのだろう。

 もっと言えば、息をする事、生きる事すら忘れておられたかもしれない。

 今のホルマルの全ては、言うなればふんわりやわからくるみパンであられ、そのくるみパン以上にくる

みパンでない限りは、ふんわりやわらかの魅力からは決して逃れられないのであらせられる。

 何しろふんわりでやわらかであるからには、全ての臭いを凌駕する程の恐るべき力を有するのだ。

 それは何億年か何千光年だかにまで遡るだか遠ざかるだかする何某かの某による何某かの某であって、

それがなにがしだかそれがしだかは、その明確さの違いによっても判断できるものの、基本的には特にど

うという事もないというべきなのか、とにかく別に詳しい事は必要ないと判断されるべき事柄でありなが

ら、それだけに判別が難しい問題だと言うべきなのである。

 つまりはホルマルにくるみパンに抗う力などは欠片もないと言う事が宇宙の法則によって明らかに出来

るという事だ。

 ホルマルはふらふらと匂いの方に近付かれたかと思うと、その速度は見る間に加速され、遂には怒濤(ど

とう)の勢いとなられて、焼きたてふんわりやわらかくるみパンが山のように積まれたパン屋へと突撃さ

れる。

 しかしこれを苦々しく思ったのが例のみビットである。みビットにとってそのような匂いは全く問題で

はない。少しでも早くホルマルを上回るかもしれない臭いを嗅ぎたいのに、このままではホルマルがその

事を忘れ、くるみパンの側から永遠に離れられなくなられる可能性まで出てきている。

 ババサモに辿り着く唯一の手がかりがホルマルであられるからには、その唯一の手がかりをこんな所で

奪われる訳にはいかない。

「このままではあいつの臭いを手放した事が無意味になってしまう。そうはさせん。そうはさせんぞ。パ

ン屋などに俺の邪魔をさせるものか。もし俺の邪魔を出来るとしたら、話に聞くあの臭・・・・・ぺらぺ

らぺーら、ぺらぺーら」

 みビットは意を決し、というよりは胃を決し、くるみパンへとホルマルを上回る執念の速度で突撃し、

自らの臭いで全てのくるみパンを侵食したのみでは飽き足らず、店中に自らの臭いを満たし、その上で腹

も減っていたのでがつがつとくるみパンを平らげ始めた。

「な、何しやがるこの乞食め。俺が精魂込めて焼いたくるみパンを、今日も楽しみにしていて下さるお客

様達の為に心を込めて作ったくるみパンを・・・・・許せん、許せんぞ、貴様ぁぁっぁぁぁぁぁっ!!」

 絶望を怒りに変え、もんどり打ってみビットへ飛びかかる、いやさ宙返りかかる店主。その肥満し、た

だでさえずんぐりむっくりしたコビットの更に倍はあろうかという肉体を軽やかに舞わせ、ふくよかな体

からくる重みにてみビットにしかるべき報いを味わわせようとする。

 しかしその威勢の良さもそこまでの事であった。

「店主、いつものように付けといてくれ。そうすれば後で執事なりなんなりが俺の代わりにいつものよう

に支払ってくれるだろう。ああ、むしろこの店ごと買い取ってしまおうか。その為なら金は惜しまんぞ。

何しろ今の俺にとってこの店の重大性というのは、あのかくも麗しき例の件の何が・・・・・ぺらぺーー

ららら、ぺーらぺらら」

「何だ、旦那でしたか。今日もご立派なお姿で、あまりにもご立派過ぎてあっしなんかの目にはとてもと

ても上手く映らなかった次第でして、へえ、これは失礼致しやした」

 近所で評判の変わり者、みビットの事は店主もようく知っており、みビット邸にも毎日のようにパンを

届けているからには、その顔もようく知っていた。そしてそれ以上にこの臭み。この界隈(かいわい)で

これだけの臭いをさせる事が出来るのは、コビット狭しといえどもみビットくらいのものである。

 いや、店主は今、そのみビットすら上回る臭いを感じていた。

「なんだこのまったりとせず、しつこく、その上でとろけるような不快感をもよおす臭いは・・・・。ま

さかこの旦那を上回る臭いがこの世にあったなんて。こりゃあ店じまいだ。すぐに店じまいだ。このまま

では店に臭いが染み付いてしまう。売るにしろ何にしろ、こりゃあたまらねえぜ」

 店主はとにかく急いでみビットごとくるみパンを店外へ放り出し、窓から何から全てを閉じ、しっかり

と鍵を閉めてしまった。

 見ればホルマルはもうすぐ側まで近付いておられた。危ない所であった。後数分遅れていれば、パン屋

にホルマルの臭いが染み付き、ふんわりどころかどこまでも臭いくるみパンしか作れなくなってしまって

いただろう。

 こうしてパン屋はその危機を乗り越えたのであった。これが俗に言う、ホルマルの乱、パン屋とホルマ

ルの素敵な関係、の真実である。

 こうしてパン屋は助かった訳だが、ホルマルは心から打ちのめされられた。何せ目の前で全てのくるみ

パンが奪われたのだ。その衝撃はホルマルの全てを蝕(むしば)み、気力を奪われるに充分である。

 しかしホルマルの記憶力は力と呼ぶのもおこがましい程であられたので、すぐに忘れられ。再びババサ

モの臭いに導かれるかのように、その場所へと向かわれ始められた。

 ホルマルの本能は記憶力の限界を超えられ、ただ一ビットのババサモを目指されておられる。

 何故。それは解らない。そもそも何故と考える事の方が間違いなのかもしれない。それは、コビットは

何かを食べる、何故、腹が減るから、何故、と繰り返すようなもので、結局はそういう気分だからという

事で片付けるしかなくなる問題なのだろう。

 そういうのを愚問と言うのであって、では愚問と公文、そして食うもんの違いとは何かと言えばまた別

の問題だとしても。この愚問に限っては全く苦悶とは違うのである。いや、苦悶と言っても差し支えない

のかもしれない。ただしそれが誰にとってかは甚だ不明瞭であると言う事だ。

 そういうものであるからには、ホルマルがババサモをちゃんと目指しておられたとしても、それはそれ

で不自然ではあられないのである。

 全てはそういう事なのだ。



 ババサモを目指されてどれくらいの時間が流れただろう。面倒くさくて数えていないが、とにかくホル

マルは何処か見慣れた場所へと到着された。ホルマル邸から10mと離れていない場所にあるのがババサモ

宅であるからには、それは当然の事であったとしても、ホルマルにとっては一大事件であられたと考える

方が自然である。

 しかしホルマルはすでに長い放浪生活を経験された事で、今ではもう自分に家があったという事すら忘

れておられた。むしろこの大自然こそが我が家であり、であるからにはつまりどこで何をしようとやりた

い放題であるとさえ思われておられる。だからホルマル邸という名のつまらない建物を見ても、何一つ思

われる事はなかったようであられる。

「ふうむ、このどこか懐かしい臭いは、しかし、いや、もう近い、そうじゃ、ここじゃ、間違いない」

 こうしてホルマルはとうとう偶然にもババサモ宅へ辿り着かれた。

 この時にはすでに背後を追跡していた筈のみビットの姿は見えない。何故なら、ホルマルの歩みに付い

ていけるコビットなど、この世に一ビットとして居ないからだ。食糧、水、睡眠、疲労、そういった当然

考慮されるべき問題を何一つ考慮しなくても何となく生きてイカレル事が可能であらせられるホルマルに、

一体誰が付いていけるというのか。

 みビットの誤算はそこにあった。彼はホルマルが常ビットと違うのは、そのどうしようもない臭いだけ

だと考えていたのである。しかしホルマルはそんな解りやすいお方ではあられない。そこに溝が生まれ、

その溝が然るべき結果をみビットへともたらしたという訳だ。

 その然るべき結果が果たして叱るべき結果だったかどうかは解らないが、とにかく然るべきものであっ

た事だけは間違いない。叱るべきが何かは解らぬのでも、然るべき事だけは解るものである。

「ふうむ、しかしここはどこなのだ。微かに覚えているような気もするが、はっきりとせんわい」

 ホルマルはしばし迷っておられたが、面倒くさくなられたのか考えるのを止められ、ずかずかとババサ

モ宅へと入られた。

 ババサモはいつものように盛大ないびきをかいて、ぐっすりと眠っている所であった。ババサモはむし

ろこっちの方が本業ではないかと思えるくらいにとにかく眠るババで、もうどちらがどちらのババだか解

らなくなる程なのである。

「おお、何と言う事だ。これは悪しき魔女に呪いでもかけられたに違いないわ。でなければこんな醜いコ

ビットがこの世にもあの世にも居るはずがない」

 ホルマルはババサモを見られ、大きく嘆かれると共に、その容姿に対して、自分を差し置かれて、大い

に同情の意を示された。

「さてもさてもこの醜さよ。しかしこの音は何と言う音か。一体どこからどうなってこんな音が飛び出て

いるのか。・・・・・ふうむ、もしやまだこの付近に魔女がいるのかもしれぬ。これは是非討伐せねばな

るまいて」

 ホルマルはババサモ宅を慎重に調べられ始められる。

 草があればとりあえず振ってみたり、すり潰された薬品らしき物を見付ければとりあえず舐められてそ

の余りの不味さに怒りと共にその薬品を床なりへとぶちまけてみられたりと、調査方法は真に慎重かつ冷

静に行われたのだが、結局魔女の手がかりとなるようなものを見付けられる事は出来なかったようであら

れる。

 流石のホルマルをもってしても、魔女が本気で隠してしまえば、それを見付ける事は困難であると言う

事なのだろうか。

 それとも初めから手がかりが残されていなかったのか。

 これは由々しき問題であったが、どうやらそれを解決する術も残されてはいないらしい。

「ふうむ、音はすれども姿は見せず。流石は魔女。これがミ女かム女、はたまたメ女でさえあれば、まだ

何とかなったものを」

 歯軋(はぎし)りされて悔しがられるホルマル。何一つ手がかりがないようでは、いかにホルマルとて、

どうする事も出来られない。

 だがその時ホルマルはある事に気付かれた。そう、他ならぬババサモの口からこの恐ろしい音が響いて

きている事に。

 これは盲点である。誰もまさか呪いをかけた本人の中に逃げ込むとは思わないだろう。正に灯台下暗し、

大正デモクラシー、男一匹ふんどし暮らし。これがホルマルであられなければ、おそらく完全に見落とし

てしまっていた。

「恐るべき魔女めが。こんな恐ろしい事を考えるとは、正に恐るべき魔女じゃ。これがこさるべき魔女で

あったなら、おそらくもっとこさっていただろうが、わしの目は誤魔化せんわい。貴様の命運もこれまで

じゃ。わしが自ら成敗してくれようぞ!」

 ホルマルは近場にあった何となく棒っぽい植物を一本手に取られると、勢いに乗せてババサモの口から

ババサモの体内へと入り込まれてしまわれた。

 何故そんな事が出来たのか。コビット神の悪戯、何となくやれそうだったから、ババサモが意外にいけ

る口だったから、等々様々な説があるが。このババサモは実は本当のババサモではなく、ババサモ形のト

ンネルであった、という説が有力である。勿論、何一つ根拠は無いが。




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