7-5.渡りホルマル


 ホルマルは遠く空を飛んでいく鳥をご覧になられておられた。その鳥は力強く羽ばたき、先行する鳥々

を果てもなく喰らっていく。むしゃり、むしゃりと咀嚼(そしゃく)する音が聴こえてくるかのように、

それははっきりとホルマルの目に映られておられた。

「おお・・・、おお・・・」

 しかし今のホルマルは弱々しく、生きる為の気力が不足されておられるかのように感じられる。それ程

にホルマルは絶望され、絶望される事自体さえもお忘れになられる程に絶望されておられた。

 まるでそれはスパゲッティをスパゲッチィと発音するようなもので。それがそもそもスパゲッティが発

音として正確なのか、はっきりと正しいと言えるのか、という問題にまで遡(さかのぼ)らざるを得ない

くらい大変な命題であるからには、ホルマルが珍しく頭をお使われになられた事にも納得出来るというも

のである。

 それを不思議と呼ぶのだとすれば、万華鏡ランドが本日開園し、その珍妙なる景色に惑うと知りながら

も、コビット達は自ら進んでそこへ迷い入る、という事になってしまう。

 惑わせられる事も時と場合によっては重要だと錯覚できるとしても、それをそれとして受け容れる事に

は若干の抵抗がある。

 それはホルマルにさえ、当てはまられるのだ。どんなにそれを認めたくなくても、認めなければならな

い事がある。それがコビット生というものだ。

「何じゃ、この煎餅の山は」

 ホルマルは十瞬の気絶状態から完全に回復されたのか、その曇りきった眼で具に、そして粒粒に辺りを

確認されておられる。

 周囲には薄いひらひらした物体が数多く散乱し、その上にはホルマルの御身も置かれておられる。かと

いって自分でお置かれになられたのであられない事は、その身体が随分地面にめり込んでおられる事から

も確かであらせられる。

 おそらく十ヘクトロンは沈んでいると思われ、そのめり込み具合はまさにヘクトロンと言うしかない。

 ヘクトロンとは元々ヘクト論から出た言葉で。コビットは何をヘクトするのか、というコビットが誰し

も持つであろう疑問から発生した、学問に近いようなものである。そして、一体何がヘクトなのか、ヘク

トとは何なのか、それは一体どういう意味で、何をヘクトするとは何をどうするのか、という疑問からく

る大きな悩み。その悩みの深さによって沈み込む度合をヘクトロンで表すのである。

 提唱者はヘクヘクト・ロンゲニム四世。ホルマルとは遠い遠い親戚にあたるかもしれない関係である。

 しかしホルマルはヘクヘクト・ロンゲニム四世の存在をお知りになられておられない。ヘクトロンと

いう単位がある事さえ、ホルマルはご存知ではない。だからこれをお尻になられないと書くのは甚だ失礼

な表現であるといえる。

「ふうむ、なかなかいける口じゃて」

 ホルマルはとりあえずその煎餅を食されてみられたが、それは案外いける口で、絶対的にどうとかいう

事はないにしても、食糧とするには充分であられた。そこでそれらをたまたま見付けた、ホルマルをコビ

ット目に触れさせない為の隠し用布、でお包みになられ。よっこらとお担がれになられると、そのまま一

歩一歩新しい時間を歩み始められたのであらせられる。

 何故それが新しい時間であられたのか、それは定かではないが。それが確かに未来という新たにやって

くる時間であるからには、新たな時間と呼んでしまっても良いような気がする。それが正当か否かはこの

際問題ではない。そう感じる事から全てが始まる。そんな気がしないでもない事もないような気がしない

でもない事も・・・・。

 こうして繰り返され続けられる言い訳の中でも、ホルマルはしっかりと空飛ぶ鳥をお追いになられてお

られる。

 その鳥とは勿論アイタタオタオタドリの事で、おそらくムイカカワタワタドリを狙う為に現れたのだろ

うと推測される。

 この二鳥はどちらも渡り鳥で、非常に良く似た性質を持っているような気がするのだが、実際には大き

く違うような気がしないでもない。それを証明するように、アイタタオタオタドリはムイカカワタワタド

リが好物で、ムイカカワタワタドリが移動する季節になるとそれを食す為に集まり、一斉に喰い散らかし

た後に改めて移動を開始する。

 つまりアイタタオタオタドリはこの間コビットのライバルとなって、食糧事情の向上を邪魔する存在と

なるのである。

 とはいえ、このアイタタオタオタドリもまたコビットにとっては嬉しい食材で。どちらにしても食べら

れる事には変わらないのだから、どちらも同じように同じ意味で好かれている。

 もしアイタタオタオタドリが食用にならなければ、とうにこの鳥はコビットの怒りによって絶滅させら

れていただろう。食べ物の恨みは恐ろしい。

 ホルマルはアイタタオタオタドリがオタオタしながら飛行していくのを、追われながらご覧になってお

られる。

 そしてずうっと眺めておられる内に、ふと御自分も渡らなければならないのではないか、とお思いにな

られ。それは非常に的を射た意見であるように思われたので、ご自身を渡りホルマルとされる事を承認さ

れ、その後もひたすらにアイタタオタオタドリをお追いになられたのであらせられる。



 アイタタオタオタドリはおたおたしているせいか、非常にゆっくりと飛ぶ。それでもムイカカワタワタ

ドリを捕食できるのは、ワタワタドリが総じてわたわたしているからだ。

 つまりわたわたはおたおた以上におたおたしていると考えられるのである。

 だから例外を除いてしまえば、常にオタオタドリの方が勝つ、ような気がしないでもない。

 まあ、どちらにしても遅いので、コビットが追うのは簡単であり、例え渡りホルマルであられても、そ

の後を付いていかれるのは難しくない。そうは言っても飛んでいるんだからそれなりに速いんじゃないか、

と言われても、何とかなるのだから仕方がない。そこは慎重に目をつぶっていただかなければならない所

である。

 そして渡りホルマルは渡りらしく、実は編隊を組んで飛びたいと考えておられたのだが。その為には渡

りホルマルが複数必要であられ、どうしても不可能である。何しろ渡りホルマルは一匹しかおられないの

だから。

 だが渡りホルマルは持ち前の渡り魂を発揮されてしまい、何とかそれらしい物を用意されてしまわれた。

 それは例の煎餅で、これを身体にお付けになられる事で、何とか色々飛んでいるように見せられながら、

ご自分もまた翼があられるような錯覚に陥(おちい)られたのであらせられる。

 そして当然のように木に登られ、飛び立ち、地面に落ちられる事で、再び気絶なされたのであられる。



 渡りホルマルが目覚められた時、丁度沢山のムイカカワタワタドリが編隊を組んで飛行していく姿が見

えた。

 それをご覧になられた渡りホルマルは、御自分が渡りであられる事を思い出され、もう一度飛び立とう

と思い立たれておられる。

 しかしそこに何処からか沢山の銃声がお聴こえになられたかと思うと、空を翔けるムイカカワタワタド

リ達が次々に地面に落下し、空には一羽も居なくなってしまった。

 渡りホルマルは驚きになられたが、実はそれを予測しておられない訳ではあられなかった。

 何故なら、渡りホルマルが飛び立っては地面に墜落されておらえるのだから、その法則を当て嵌めてし

まえば、ムイカカワタワタドリ達も当然地面に落ちる事になる。

 それが落ちないという事は、ホルマルが渡りではない事を意味してしまい、渡りホルマルという存在の

意味を失わせてしまう事になってしまうので、甚だ困る。

 だからこそムイカカワタワタドリは落ちるべきであり、少なくともホルマルがご覧になられた鳥は、全

て落ちるべきなのであった。

 その理屈、いや真理から言えばこれは当然過ぎる結果であられたので、渡りホルマルは安心されると、

とにかく自分だけは生き延びなければならないという使命感にもお駆られになられ、再び渡り鳥達が向か

っていた筈の方角へ向けて、移動を開始され始められた。



 どうやら他の渡り鳥達は全滅してしまったようだ。この世に生きる渡りは最早渡りホルマルのみであら

れ、その生には全ての渡り達の希望を背負われる事になられたのである。

 だが渡りホルマルはこの時、何故御自分はお渡られになられるのか、何処までお渡られになれば良いの

か、という渡りの二大疑問という壁におぶつかりになられ、苦悩されておられた。

 それは渡りだからさ、と渡り風に開き直られれば良かったのだが。渡りホルマルは渡りとしてはまだま

だ新米であられるせいか、そこまで突き抜けられないのであらせられる。

 大ビットたるホルマルも、渡りになってみればまだまだひよっこに過ぎず。頼りない渡りでしかおいら

れにはなられなかった。

 しかし流石は渡りでもホルマル。やがて渡りという名を冠しているからには、これは逃れられぬ宿命だ

と悟られておしまいになり。お一人でもその宿命を全うされるべく、動き始められたのであられる。

 そしてまずは必ず落ち葉から落ち葉へと渡り歩かれる事にされた。これは渡りである以上、必ず渡り続

けなければならないという事実に、今初めてお気付きになられたからであらせられる。

 幸いここは森であるし、季節もそれなりに葉っぱが生える時期であるから、落ち葉には苦労しない。落

ち葉は落葉の季節だけだと勘違いしているようなビットが居れば、そのビットこそ落ちてしまえば良いの

である。

 渡りホルマルがそんな下らない迷信をお信じになられる筈があられないではないか。

 しかし葉を渡り歩くのには限度がある。

 だから次に落ち枝を渡り行かれようと考えられたのだが。枝は流石に数が少なく、落ち枝を探すだけで

も一苦労であられる。そこで自ら枝をお折りになられ、そしてそれを程好い距離に投げられながら移動さ

れる事にされた。これは困難な作業ではあられたが、渡りとなったからには仕方の無い事であられる。

 だがここでまたお気付かれになられた事があられた。

 それは、このままでは渡りホルマルではなく、渡り枝になってしまうのではないか、という疑問であら

せられる。

 確かにそれはそう言える事で、枝と枝を渡っておられる以上、これは渡りホルマルではなく、渡り枝と

言ってしまっても不思議ではなくなられる。そのせいで渡りホルマルはこの一時期だけ渡り枝と名乗られ

る必要に迫られておしまいになられたのだ。

 そしてそう名乗る事で、あたかも御自分が初めから枝であられたかのような錯覚を引き起こしになられ

たのであらせられる。

 そうなると枝らしく、実に枝っぽく振舞わなければならない。むしろ枝らしくとかっぽくとかいう感情

さえ、消してしまわれなければならない。何故なら枝が枝らしくなどと思う訳がないからである。

 枝は生まれた時から枝であり、存在自体が枝である。その証明も意味も理屈も必要ではない。そうある

事が即ち枝なのだ。

 渡り枝がその場に倒れ、いつしか枝そのものに戻られるまでには、さほど時間は必要でなかった。



 枝が転がっている。もう渡りですらない。自分が枝と悟った時、枝以外の全てを捨てたのだ。自分は枝

であり、それ以上でも以下でもそれ以外でもない。枝は枝としてこの場に在り続ける。

 いや、待てよ。ここに落ちていては落ち枝になってしまうではないか。それでは純粋な枝ではなくなっ

てしまう。

 ではどうするか。それは当然、枝になるしかない。

 枝はすっくと立ち上がると、一番近くに生えていた木にくっ付き、両手を天高く突き上げた。

 そしてそのままぴしっと静止する。

 これで全てが解決出来た筈なのだが、不思議な事にまた疑問が持ち上がってきた。それは今の時期の枝

には葉が生えているものではないのか、という疑問である。

 それは尤もな疑問のように思えたので、枝はささっと付近の落ち葉を集めて、ぺたりぺたりと枝自身に

貼り付ける事で、完全なる枝に成ろうとした。

 しかしそれはどうしても受け容れられない事であった。何故なら落ち葉を貼り付けた時点で、葉が生え

ているとは言えなくなるからである。再び枝は自分という存在についての疑問を晴らせなくなってしまっ

ていた。

 葉が生えないという事は、自分は枝ではない、枝のふりをした何かである。ではその何かとは何か。洒

落ではなく、本心からそう考え、実に興味深く悩んだ。

 それでも答えは出ない。辛うじて自分が枝ではない事が解ったが、では一体何者なのかが皆目見当も付

かないのである。

 これは困った。困りに困った。そして困りに困った上で、枝は一つの単語を思い出した。

 それは、渡り、という今は失われた言葉である。

 渡り、それは素敵な響き。それを聞くと、まるで自分ではない何かに生まれ変われるような、全く別の、

しかし自分以外ではない、不思議な何かに生まれ変われるような気がしてくる。それを付けるだけで全く

別の特別な何かになれるような気にさせる、不思議な言葉だ。

 でもそんな素敵な言葉を思い出しても、それだけではどうにもならない。渡りの次に来る言葉が必要で、

肝心である。

 まず枝、という言葉が浮かびかかったが、それは違う。それに縋(すが)りたい気持ちも確かにあった

のだが、今更否定された事実を蒸し返す気にはなれない。

 次に浮かんだのが葉。これはなんとなく良さそうだが、やはり違う。そもそも渡り葉も渡り枝も渡りの

修行の一環、いやそうなる為の必要な手段として考えられたものではなかったか。そういう記憶が少しず

つ戻りつつある今、渡り葉だと断定してしまう訳にはいかないのである。

 そうしたい気持ちがあっても、一度記憶が戻ってきた以上、自分をごまかせない。

 では何なのか。自分を渡りの道へと導いたのは、そもそも何だったのか。

 枝だった者は考えに考え、必死に思い出そうとした。多分こんなに頭を使うのは初めての経験だったの

ではないだろうか。

 そして頭を使っている内に、ふと閃いた言葉がある。それはいつか故郷で聞いた懐かしい名前。

 そう、渡り鳥である。

 答えが出た以上、それが何の鳥であるかは問題ではなかった。自分は渡り鳥、渡る為の鳥、渡らずには

いられない鳥、そう思うだけで今の枝だった者には充分だったのだ。そしてまるで失われたものを取り戻

すかのように、枝だった者は渡り鳥としての記憶を瞬時に取り戻した。

 そして渡り鳥は羽ばたき始める。それが地上で単に両手をばたばたするだけの事であっても、渡り鳥に

とっては充分だった。

 自分は渡り鳥、鳥である。しかし誰もまだ大空を翔ける鳥だとは言っていない。地面を歩くだけの鳥も

世の中には結構居て。結構居るからにはそれが全部渡らないとは言えない筈だ。きっとそのうちの何種類

かは渡っている。いや渡って欲しい。そういう希望がある限り、決して渡りは諦めない。例えその渡り距

離がどんなに短いとしても、渡りは渡りであり、そうであれば渡れない筈はない。飛ぶだけが渡りではな

いのだ。渡る事こそが渡りなのである。

 渡り鳥は今渡り始めた。

 目的地が何処かは解らない。それにどんな意味があるのかも解らない。しかし渡りが渡りである以上、

ここを渡るのだ。どこまでも渡るのだ。渡りは渡りであり、渡りであるからには渡らなければならない。

渡ろう。そう、渡ろう。大声を上げて渡ろう、元気よく渡ろう。

 渡り鳥は決意を込めて歌い始めた。例えそれがどんなに下手糞で、全く歌には思えなかったとしても、

本鳥が歌として歌っている以上、それは歌である。

 それは歌だ。そうに違いない。歌でなければ何だと言うのか。

 歌は届く。確かに届く。

 誰に。

 そう、見張り局員に。

 気持ちよく寝ていた局員も、流石にこの狂音の前には持ち前のふてぶてしさを保つ事は出来なかったの

である。そして起きてそれを知った以上、上司へ報告する義務が生まれる。どんなにそれが嫌であっても、

生まれたものは仕方がない。局員である以上、仕事からは逃れられない。

 局員は仕方なく局長へ知らせた。

「そ、それは本当かッ! やったぞ、遂にやった! ついにホルマルの謎を解いたのだ! 奴こそは歌う

ホルマル、歌マルだったのだッ!! 歌マルだ、歌マルだぞッ!! ハーッハッハッハ、ハーッハッハッ

ハ、ハーッハッハッハッハ」

 局長は狂喜乱舞しながらその事を上層部へと伝え、当然のように上層部の怒りを買い、その場で首を切

られた。それは比喩表現ではあるが、局長自身にはどちらの意味でも通っただろう。何しろ局長は夢も希

望も現実以外の何もかもを失ったのだから。

 こうして局長が渡り鳥の初の犠牲者になったが、すぐに新局長が派遣され、局自体は変わりなく保たれ

た。誰が抜けようと、誰が入ろうと、変わりなく存続し続ける。個人を越えた絶対的組織、それが局。

 それを切る事は上層部にさえ出来ない。何故なら、局を切ったなどという表現は、今の所聞いた事がな

いからである。存在するものを利用するのが権力であるからには、存在しないものを利用する事は出来な

い。それをする為には上層部以上の権限が要る。つまり規定を創る権限を持つ、最上層部の力が必要だ。

 最上層部ならば、局自体を別の局に変える事も、名称を局から庁とか省とか社とか何とか色々と変える

事が出来る。それで局を切ったという表現は使われないにしても、意味としては同じものとなる。

 最上層部ならば、局自体を変化させる事が出来る。

 彼らは上層部を越えた恐るべきビット。

 遂に最上層部が姿を現す。




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