5-6.謎はすべて説けた


 ついに真理の扉は開かれた。

 ホルマル別荘の一角に、その扉は存在していたのである。

 長き時を耐え忍ぶように、閉じられたまま果てる事なき時間を過ごしてきたそれは、いつしかそのまま

時の渦へと溶けてしまうようにも思われていた。しかしその扉を今、運命のホルマルが開かれたのであら

れる。これこそ運命と言わずして何命と呼ぶべきか。

 それはひっそりと佇むお掃除道具置き場。しかし下男にしろホルマルにしろ清潔とは無縁の生活、いや

存在そのものが不潔と限りなく結びつき、それによって清潔のご加護から遠ざかるしかない者達にとって、

まさにそこは開かずの扉にして、禁忌の扉である。

 中には埃を被ったお掃除道具が乱雑に積み重ねられ、驚く程の数のお掃除道具が、驚く程に朽ちていた。

最早ゴミ置き場と大差ないそれも、しかしホルマル宅としては至上なる美しさにして、往時の勢い。

 つまりそこに下男の姿は無かったのである。

「やはりそうじゃったか。そうじゃったのか・・・」

 ホルマルの推理は全て的中された。

 ホルマルが完全なる迷探偵であられるからには、その推理に僅かな隙もあっていいが、決して答えを持

たれてはならず、常に迷われておられなければならない。しかしそれでいて的中される。それはその推理

が当たる事で、更なる混迷へと導く事を意味するからだ。

 つまり、そこから導き出される結末とは・・・。

「下男などという者は初めからおらなんだのじゃ。なんという事じゃ。これはなんという事じゃ」

 ホルマルは慟哭(どうこく)された。

 何故ならば、余りにも埃が多い為に、その埃成分によって肺を犯され、咽てしまわれたからであらせら

れる。埃というものが微細にしてしつこく、それでいてまったりとはせず舌触りの甚だ悪いくせに、しか

しそれが口に入ってもほとんど気付かないようなとんでもないものであるからには、例えホルマルであっ

てもその埃という現象を全て防がれる事は不可能なのであらせられられられる。

「わしは長い長い夢を見ていたようだ」

 こうして全ての謎は解けてしまわれたが、しかしこれでは下男にホルを与えるという目的が永遠に果た

せない事になってしまう。例え偉大なりしホルマルといえども、存在しないものにホルを与える事は出来

ない。何故ならホルとは、ホルとは、ホルとは・・・・・そう、何となくそういうものだからだ。

 ホルマルは打ちのめされられ、力なくそのままふらふらと外へ出てイカレタ。

 夢から覚められた以上、改めて今日一日の生活を送らなければならないからだ。夢から覚められるとは、

また今日という新しい一日が始まる事を意味する。



 ホルマルは全身に日光を浴びられておられる。

 思えばこうして日向ぼっこの真似事をするのはいつ以来だろう。前にやった時は遥か昔、ホルマルの青

年時代にまで遡(さかのぼ)るような気さえする。もっとも、単にそんな気がされるだけであられるが。

「おお、良いお日柄だわい。こんなお日柄の日はあれを思い出す。そう、遥か昔わが祖ホルムンマルクス

マイナス七百五十四世の御世じゃった。あの時は確かに何かに困り、そしてこのお日柄の良さにてそれを

解決されたのじゃった。おお、偉大なる我が祖よ、ホルムンマルクスに栄光あれかし、やれおかし」

 ホルマルは両手を掲げ、まるで太陽すら抱きこんでしまわれるかのように、大きく大きく、しかし現実

にはあまりにも小さく、広げられ、そのままの姿勢で更に一昼夜を過ごされた。

 その間まったく身動きされず、近所の悪ガキットがいくら悪戯しようとも意に介されず、不動の姿勢に

て太陽光を吸収され続けられたのであられる。

 あまりにも太陽の力が偉大であるが故に、その力が大地に注ぎ続ける事に危機感を覚えられ、その陽光

を例え一時の間でもこの大地からホルマルへと逸らす事で、大地を休ませてやろうという心積もりであら

れたに違いない。

 これも常にコビット全体、いやこの大地から生命の全てにまで木を配られておられるホルマルならでは

であられる。

 ホルマルは常に薄汚れ、常に何かしらを付着されておられる事で、花粉を運ぶ虫のように、何かをいつ

も配られておられる。それは確かに木であろうし、草であろうし、概ね木であろう。

 ホルマルは自然の内にこそ生命の居場所がある事を、深く理解しておられるのだ。

「ああ、今日もよう寝たわい。はて、わしは何をしておるのじゃったかな」

 そしてホルマルはご起床と共に昨日の全てを忘れられ、そうする事で下男という存在を再び完全に記憶

からもこの世かも抹消されたのであらせられる。

 しかし下男はホルマルのおられる所、必ず現れる。ホルマルが下男の事を忘れられた時、しかし下男は

その内にて密かな企みをめぐらし、復活の時を待っているのだ。決してこの世から下男が消える事は無い。

そう、この世にホルマルという存在が居られる限り。



 ホルマルはこうして下男とババサモの呪縛から抜け出されたのだが、それはそれで困る事があられた。

 そう、それはこれからどうするべきかという問題である。

 ホルマルがやるべき事は数あれど、それを今する必要があるかはまた別の話。例え宿命のホルマルがそ

の宿命によって宿命に従う宿命にあられるとされても、その宿命を宿命と受け入れ、その宿命のままに己

が宿命を全うされるかどうかは、また別の話の宿命であられる。

 そんな宿命の内に果たしてどれだけホルマルが宿命であられるかは、謎というしかない。ホルマル別荘

の開かずの扉と同じく、それは解けたら解けたでどうでも良い謎なのだ。

 ではどうするのか。ホルマルは宿命の内に宿命を見出されるのか。はたまた己が道を歩まれ、結局それ

もまた宿命だと言われておしまいになられるのか。或いはそれこそが宿命だと己が道すら否定されてしま

われるのか。

 全ての謎は深まり、まるで潮のように大きく満ちる。

 そして程なく引き潮となり、ぐっと浅くなって底の底まで見通せるようになる。

 流石はホルマル。潮の原理を利用されてこの謎も瞬時に解かれてしまわれた。これはてこの原理を利用

して何となく無茶も出来てしまう理論に等しいくらい、強力な論理ではなかろうか。

 正に恐るべきはホルマルであらせられる。



 時は経つが、ホルマルは特に何をするでもなく相変わらずごろりと横になられ、まことに怠惰(たいだ)

な日々を過ごされておられる。

 燃え尽きてしまわれたという事だろうか。下男がおらず、つまりホルの伝承者を失ってしまった今とな

っては全てが虚しい。ホルマルといえども、この虚しさの前には抗する事が出来ないのだと。

 確かにそうかもしれない。この途方(とほう)もない虚しさを一体どう言い表せば良いのか。

 そう、虚しさである。

 虚しさ、それ以外には言い換えようもない気持ちをホルマルはその内に抱えられ、人知れず怠惰な日々

を過ごされておられるのであられる。

 その怠惰さを一体どう言い表せば良いのか。

 そう、怠惰さである。

 行き場を失ったホルはホルマルの中で朽ちるのみ。自らを継ぐ者が居ないという現実は、どれだけ寂し

く悲しい事なのだろう。いずれ消えるしかない自分という存在、しかしその記憶だけでも残したいという

儚きも生命全てが等しく持つ想い。その想いすら消えてしまう事がどれだけ悲しい事か。

 これをどう言い表せば良いのか。

 そう、悲しいのである。

 その悲しさを何かで補われるかのように、ホルマルは夢を見られた。ホルという名の夢を見られた。

 そこにあるホルはふわふわと光りながら浮いており、ホルという名の髭が生えた、ホルという名のホル

という存在であった。

 そこにはホルという存在しかおらず、ホルであるからにはホルである。しかしホルはホルだけでホルと

はいえず、そこにマルというものが付いてこそ、初めてホルマルのホルとして存在出来る事になる。

 ただのホルでは駄目なのだ。マルというホルが付いてこそ、ホルマルのホルとしてのマルがホルでマル

なのである。

 要するにホルマルは、ホルを受け継がせるだけでなく、マルを探される必要があられる事に気付かれた

のだ。

 ではマルとは何処にあるのか。それはホルマルの内にしかあられまい。

 つまりはこの夢と言う空間にこそ、マルが存在する。

 この地にあるのはホルだけではない。必ずやマルも存在し、それによってホルとマルでホルマルという

存在を、傍迷惑ながら、存在させているのである。そうに違いない。

 夢の中でホルマルは水中を泳ぐ魚のようにしてそのマルを探し始められた。

 幸いにもホルは常にホルマル自身と共にある。というよりもこの世界ではホルマルご自身がホルであっ

た。これは不思議な事かもしれないが、夢という世界であるからには、全てはその一言によって納得でき

るのである。誰も他人の見た夢に異議を唱える事は出来ない。

 つまり夢というのは創り手にとって非常に都合の良い道具だという事である。

 ホルマルはすいすいと泳いでおられる。ホルマルに泳ぎが出来られたのかどうかはもう忘れてしまった

が、いや初めから記憶していないが、夢の中では何がどうでも関係ない。何しろ魚のようであられるのだ

から、自然に泳げるのである。魚が泳げないなどという事がこの世に存在してはならないように、ホルマ

ルもホルとなれば夢の世界で魚のようにすいすいと泳がれるのであられる。

 これはまず一分一厘間違いのない事だ。

 魚とホルマルとホルにおける夢の関係、という論文にてすでに実証されているように、そこには全く疑

う余地は九割八分九厘程度しかない。

 それで何を言いたいのかと言えば、要するにホルマルとは夢に等しいという事である。

 だがここで疑問が浮かぶ。果たしてホルマルは本当に夢であらせられるのか。これだけ臭い、厄介で、

その上嵩張って持ち運びに不便であるというのに、このホルマルが本当に夢であられるというのか。

 この問題は長らくコビット学会でも疑問とされ、様々な学ビット達によって実証、または反証されよう

としてきたが、未だに何一つ確かな事が判明していない。

 そもそもホルマルとは何か、という段階で、全ての努力が霧散し、何も理解出来ないままに今のホルマ

ルのようにただただ眠るしかなくなるのである。

 お前にホルマルの一体何が解る。そう問われてしまえば、それに答えられるビットは居ない。まさしく

それこそが至上の命題ともいえるが、それ故に誰もそれに答えられないのだ。

 今眠り続けられておられるホルマルは、果たしてホルとマルのどちらなのだろう。又はどれがどれだけ

ホルでマルなのだろう。いや翻ってみれば、果たしてホルとマルは区別されるモノなのだろうか。更に更

に、ホルマルの正式名称がホルムンマルクス三世であられるからには、ホルとマルの他にもムンとクスと

三と世という単語が存在している事も明らかになっている。

 こうなってはもうお手上げだ。ホルとマルでさえ理解出来ないのに、その上に更に多くのホルマル事が

降りかかってきては、一体誰にその謎が解けるというのだろう。

 これはもう謎というよりは、神秘とでも言い換えた方が良いのかも知れない。そうやってコビット神の

丸秘とでもしておいた方が賢明だと思われる。何故ならば、このままホルだのマルだの何億年言っていて

も、何一つ解る事はないだろうからだ。

 ホルだのマルだのを理解しようとする方が無意味なのである。そこに意味などは初めから存在していな

いのだから、ホルマルに意味を求めた時点で、コビットの命運は尽きているのである。

 全ては夢。この存在は夢であると規定し、その上でその存在を自分の中で各々のビットが消していく。

そうする事で初めてホルマルの呪縛から抜け出せる。ホルマルを解決するには、初めから存在していなか

った事にするしかない。

 それだけがホルマルという現象に対抗する、唯一のビット英知なのである。

 そうに違いない。ひたすらにそうに違いない。

 こうしてホルマルは全てのビットから、夢である、と規定されてしまわれた。規定されてしまわれた以

上、何者も、例えホルやマルでさえも、それを覆す事は不可能である。



「おう、よう寝たわい」

 ホルマルがご起床された時、全てはもう規定された後であられた。今ではもう身に触れられる空気でさ

えよそよそしい。身に着けておられる衣服もそうだ。ホルマルという存在が居ないかのようで、まるでマ

ネキン(マネーキング)に着せられた服のようにも見え、あまりの臭さを除けば、この世に干渉出来る何

の力も無いように思われる。

 しかしホルマルは何ら気にされておられない。それどころかまるで変わった様子も見られない。

 全てから無視される存在、全てのビットの中から消されてしまった存在。恐ろしく、そしてむごたらし

い仕打ち。だがそのような状況も今までとほとんど変わらないのである。

 ホルマルをホルマルとして意識したのはあのみビットくらいなもので、それ以外のビットは初めから、

誰に言われなくとも、今更規定されなくとも、無視していたのだ。

 だからそれが今更何かはっきりしたものとして作られたとしても、ホルマルご自身には何の意味ももた

らさない。ホルマルはホルマルとして変わらず存在され、ホルマルとして生きてイカレル。

 無力なビット共がどれだけ固まり、そして何をしようとも、ホルマルをどうこうする事は出来ないので

ある。そんな事が出来るなら、とっくに誰かが何とかしていただろう。

 初めから無視されている存在に対しては、どんな集団でさえ無力なのである。

 ビット達は改めてホルマルの恐ろしさを知り、深く絶望したのだった。

 ホルマルの前では全てが無力。正に偉大なりしホルマルであらせられる。




BACKEXITNEXT