6-4.コビット達の素敵な日常


 ホルマルは歩き続けられる。歩いて歩いて歩き続けられておられる。まるで今日始めて歩いた赤子でも

あられるかのように、嬉しくも、楽しくも、そして危なっかしくも。

 しかし転がり歩きに慣れられたホルマルにとって、二足歩行というものは不安定であられる。何故なら、

転がり歩きならば躓(つまづ)いて転ぶなどという事はあられないのだが、二足歩行にはそれがありえる

からであらせられる。

 転ぶというのはまことに情けなく、痛い。物凄く、もう耐えられない、という程ではないが。地味に、

率直に痛い。これはまさに痛みの真髄ともいえ、それだけに慣れる事は出来ないだろう。

 それでもホルマルは歩かれる。何故なら、他にする事があられないからだ。

 ホルマルが歩かれてイカレルと、自然と色んなコビットに出会われる事になられる。

 例えば今すれ違った老ビット。

 髪はすっかり消えて禿げ上がり、つるぴかの頭を嘆く所かむしろ誇示したいようで、ご丁寧に油を付け

て益々ぴからせている。その歩き方も堂々としたもので、ふさふさ頭ビットの方が萎縮(いしゅく)して

しまうくらいだ。

 まことに堂々たる禿ぶり。その勢いもまた夥(おびただ)しい。つまりは夥しく禿ている。

 家族構成は長年連れ添った妻が一ビット、子供達はすでに独立して今ではもう家に寄り付こうともしな

い。孫達に会えるのだけが楽しみな老ビットにとって、これは深刻な問題である。

 知り合いに相談に乗ってもらっているが解決の糸口も掴めず、大いに悩んでいるそうだ。

 しかしそんな悩みを全く見せず、堂々と禿散らかしている。

 次にその上の方に見える、洗濯を繰り広げているご婦ビット。

 名前は確かローグモナムとかローザトンペリだか、ローストビーフだか、ああ、面倒だからもういい。

 そのロースト豚の左斜め下に住んでいるのがロンフルマンザム。

 この男はいつも空を見て、地面を見て、そしてたまにホルマルを見ている。

 たまに見るのは当たり前の事で、ここをホルマルが通るのはごく稀である。しかしそうとは言ってもご

く稀には通るので、たまに見るといっても差し支えない。

 この男がとにかくよく見る。もし望遠鏡でも与えてやったら、それはもう張り切って色んな物を見るに

違いない。全くもって見るだろう。情け容赦なく見るだろう。とてつもなく見る筈だ。

 服装は常にぱりっとせず、どこかよれて色はくすんでいる。そしてそれをお洒落だと思い込み、一人で

そう思い込むなら幸せだが、他ビットもそう思っていると勘違いしている不幸なビットである。

 しかしとにかくよく見るので、見る事に関してはとてもよく見る。とにかく見ているし、とにもかくに

も見ている。

 そのロンフルマンザムを一回り外から見ているのが、ゴブソンミッフ。この婦ビットはとにかくよく見

ているロンマンをとにかくよく見ている。それがどれ程見ているかと言うと、見ながら食事をし、見なが

ら遊べる程のよく見っぷりで、とにかくよく見ているのだ。

 あまりにも見過ぎている為に、ロンマンは自分に気があると思っているようだが、しかし世の常として

そんな事は勿論無い。では何故よく見ているかというと、実は何となくで理由は無いのである。ロンマン

がとてもお粗末で見ているだけで笑えるという事が、理由と言えば理由と言えるのかもしれない。ようす

るに暇潰しなのだろう。

 そしてそのゴブミフをちらちら見ているのが、ミケランソフマン。よくは見ないが、とにかくちら見を

繰り返している。どれだけちらちら見ているかは、世界コビットチラ見選手権でもあれば、おそらく三位

以内には入れるだろう実力の持ち主だろうと推測出来る程度だ。

 毎分30回というちら見っぷりの持ち主で、それならもうじっと見れば良いじゃないかと言いたくなるち

ら見っぷり。あまりにもちら見しすぎて、見詰める事を忘れた憐れなビットだ。

 そしてそんなミケソフのちら見を数えているのが、ゾブロムホッヘン。この男はあまりにもゾブロムし

ているが、ちら見数えにおいては並ぶ者がない世界的権威である。このビットさえいれば数え間違いは起

こらないだろう。

 その側に居るのがゾブロムミーミム。ホッヘンの妹でありながら、姉を主張するビットとして名高い。

何故そんな事をしたいのかは解らないが、とにかく姉でありたいと日々願い、それを叶える為に扮装して

いる。

 今もどういう格好をすれば、どういう仕草をすれば姉っぽいかを探求し続けている。それが完成した後

は、本でも書いて大儲けするのだろう。

 まったくけしからん事だ。

 一度戻って、ホルマルの背後で何やら食べているのが、モッケンマッコイ。マッコイマッコイ言うのが

口癖かは解らない。しかしそのモッケン性には定評がある。

 そしてその隣で何やら飲んでいるのが、コブトリマッホイ。名前の通り小太りではなく、意外にも大太

りしている。世界コビット大食い選手権一位の実力の持ち主だが、あまりにもありきたりな大会なので、

あまり興味を示す人はいない。

 ようするにそれは食費が嵩(かさ)むだけの厄介者という事だが、本人は懸命に否定している。命をあ

たら無駄に喰らっているというのに、その事に反省もしていない。こいつもけしからぬビットである。

 その事に心痛し、常にその背後にて祈りを捧げているのが、ミルフィフォルム。優しく美しく清らかな

ご婦ビットに見えるが、その性別は定かではない。このビットに近付くか否かはまさしく賭けであり、ビ

ット生の大博打を仕掛けるかどうかが悩める所である。

 とにかく美しいが、それだけに判別がつき難い。どちらの性にとっても厄介なビットである。

 その背後でその決断を今正に行おうとしてかれこれ五年は経っているのが、ボッホムコッホンである。

何故どれだけボッホムかは解らないが、決意してからもう五年は経っているにも関わらず、何も進展はな

い。誰かに後押しして欲しいと願っているが、友ビットとしてもそれが大きな賭けであるからには無責任

に勧める訳にもいかず、ほとほと困り果てている状態だ。

 こういう場合は一体どうしてやるのが幸せなのだろう。

 そしてそのボフコフの遥か先を歩かれてイカレルのが我らがホルマルであらせられる。

 話はこれからが本題だ。

 イカレルホルマルの先を走り去っていく若ビットが居る。年の頃はまあ若いくらいだろうか。とにかく

若いが、しかしそれほど若いのかと聞かれると、ああ、まあ、そうだね、と答えるくらいな若さであり。

それはもう微妙、いや微妙とまでは言わないが、もうすぐ若は取れるだろう事は確かなビットである。

 背格好は標準的で、服装にも特に変わった所は見られない。つまらないといえばそうだが、その無難さ

が心強いビットでもある。

 好きな銘柄はボーテムホーレン。嫌いな銘柄はトッテムポッテム。好きな服はボルケスノ。嫌いな服は

モンスターチ。好きな食べ物はモンゴルノ。嫌いな食べ物はパチティスティァーティル。という、好みも

ごくごく標準的であって、そこから抜け出せないのが悩みだろうか。

 とはいえそれほど悩んでいる訳でもなく、その辺はいずれ自分探しとかいう意味不明な何かをして何と

かしよう、何とかなるだろうと考えている、悩めるビットに見せかけたお気楽ビットである。

 本音を言えば、特に大きな悩みは無いが。かといって全く悩んでいないと馬鹿に思われる。そこで何と

なく悩んでいるような風情を保ちながら、それでいて実はそんな悩みも自分で解決出来るんだぜ、という

強みを見せようと試みている、数少ないビットである。

 数少ないだけに貴重に思われがちだが、そんな事は無い。居ても居なくてもどうでも良いとさえ言え。

本当ならその事を悩まなければならないのに、将来に不安がないとは言わないが、しかしどうにかなるだ

ろうと思っている事を悩んでいる風を装っている程度のビットだ。

 この若ビットの名が何を隠そうクルマンホルテン七世。通称クルホル。そしてその彼の目の前で今まさ

にぶつからんとでもいうように接近する女性の名をホールングルテン。通称ホーグルという。

 ホーグルはそれなりに知られた舞台役者であるが、かといって知られているのかと問われればこれまた

微妙と言うしかない。知られていない訳ではなく、そこそこには評価されているものの、まだ主役を張れ

る程ではなく。せいぜいちょっと印象的な脇役の一人を演じるのが関の山、関脇関取どんとこいである。

 しかしその美貌には定評があるような気になり、ざっと見渡しても世の中の平均を三割くらいは超えて

いるような気がする。実際は一割か二割かもしれないが、舞台に出ているとそれなりに映えるもので、頑

張れば四割にも届くかもしれないくらいには美を持っている。

 つまり脇役には充分過ぎるが、主役にはちょっと物足りない。その物足りなさが逆に魅力といえなくも

ないが、やはり主役を張るには力不足。そこに悩みを見出しているコビットである。

 立派な悩みがあって、まことに幸せビットだ。

 この印象的と言えなくもない運命の二ビットが今はっきりとすれ違う。そしてそのまま行き過ぎる。

 その行き過ぎた場面にばったり出くわしたのが、もう言わなくてもお解かりだろう、我らがプックムム

ックルである。このプッムッという甚だ面倒くさい通称を持つビットは、素直にプクムクにしとけば良い

と思うのに、体だけはやたら頑丈で健康なコビットにしては珍しく眼鏡なる物をしている珍しきビットで

あった。

 この眼鏡というものがどういうものであるかと言えば、まず縁はしっかりと黒く、そしてレンズ部分は

厚くてどんよりといつも曇っている。大きさは目を四回りは大きく広げた程度だろうか、とにかく厚くて

広い。

 だからどこを向いても視線がレンズから外れる事はなく、世界をしっかりと歪めてくれる。目に映る光

が世界を映し出す鏡だとすれば、このビットの世界は満遍(まんべん)なく歪められ、程好く都合のいい

風景を映し出すのだろう。

 それが良いか悪いかは別として、そういう眼鏡が今売られている。それを買うか買わないかと問われれ

ば、まず買わないと答えるとしても。そういう物が売られている事は、心の片隅にでも置いておいてくれ

た方が何かと都合が良いような気がするものの、やはり役には立たない。

 しかし役に立たないから必ずしも悪いという訳ではなくて、役に立たないからこそ価値のある品もコビ

ットの世界にはある。

 この眼鏡がその一つとは間違っても言わないが、そういう教訓として覚えておく事はそんなに悪い事で

はないのかもしれない。

 とはいえこの世の中覚えなければ成り立たない事も多く。ではこういう役立たず決定な事をいちいち満

遍なく覚えていく事が、果たしてコビットにとって必要か、幸せかと言われれば、甚だ疑問であると答え

ざるを得ない部分は多い。

 他に沢山覚えなければならないとされている事、覚えたいと思っているような気がする事があるのに、

何故こんな事まで覚えなくてはならないのか。

 だがこういうどうでもいい知識だけを、やたら覚えてしまうのがコビットである。何故かは知らないが、

この手の下らない知識の方が、ずっと後まで覚えているものである。

 そしてそれが何かの際に役立ったりする、事は無く。やっぱり役立たずは役立たずであって、そういう

知識にまみれたコビットは、自然に役立たずビットとなってしまう事を避けられない。

 何でもかんでも覚えればいいというものではなく。コビットはそろそろ記憶するものを選別するという

智を身に付けなければならない。

 だがそれらの事と気持ちを総合し、無駄でも知識は多いぞという満足感のある事を加えるなら、それは

それとしてそうであったと答えるしかなく。全く無駄ではなかった、或いは全く無駄であった、どちらを

選ぶにしても何か言う事は憚(はばか)られるのであった。

 誰が何をしているにしても、それをはっきり規定する事には責任を伴うような錯覚がある。どのビット

も一つでも多くの責任から逃れる為にこそ必死で生きている以上、錯覚だとしても責任を負うような恐怖

を体験する事は避けたいものだ。

 そういう訳であるから、そういう無駄を敢えてしているようなビットなどに、これ以上文字数を費やす

必要はないだろう。それこそ無駄の局地といえるものであり、無駄検定に換算すれば、おそらく三級は楽

にいけるのではないかと思われる。

 それはここまで読んでくれてサンキューとかけた訳ではないが、おそらくそういう事も含まれるのでは

ないかと推測されるような気分もまたないではないとは言い切れない複雑な感情がこの精神世界において

果たしてどこまでの効果をもたらすかどうかは誰にも解らないとしてもだからといってそれが全て無駄で

あるとは限らないのであるから大事ではないとも言えない訳でありながら若干のそういう気持ちは拭えな

い訳ですからどうにもこうにもちんぷんかんぷんという結論が導き出される可能性もなきにしもあらずと

いうのかこういう気持ちをどう表現したら良いのか解らない今日この頃かもしれないなと陽気に呟きつつ、

やはり溜息交じりのがっかり感を忘れる事は出来ない訳です。

 要するにホルマルはこのような街並みを泰然自粛(たいぜんじしゅく)と歩いておイカレになられ、そ

の威風堂々たる用紙を持って、つまりは威風堂々たるコビットが描かれた紙を手に持たれ、この世に住ま

う全コビットを睥睨(へいげい)するかのようにしておられるのであらせられる。

 ただ歩かれて通り過ぎるだけでもこのように色々な物事が交差するもので、それはとても素晴らしく、

時に退屈で、ありふれていながら貴重であるという面を持っている。

 これは正にホルマルを体現する現象であって、それは世界そのものがホルマルである、ホルマルを基準

とされている事を意味している。

 結論から言うと、世界はこのホルマルという一個の欠物(けつぶつ)の中に内包されつつ外へと広がり、

余りにもそれが広がり過ぎるからホルマルの許容量すら超えてしまい、はみ出しの世界生を営んでいると

いう事を意味するのである。

 そしてそこにおわすコビット神でさえも、その運命からは逃れられない。何故ならば何となくそんな気

がするからで、神もまた気分次第で生きておられる以上、その気分からは逃れられない。

 だからどうだと言われれば、別にどうもこうもないよと答えるものの、そこからの興味が全く薄れた訳

ではなく。逆にそう言いつつも、何でもないという時が一番何でもなくない、の法則からすれば、なかな

かに大げさな事ではないかと言える訳で。そんな様々な可能性と現象と運命の中を、いやその全てこそが

ホルマルであられ、常に歩かれておイカレになられるという事は、見過ごせない事態なのかもしれない。

 そうであればこそ、全てのモノが須らくイカレテいく事にも、何ら疑問を挟む余地は無いのである。

 これこそホルマルを見れば全てが解るの例え通り、その真実を知らしめるに一番近い方法であろうと思

われる訳であるが、だからといって何がどうなる訳でもない。

 要するに今までと同じという事で、それを知ろうが知るまいが、やはり須らくイカレルという結論に辿

り着く事は、決してコビットにとって幸せのみではないだろうという事が思われ、思われながらもそこか

ら逃れられないという事は、確かにそれはホルマルであらせられると言えるのである。

 そこにありながら、それと知りながら、そこからは決して逃れられない。

 そういう運命論者の戯言にも似た存在。いやその戯言の源となる存在がホルマルであらせられる。

 何と言う厄介な御仁であらせられようか。

「ふぅぁああ、何だか退屈な時間じゃったぞい」

 ホルマルはさりげなく真理を貫く言葉を吐かれ、そろそろ眠くなってこられたので、次なる宿所を探し

求め始められたのであられた。

 ホルマルにあられてみられれば、このような言葉の数々こそが、正に戯言なのであらせられる。

 何を語り尽くしたとして、その答えがその心の中に無ければ出る筈がなく。それでいてウ

イットに富んだジョークなど論外であり。ウィットを時にウエットと勘違いして、しめっぽいジョークだ

と勘違いしている輩もいるが、ようするに機知に富んだとかとんちの利いたという意味だよ。もっと難し

く何となくありがたさを装いたいなら、当意即妙(とういそくみょう)だと言えば良いよ。あ、でもちゃ

んとその意味も調べておかないと恥をかくかもね、と親切にも記して終りとしよう。

 つまり、世の中のホルマルとは、そういう事なのである。

 大ビットならば、常にホルマルに備えておかなければならない。




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