6-3.ホル扉、ここに在り


 ホル扉となられたホル丸、いやつまりだからこそのホル扉は、今まさに悩まれておられる。

 それは扉となられた今、果たしてこの喉の渇きは本物なのか、いや、それ以前に喉などというものが扉

にあっていいのだろうか、という疑問であらせられる。

 どれだけ世に無名であられようとも、扉は扉。であれば扉としての扉生を送らなければならない。それ

なのに喉の渇きを覚えるとは何事だろうか。こんなに喉が渇いているというのに、扉を名乗って良いのだ

ろうか。それは扉として間違っているのではないだろうか。扉生とは程遠いのではないか。

 では全ては間違いなのか。

「もしや、わしは扉ではなかったのか!!!」

 ホル扉は心から叫ばれた。その魂の雄叫びはご近所一帯に鳴り響き、時報ならぬホル報と呼ばれ、長く

コビットから忌み嫌われたという。

 しかしそこに秘められた魂は本物であられる。

 そう、ホル扉は自分という扉に対して疑問を抱いておられになる。自らに疑問を持つ事が自らへと近付

く第一歩であるからして、ホル扉の本当の扉生はここから始まられたといっても過言ではない。

「いやいや、そんな訳が無いぞい」

 しかしホル扉はただ一度の疑問で全てを否定されるような、そんな軟弱ビットとは一線を画しておられ

た。すぐさま疑問を否定されておられる。

「そうじゃ、確かにわしは生まれ出でてより幾年月。確かに確かな扉じゃった。あれからもう随分長き時

間が経っておるが、わしは決してわしが扉である事を忘れはせぬ。わしが扉である事は、わしがわしであ

るという事と同様に確かな事なのじゃ。決して間違いはないのじゃ」

 だが何という事だろう、否定もなんのその、ホル扉は再び一瞬にして疑問に襲われられてしまわれにな

られた。

「待てよ。そうするとまさか、わしはわしではなかったのか。それならばわしが扉ではない事にも説明が

付くぞい。わしがわしでなければ、わしが扉である筈がない。わしがわしだから扉であるのであって、わ

しがわしでなければ扉ではないのじゃ。これは確かな事だ。確かな事だわい」

 そしてホル扉は再び苦悩し始められた。まさか扉生ではなくホル扉がホル扉である事から疑われなけれ

ばならない破目になってしまわれるとは、一体誰が想像出来ただろう。重要なのは扉ではなく、やはりホ

ルの方であったのだ。

 恐ろしきはホル。ここまでホル扉を苦悩させてしまうとは、並のホルではあるまい。

 このホルはもうその恐ろしさ故に、ルホとでも逆読みしなければ成り立たないホルとなっている。つま

りそうなるとルホ扉となってしまうのだが、それはとても紛らわしく、断念せざるを得ない。それ程にホ

ルとは恐ろしいものなのである。

 それがどれだけ恐ろしいかを原稿用紙にして四百枚にまとめたとすると、おそらく一枚目の半分もいか

ずにして飽きてしまうだろう。その事からも恐ろしさが窺(うかが)い知れようというものだ。

 だからその恐ろしさを説明する為には、途方も無い面倒くささを乗り越えなければならない。

 これは確かに面倒で恐ろしい事である。

 しかし今のホル扉にはホルもルホも関係あられなかった。ホル扉はホル扉であって、確かにホルと扉と

いう字を借りてはいるが、その二つが結合する事でホル扉という全く別の存在になっておられたからであ

らせられる。

 ホル扉は初めから御自分が扉かどうかなど、気にされる必要はなかったのだ。ホル扉はホルでも扉でも

なく、正真正銘のホル扉なのだから。

 その事にお気付きになられたホル扉はようやく御自分をお取り戻しになられ、きっかり五文字分だけ修

正された。こうしてホルマル扉が完成したのであらせられる。

 その上でホルマル扉は悩みに悩まれた為か若干(じゃっかん)のカロリーを消費され、出口からすっぽ

りと抜け出されておられる。つまり扉という言葉が外れ、元のホルマルへと戻られたのだ。

 これがホルマル→ホル扉→ホルマル扉→ホルマルという不可思議現象の真相である。



 ホルマルへと返られたホルマルは、しかしすぐにホル丸へとその名を戻される事になられておられる。

 それは少し痩せたと言われても、まだ充分に丸々と肥えておられたからであられ、ホルマルと細身な感

じを出されては、その印象と甚だ異なるからであらせられる。

 大体コビットというものは感じられる印象が全てなのだから、その印象が変わられない限り、ホルマル

はホル丸でしかあられないのであらせられられる。それは全コビット協会認定、コビット大辞典にもしっ

かりと記されている。そう記されているから遵守(じゅんしゅ)されなければならない。

 それがコビットという存在である。

 コビットはそういう約束事無しにはとても生きていけない。という事はつまり、そういう約束事がコビ

ットであり、コビットであるからには約束事だという事になる。

 残念ながらホル丸もコビットであらせられる以上、その宿命からは逃れられになられない。自らが望ん

でそうなっておられる以上、逃れたくないから逃れられないのだ。それは確かに道理である。

 こうしてホル丸はホル丸である事を受け容れられ、ごろごろと転がってイカレタのだが、ここら辺でよ

うやく御自分が喉の渇きに襲われておられた事を思い出されたのか、ただ転がるだけではなく、水という

目的を持たれ始められた。

 それがどれだけ求められ、転がられておられたのかを例えるならば。まずは画用紙に真っ直ぐ線を引き、

その上で再び真っ直ぐに線を引き、その上で確かな印象を受ける円を書き、然る後にその円がまるでその

線の上を自由自在に転がる事を夢見てもらいたい。その夢の数だけそれはあるのである。

 夢というものは誰でも一度は夜か朝方、或いは昼間にでも見ているからには、間違いなく確かな事であ

る。それを否定する事は、夢自体を否定するに等しい。しかしそのような否定を出来ないのがコビットで

ある。であるからには否定出来ないのである。それが誰ビットであろうとも。

 ホル丸は水を求められたが、そう簡単に手に入るものではない。ホル丸は金とは無縁であられるのだか

ら、水を得る為には川か湖でも探さなければならなくなられる。だが果たしてホル丸に何かを探し当てる

などという、高度な事が可能なのであられようか。

 答えは否。ホル丸とてもホルマルの範疇(はんちゅう)からは抜け出せになられない。

 残念ながらこれは覆し難い事実であられた。

 しかし例えそうであられても、ホル丸は決して諦められておられない。何故ならば、そもそも諦められ

るという事をお知りになられないからであられ、それは比喩(ひゆ)でも何でもなく事実であられるから

には、諦められるという事はホル丸に限って永遠に不可能なのであらせられる。

 知らない事はやりようがない。知らないからこそ知らないのであり、知らないという事はつまりそれを

しようと考える事からして不可能なのである。

 という事はつまり、実現不可能という事になる。

 これもまた決まり事、いやそれを超えた審理であるからにはちゃんと取調べを行い、その事実関係、法

律関係を明らかにしなければならない。

 となれば登場される必要がある。

 迷探偵ホルマルンを。



 残念ながらホルマルンは登場されなかった。

 何故ならば、ホルマルがホル丸となっておられる以上、ホルマルンではなくホル丸ンとなってしまうか

らであらせられる。しかしこのコビット世にホルマルンはいても、ホル丸ンなどというホル丸ンは存在し

ない。全く聞いた事も無い。流石のホル丸も聞いた事が無い者を登場させる訳には、若干五分五分の確立

で、いかないのであられる。

 ホル丸は仕方なく審理を諦められ、水探しに没頭される事にされた。

 例えそれが不可能に思われたとしても、ホル丸にはやらなければなられない理由があられる。

 その喉の渇きを潤(うるお)しになられる為には、水がどうしても必要なのだ。

 ホル丸はごろごろと転がられながら水を探された。それがどれだけ探されたのかを説明するとすれば、

それは若干何か思わしい事になられる事になられるだろう。

 しかし若干どころか大いに喉が渇かれておられる以上、その事とはまた無縁であられ、それはそれとし

て考慮しない事態となられる。

 つまりは喉が渇いておられるという事は、それ以上の説明を必要とされないという事であられる。

 よってここに判決が下され、結局は審理の海に沈んでおられたという事が証明されたのであられた。

 誰もそれからは決して逃れられないという事なのだろう。

 しかしホル丸はそんな空気を察する事もなく、思う様転がられ、思う様に水をお求めになられ続けられ、

更に思う様転がり続けられた。

 それでも一向に水が見えない。何しろ今日は年に一度の水なし記念日であって、コビット全員が水とい

うもののありがたみを知る為に、朝から水を一滴も飲まず、それでいて一日中運動し続けなければならな

いという過酷な日であったからだ。

 だからこそホル丸が異常とも思える転がり具合を呈(てい)しておられたとしても、誰もその事に対し

て疑問を抱かず、むしろ何ていう転がり具合、運動具合だと感嘆の息さえもらしたとかもらさないとか。

 つまり転がられる事でホル丸の姿が見え辛くなられ、それによってホル丸という事を認識出来ないビッ

トが増え、ホル丸ではないと思うからこそビット達は称えたのである。

 ここにホル丸に感嘆するという矛盾の答えがある。

 このように全ての物事には理由があり、そうなる事は全て必然である。

 愚かにもホル丸に感嘆するという恥部をさらけ出した事にも、ただ見え難いが為にそれがホル丸ではな

いなどという妄想に取り憑かれたが故の、当然にして恥ずべき結果の一つに過ぎない。

 全ての愚かしさにもまた理由があるのだ。

 とはいえ、ホル丸がその優勢を保てられたのもそこまでであられた。

 突如というよりは、これまた必然的にそこに落ちていたちょいと大きめの石。これにホル丸が転がりぶ

つかられになられ、その衝撃で跳ねてしまわれ、そのまま進路を誤られ壁に激突、止まってしまわれたの

であらせられる。

 止まる。それはホル丸の醜きお姿を下々にはっきりとさらけだされるという事になる。そうなればどう

なるか。

 そう、恐慌である。そこに居並ぶコビット達は一斉に慌て騒ぎ立て、その上で円陣を組んでホル丸を包

囲し始めた。

 何故そんな事をしたのかは解らない。おそらくはコビットに生来備わっている防衛本能とでもいうべき

ものがそうさせたのだろうが。コビットでない者にはそれを理解する事は難しい。いや、不可能である。

 だからその理由は流れるようにして放っておくが、そんなこんなを説明している間にも円陣は厚く大き

く成長し、遂には回転を始めたのである。

 そしてその回転が風力を生み出し、ホル丸を宙に浮かせ、そのまま天上へと運び去ってしまった。

 これがつまり、コビット式風力発電の原理である。



 天に飛ばされたホル丸はそのまま大地に落下されてえらい事になるかと思われた。しかし流石はホル丸。

そのまるこい体を活かし、まるで風船のように宙を舞われたのであらせられる。

 これは今の体形が風船に似ておられるという長所を活かした、まことに端倪(たんげい)すべからざる

事態であられ。似ているからにはその特徴をも備えているに違いないという強引かつ説得力のある理論に

基づいた歴史的何かであられた。

 こうしてホル丸は空を飛ばれ、大いに愉快な思いをされたのであられる。それがどれだけ愉快であった

かを説明する事は難しいが、確かに愉快であった事に間違いあられない。

 何故なら。

「おお、愉快じゃ、愉快じゃわい。これほど愉快なのは、例のあの、あの某が某っぽく某とした、つまり

はあれじゃ、ああ何じゃったか、最近物忘れが酷くなったのう」

 と大声で独り言を叫ばれておられたからであらせられる。

 しかしその代償は大きく。口を開けたという事はつまりホル丸風船に穴が空いたと同じ事になられ、そ

うなると風船の理論からして内の空気がもれてしまい浮遊力を失くされる事となられる。

 ホルマルはそのまま落下しておしまいになられた。



 ホル丸は地面に激突され、大きくお跳ねになられた。丸々とされた肉厚が今度はゴムボールの理論を体

現されたのであられる。これは確かに想像とは違ったものの、えらい事には違いなく。そういう意味では

正鵠(せいこく)を射ておられた。

 これは確かに確かであられるからには確かな事で、まず一分一厘くらいは間違いの無い事であられる。

 そしてホル丸はそのまま一昼夜もの間跳ね続けられ、いつしか心地よい眠りへと誘われておしまいにな

られたのであらせられられる。



 ホル丸が目覚められた時、すでにホル丸はホル丸であられなかった。

 それがいつどうなってこうなってしまわれたのかは解らないが。あれだけ丸々としていた体が痩せ、い

つものホルマルに戻られておしまいになられておられたのであらせられる。

 仮説を立てるなら、おそらく過度の運動によってカロリーなどが一気に消費されたのだろう。或いは過

度の衝撃によって色んな物が削られておしまいになられたのか。

 正確な事には興味ないが、ともかくいつの間にやらホルマルへと戻られておられた事に間違いない。

 こうなればもう水は必要なかった。何故ならば、元に戻ったという事はあれだけ食べていた事も無かっ

た事になり、喉の渇きもまた無かった事になられたという事を意味されるからだ。

 ホル丸がホルマルに戻られた以上、最早ホル丸事情などは考慮されないのであられる。ホルマルはホル

マルの為にだけ生きるのであって、決してホル丸の為にお生きになられるのではない。だからこそのホル

マルであられ、間違っても今はもうホル丸ではあらせられないのだ。

 この論理を使えば全ての事に説明が付く。

 こうしてホルマルは再び自らの足によって歩かれ始められた。

 これこそホルマルが転がり歩きから二足歩行へと進化された、記念すべき瞬間であられる。

 祝福すべき事だ。




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