7-4.秘密、それは甘い黒砂糖


 彼はふと両親が見合い話を持ってきた時の事を思い出した。その時の彼はそういう気分ではなく、相手

の顔を見る前に断ってしまったが。もしそれが好みのビットであったとしたら、そして良縁であったとし

たら。いや、そうでなくても、会うだけ会ってみていたらどうなっていただろう。

 今頃素敵な人生を送っていたかもしれない。ここでこうしてホルマルを観察し、下らない上官に従って、

労働時間が無事に終わる事だけを祈っているような、そういうコビット生にはならなかったのではないか。

今よりはもう少しましな生活をしていたのかもしれない。

 でもそんな仮定をしていても仕方がない。今ここにある自分が全てであり、この状況が今の全てである。

もしとか、可能性とか、そういうものは実際現実には何一つ役立ってはくれない。なのに何故コビット達

はそれを見るのだろう。夢という名の儚く、そしてとうに奪われた筈の可能性を。

「須らく見ろ。何処までも見ろ。目が潰れるまで見ろ」

 上官は必死さを隠そうともしない。このままでは平気で時間外労働をさせられてしまうかもしれない。

 今月だけでもう何十時間、時間外労働をさせられたのだろう。しかも当然のように時間外労働手当ては

無い。全てただ働き。そんな事を当たり前のようにもう何年も続けている。

 今では時間外という言葉自体が虚しい。

 しかしまだ可能性はある。無意味ではない可能性、希望の光は費えてはいない。交代要員がさぼらずに

来てくれれば、彼はすぐに帰れるのだ。対ホルマルという事で今作戦ではいつも以上に全てが厳しく管理

されている。勤務時間や休憩時間もそうだ。

 だからあと少し。あと少しでここから開放される。このむさいオッサンを見ないで済む。オッサンしか

いないこの職場から逃れる事が出来る。例え家に帰っても待つ人は居ないとしても、一人でゆっくり休め

る事は何にも代え難い。

「増員、増員、増員だ。増員を急げ」

 帰ったら何をしよう。まずは酒を一杯飲むか。それとも風呂に入ろうか。何も考えずに寝てしまうのも

いい。あ、そういえば今度行く釣りの準備をしておかないと。でも本当に行けるのだろうか。今まで予定

通りに休めた例なんて無いじゃないか。

 ああ、こんなどこの局だか解らない局に就職を決めるんじゃなかった。そもそも局だかどうかも解らな

い局なのだから、保証や労働条件何かも全部曖昧に決まっていたんだ。解っていたのに。初めからそれが

解っていたのに。あれだ、あの時叔父さんの紹介を素直に受けていれば良かったんだ。それを仕事くらい

自分で見付けるとか言って、柄にもなく強がった為に今こんな目に遭っている。

「全てだ。全てを暴け。何一つ見逃すんじゃない。我々の手に全てがかかっているんだぞ」

 あ、そういえば見合いの話もそうだった。相手くらい自分で見付ける。あの時も確かそんな事を言って

断ってしまったんだ。当てもないくせに強がって。いつももう少し素直になって考えれば、幸せになれた

筈なのに。

「貴様、何をぼうっとしているか!」

「すみません、局長。ですが、時間です」

「何の!」

「勤務時間が終わりました。引継ぎビットがまだ来ておりませんが、これにて失礼させていただきます」

「ううむ、勤務時間が終わったのなら仕方ない。ご苦労。しかしもう少し働いてくれないだろうか。いや、

そうではない。交代が来るまでで良いんだ。でないと困る。困った事になるんだよ。・・・君も解るだろ、

私の言いたい事が」

「しかし局長。局長自らがそんな事をなさいますと、最悪厳罰に処せられ、軽くても碌な目には遭いませ

んよ」

「いやいや君ぃ。そこはほら、君の善意という事でだね。そうそう、そうすれば君の株も上がるというも

のだよ。これは決して君にとっても悪い話じゃあない。そういう事、解るだろ」

「ですが局長。私にも予定というものがあります」

「解っている、解っている。でもね、でもだよ。もし、そうもしだ。それを覆してくれるというのなら、

私にもね、ほら、解っているだろ。決して悪くはしないよ、決してね・・・・きっとな」

「何が言いたいのか、解りませんね」

「困ったねえ。実に困るよ、君ぃ。それでは一人前の大ビットとして・・・」

 その時室内に異質な音が鳴り響いたが、二ビットとも口論に夢中で気付かない。

 ホルマルが突然その場で踊り始められたというのに、この火急の事態に誰も気付いていない。

 ホルマルはそのまま数分踊り続けられ、日課のお目覚め後の準備運動を終えられると、大きく背伸びさ

れて、それから思い出されたように当てもなく歩かれ始められた。

 当然、寝られる前の記憶のほぼ全てを覚えておられない。御自分が何故ここに居られるのか、その間に

何があられたのか、希望を失われた事や局の連中に上手く誘導させられた事、などなど、それら全てを初

めから覚えておられなかった事すら覚えておられない。

 まるで初めから何も知っておられなかったかのように、ホルマルは覚えておられないのである。

 だがその記憶のほぼ全てを忘れられた事で、ホルマルは記憶力というものを取り戻された。今なら九九

の一の段くらいは問題なく覚えられる筈だ。もしかしたら二の段まで・・・いや、二の段以上は複雑な計

算を必要とするので、ホルマルには不可能であられるかもしれない。

 でもきっと一の段なら出来られる。そういう希望がコビットには必要ではないだろうか。

 もしそうだとしたら、ホルマルが計算をされるという奇跡を、しかも掛け算をされたという奇跡を、例

えそれが見せ掛けだけだったとしても、目の当たりにする事が出来るかもしれない。

 これは誰にとっても、大いにどうでもいい事であった。

 勿論ホルマルにとってみられても、どうでも良い事であらせられる。九九など覚えておられなくても、

そもそも掛け算とかいう珍妙なる現象などホルマルには必要であられないのだから、覚えるという行為自

体に意味がない。それは実証もしていないのに非科学的だという言葉を平気で使うおかしな科学者という

名の愚かな誰かにも似た行為であり。第一、掛け算などという高度な計算を用いるビットがこの世には居

ないのだから、お知りになられなくて困られる事はあられないし、答えを見付けて嬉しがられる事もあら

れなければ、答えを出せなくて悔しがられる事も無いのであらせられる。

 要するにそれはどうでもいい何かで、ありふれた何かなのであった。そういう感傷にも似た干渉につい

て、そしてそれを観賞する事に付いて議論を重ねようとも、実のないものからは種は取れないのである。

 だからそんな下らない事を考えておられるよりは、他にされる事が幾らでもホルマルにはあられる。

 例えばあの木だ。目の前に立つあの木。あれはもう少しで巨木と呼ぶに相応しい木になる。という事は

これは巨木前木であり、巨木というのが相応しくなくとも、ただ木と呼ぶのもまた似つかわしくない。厳

密に言えばただの木だったとしても、巨木前木と呼ぶくらいは勘弁してもらいたいものだ。

 そしてホルマルが立っておられるその地面。そうその足元の丁度今踏んでおられる場所。ここが他より

も若干柔らかいという事実を、誰か知っているだろうか。しかもそこを掘っても何も出てこないという事

を、誰かはっきりと知っているだろうか。

 そこはただ他よりも若干柔らかいというだけで、それ以上の、そしてそれ以外の場所でもない。

 だがこれはある筋のコビットにとっては見逃せない情報である。

 例えばそこに種を植える。柔らかければそれだけ根を張りやすく、水分や養分を吸収しやすくなる、よ

うな気がする。つまり結果的に育ちが良くなり、万々歳という結果をもたらす、ような気にさせてくれる。

 しかしこれが種ではなくもみじまんじゅうだったとしたらどうなるか。おそらく他よりも若干柔らかく

腐る筈だ。もしかしたら若干だけ腐りやすくさえなるのかもしれない。それに意味は無いと思われても、

柔らかいというだけでそれなりの価値が生まれる事は理解していただけると思う。

 だからもしホルマルがその微妙なる差異に、この時気付いておられれば、今後の運命に少しだけ何かを

もたらしてくれたかもしれないし、何ももたらしてくれなかったのかもしれない。

 要するに局員が抱いた希望とか夢とかは、そういう類のものである。



 局長と局員との言い争いはその後もずっと続いていき、段々激しくなって、遂には代わりのビットがと

っくに来ているのにも関わらず、それに全く気付く事なくいつまでも口論を続け。代わりビットはビット

で、そんな二ビットを無視して任務に取り掛かっている。代わりビットは有能なのだ。

 代わりビット、略して代ビは自分の世界に浸りながらホルマルの監視を続けたのだが、とっくに踊りは

止めておられるし、今更見ても面白くない。ただふらふらと歩かれ続けられるホルマルの姿が見えるのみ

で、代ビは一分もすると飽きたのか、欠伸を隠せなくなっていた。

 その欠伸はおそらく毎分20アクビトロン。一分間に約34回欠伸したかしなかったか微妙なくらいで

あるが、実際には全く見当も付かない、という程度であったろう事が推測される。そしてそれを一体誰が

推測したのかも謎である。

 代ビはそれくらい欠伸が止め処なく溢れ出て、とにかく退屈だった。

 その間もホルマルはふらふら、ふらふら歩かれ、当ても無くただ歩かれて、時折足をもつれさせて転ぶ

以外には何の変化もあられない。

 この変化の無さは代ビにとって世界コビット無表情歩き選手権第一位に匹敵するような気がした。

 しかしあくまでも気がするだけで、それ以上のものではない。代ビは欠伸をしながらも任務を続け、欠

伸度を順調に毎分43アクビトロンにまで増しながら、仕方なく監視し続けた。

 その間も局長と局員の口論は激しくなって・・・・はおらず。局員はとうに帰ってしまったようである。

今では局長だけが今も局員が居るようなふりをしながら、一人口論を続けているだけだ。この一人口論と

いうのは非常にお手軽で、しかも相手も要らないので、世に数多く居る愚かな口論好き達を大いに楽しま

せ、そしてまたその心を大いに慰める筈であった。

 そして局員が帰ってしまった事で、代ビを局員、または部下と単純に呼ぶ事が出来、状況が少し楽にな

るという寸法だ。

 こうして全ては万事解決したかのように思われた。



 それは突然訪れた。例の異音がしたかと思うと、監視カメラに映るホルマルが木に登られ、広げた両手

を羽ばたかせられながら宙に飛び出し、落下。そしてめり込まれた体を地面から引き剥がされたかと思う

と、再び木に登られ、飛び出し、落下。を繰り返され始められたのであらせられる。

 これは不可思議な現象であったが、今更驚くべきような事ではない。部下はそのまま欠伸を続け、監視

し続ける内に、いつしか心地良い眠りへと誘われてしまったのである。

 それでもホルマルは止められようとはされない。当たり前の事だ。何せホルマルは御自分がこのように、

じっくりねっとりと何ビットかに見られておられるとは一切気付いておられず。それどころか、こういう

局が存在している事すら知っておいでになられない。

 だから木を登って鳥の真似をされるのも、いやむしろ鳥になられようとされておられるのも、局を混乱

させようとされて行われたのではあられなく。単純に御自分も飛べるのではないか、むしろ飛べないのが

おかしいのではないか、と思われたからであらせられる。

 それというのも、ホルマルが何度目かの記憶喪失、いや呆けお忘れになられた時、そしてちょっとした

眠気に襲われてそのまま前のめりに倒れられそうになった時、たまたま極々珍しい偶然によって、何故か

仰向けになってしまわれ、その時空飛ぶ鳥の姿をはっきりと見てしまわれたからであらせられる。

 そしてホルマルが空飛ぶ鳥を見られたのは、これが生涯で初めての事であられた。

 いや、もしかしたら以前にも数多く見られた事があられたのかもしれないし。その可能性は極々非常に

怠惰に物言いながらも高い訳だが。もしそうであられたとしても、とうにお忘れになられておられるので

あらせられる。

 だからこの空飛ぶ鳥をご覧になられた時のホルマルの驚き、衝撃は言葉に出来ないくらい大きかった。

 ああ、ああいう方法もあるのか。何故今まで御自分はそうなされなかったのか。そういえばそういう手

段もあったじゃあないか。そんな気持ちがそのみじんこのような脳を支配されるのには、本当に、全く、

これっぽっちも、時間はかかられなかった。

 ホルマルが御自分も当たり前に飛べると錯覚され、それを試されるのも当然であられる。

 そして雄々しく木に登られ、一番低い枝から空へ飛び出されたのであられた。

 しかしホルマルの丸太のような体形では、痩せようが太ろうが、空を飛ぶという事に限って言うと、全

く関係なく。どこをどうしようと飛べないのは解りきった事であられる。

 足が無ければ歩けないように、手が無ければ水をかけないように、翼が無ければ空を飛べないのである。

少なくとも鳥のようには飛ぶ事がお出来になられない。むしろおできが出来てしまわれればいい。

 鳥ではないホルマルが鳥のようには飛べない。これは正しく真理であるかのように思え、流石のホルマ

ルも諦められるしかないと思われた。

 この時もし鼻の穴が広がっておられたままであられたのなら。もし鼻の穴が塞がれておしまいになられ

ておられなかったなら。広がりきった鼻の皮が翼の役目を果たし、万が一にも飛べる可能性が無い訳では

なかったような気もするが。ただの気のせいだという雰囲気が濃厚である。

 何しろホルマルにはひらひらした物が足りておられない。

 そして面白い事に、ホルマルご自身もそれを理解されておられた。それでも飛び続けられるのは、飛ぶ

という事を行う事以外に、頭が働いておられないからであらせられる。この時のホルマルは飛ぶという事

だけで頭が一杯であられ。それ以外の事に意思を向けられるなどという事は不可能ではあられなかったよ

うなそうであられなかったような、照れ隠しにも似られた、非常に微妙なる具合であらせられた。

 もしそれをニトロ爆弾おおよそ一個分、その量は問わない、を幾つか集めた時の爆発力の単位、ニトル

ンで表したとすると。おそらく測定不可能であったろうと思われる。

 もしグリセリンと比較対照してその結果を原稿用紙百枚にまとめる事なら出来たかもしれないが、今の

段階ではどちらも夢想に過ぎない。

 しかしともかくホルマルがこの時ひらひらを欲せられ、その為に普段使われていない視力や聴力、記憶

といったホルマルにはご不要だと思われていた全ての能力が、この時無情にも発動されてしまわれた事は

確かであらせられる。

 そしてその全ての能力は一つの結論を弾き出した。

 への六三部隊が身に付けていたあの装甲が必要だ、と。



 ホルマルは我知らず装甲に引き寄せられるかのように、今まで同様飛び降りを繰り返されておられなが

らも、ほったらかしになっていた装甲の散った場所まで順調に移動されておられた。

 そしてその事に監視役の局員が気付いた時には、何となく目が覚めて画面を見た時には、すでにホルマ

ルの体は装甲でみっしりと覆われていたのである。

 宙から地面に叩き付けられる事で、地面に散らばっていた装甲が上手くホルマルの小汚い体の、小汚い

諸々の汚れを接着剤代わりにして上手く張り付き、ホルマル臭が汚染し、ホルマル皮膚がそれを取り込む

事で、結果として上手い事全身にお張り付かせになられる事になられたのだろう。

 これは奇跡的な偶然とも、必然的な導きとも言われているが、結論から言えばホルマルの執念であらせ

られる。ホルマルが食べ物以外にこのような執着を見せられる事は非常に珍しいのだが、そういう事もあ

りはあったり、なきはなかったりして、たまたまそういう風になられる事もあられるのかもしれない。

 それでもホルマルはお変わりになられる事なく、依然飛び降りを繰り返されておられるのだが、この装

甲のおかげで少しずつ飛距離を伸ばされ始められたようだ。

 移動速度も増され、だからといって装甲回収速度が増される訳ではなく。逆に滞空時間が長くなってし

まわれる事で目標に着地し辛く、着地までにかかる時間も増えてしまわれ、そのせいで時間が余計にかか

ってしまわれる事になられたが。落下時の痛みと気絶時間は減少され、総合的に見るとおかかりになられ

る時間自体は変わられない、という面白い現象を引き起こしておられる。

 このような珍しくも面白き現象を極稀に体現されてしまわれるからこそ、コビット神はホルマルを見続

けておられるのだろう。

 そして遂にその時はやってきた。

 装甲によって得られる浮力が、ホルマルの重さを上回るその時が。

 ホルマルは宙に飛び出されたまま落下されず、風に乗って移動され、正面に生えていた木にぶつかられ

て装甲が全て剥がれ落ち、そのまま頭から落下、完全に気絶しておしまいになられた。

 当然異音がし、見張り局員は目を覚ましたように思われたが。しかしそれは錯覚に過ぎず、実は全く目

覚める事無く、運命の朝を迎えたのである。



 その日の朝はやたら空が曇っていた。まるでホルマルを拒むように、そしてこれからも拒み続ける事を

宣言するかのように、どんよりとどこまでも曇っている。

 そんな空を覆うように、無数の鳥が飛んで行く。

 そう、ムイカカワタワタドリが移動する季節がやってきたのだ。

 ムイカカワタワタドリはとにかくわたわたする事で有名な渡り鳥で、おたおたする事で有名なアイタタ

オタオタドリとこの道では双璧をなす渡り鳥だと言われている。

 その数は数千とも数万とも言われているが、実際には数百程度で、これは明らかに監視員が途中で数え

るのが面倒になった事が原因で起きた誤解である。

 今年は例年になく空模様が荒れているので、ムイカカワタワタドリの移動が気にかけられていたのだが。

コビットの心配など何処吹く風、ムイカカワタワタドリは無事移動を開始した。

 曇り空を切り裂くように進む勇姿は、鳥好きビット、そして彼らとは別の意味で鳥好きなビットに祝福

され。その多くは撃ち落とされて、鍋になって美味しくいただかれるだろうと予想されている。

 このめでたき日を迎えられた事は、全コビットにとって大いに喜ばしい。この日は祝日とされ、一日中

猟銃の音が鳴り続ける。これがあの有名なムイカカの日、その次がナノカカの日、そのまた次の日がヨウ

カカの日である。その後は面倒なので数えない。

 そしてコビット達はムイカカワタワタドリが来年も沢山来てくれるよう祈りながら、うきうきして次の

日を待つのである。




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