7-6.真の敵は誰が許に


 最上層部は腰を上げるまでに時間がかかるが、一度動き出せば後は速い。すぐさま局を庁へと改め、そ

れによって局が起こした数々の不祥事と失策を取り繕おうとした。それもこれも全てはあの局長、そして

それに踊らされた愚かな上層部の面々のせいである。責任の所在が明らかな以上、全員処分されなければ

ならない。

 最上層部は一切容赦しない。上層部のビット員を全て変え、ついでに全ての罪を彼らに被せ、何となく

有耶無耶にしてしまった。

 そして最上層部はこれ以上ホルマルに関わる事を止めた。そもそもホルマルにこだわっていたのは元局

長であり、最上層部の意図せぬ所。それを上層部が食い止められず、今まで好き勝手にされてきたが。最

上層部が出てきた以上、そんな事は許さない。

 何も結果を出せていない事は腹立たしく、今更それを止めると決心するにはあまりにも多くの費用と犠

牲が出てしまっているとしても、最上層部の決断は変わらなかった。

 流石に最上層部である。その辺の上層部とは違う。伊達に最はついていない。もしこれが犀(さい)で

あったとしたらえらい事になってしまうが、残念な事に犀ではなく。最が犀でない限り、そして祭でもな

い限り、最上層部は最上層部としての使命を全うする。

 もし犀上層部であれば、どこぞの密林の奥にでも行かないとならなくなるだろうし。もし祭上層部であ

れば、一日中お祭り騒ぎでえらい事になっていた筈だが。最なのだから、そういう心配は要らないのだ。

 つまり、最上層部はあくまでも最上層部であり、犀上層部でも祭上層部でもなかった為に、この英断を

下せたのだと言える。

 頭に付く文字というのは、このように非常に重要である。

 こうして局改め庁の妨害工作は潰えたのだが、渡り鳥の苦難が終わった訳ではなかった。

 渡り鳥の苦難はこれからだ。簡単に言えば、渡り鳥は今まさに渡ろうとしているのである。小川の端か

ら端、そこを移動する事で、文字通り渡り、渡り鳥になろうとしている。

 これは渡り鳥が考え出したにしては非常に良い方法で、まさに渡りに相応しい渡りと言えるだろう。

 だからこそ渡り鳥なのだとしても、やはり渡り鳥にしては立派な渡りを考えたものだと賞賛してやる事

は、必要な処置であると思える。

 だがここで困った事が起きた。

 そう、渡り鳥は泳げないのだ。そして足も非常に短い。例えこの小川が文字通りとても小さな川で、水

深がかかとが浸る程度しかなく、その幅もじゃがいもを横に五つ程並べた程度であったとしても、この川

という水は渡り鳥にとっては脅威である。

 もしつまづきでもすればどうなるか。おそらく見事に水面に顔面を突き立て、そのまま溺れてしまうだ

ろう。

 仮につまづかないと考えても、何らかの措置によって何らかの悪しき事が起こるに違いない。

 何故なら、そうでなければ面白くないからだ。渡り鳥にはそういう期待に応える義務がある。決してそ

こからは逃れられない。渡り鳥は笑いを誘う為、それに相応しい言動を取らなければならない。

 それが遥か昔から伝わらない、極々最近、正直言えば今思いついた、宿命である。

 それを知ってか知らずか。渡り鳥は両腕を上下にばたばたさせながら、対岸を眺めて溜息を吐いていた。

それはもうはぁ、はぁ、と絶え間なく、まるでそれが鳴き声かと聞き違える程に。

 渡り鳥は正直、ここを渡りたくない。しかしここを渡らなければ渡り鳥ではなくなってしまう。渡り鳥

である為には渡らなければならない。

 渡り鳥は悩む。どこまでも悩む。

 そして渡り鳥に一つの考えが浮かんだ。あまりにも渡るのが嫌で、ない頭で必死に考え、導き出された

可能性。

 それは果たして自分は本当に渡り鳥なのかという、今更な疑問。

 確かに自分は渡りと関係があったのだろう。そう名乗っている以上、何らかの関係はあった筈だ。もう

一歩進んで渡り鳥と関係があったと考えてもいい。でもそれは自分が渡り鳥であるという証明にも理由に

もならないのではないだろうか。

 記憶が混乱し、枝、渡り枝、渡り鳥とその存在を変えてきた事、そもそもそれが間違っていたのではな

いのか。自分には本当は渡りとか鳥とか枝とか、そういう物は一切関係なかったような気がしている。そ

んな気がする。

 今この小川渡りに踏み出せないのも、それを証明しているのではないだろうか。自分が渡りでないから

渡れないのだと。

 では自分はただの鳥なのか。いやそうではない。よくよく見てみると、自分には全く羽毛がないのであ

る。あのふあふあが、ふわふわがないのだ。これでは鳥とは認められない。認めたくない。そういう規定

がどこかにあったような気がするし、渡り鳥個鳥としても納得したくない。

 つまり渡り鳥は、この小川をどうしても渡りたくないという気持ちから、自分を否定し始めたのである。

 これはコビットが無意味に自分という存在を何かに求めるのとは正反対の心である。コビットが意味も

なく自分を主張し、中身も無いのにどうでも良い事を言い立てる事とは全く対照的だ。

 そしてこの心が頂点に達しようとしていた時、ある一ビットのコビットが前触れもなく現れた。ある意

味、都合よく、と言い換えてもいい。

 そのビットとは、他ならぬあの元局長であった。

 元局長は全てを失い、家族も彼を捨てて財産を持ち去った事で一ビットぼっちになってしまった。だが

それでも彼はホルマルへの興味を失うどころか、益々強くしている。

 まるでホルマルの全てを暴きさえすれば、自分は再び局長、いや庁長として返り咲けるのだとでも言う

かのように。

 それは見当違いな考えだったが、今の元局長にとってそんな事はどうでもよかった。彼が今生きる為に

はそういう希望にすがるしかなく、他にどうしようもなかったのである。

 だから元局長は強硬手段に出た。自ら出向き、ホルマルと会う。そしてその全てを暴く。それこそが唯

一絶対の望み。元局長を止められるビットはもうどこにも居ない。元局長は完全に無視されている。

 元局長はすぐさま家を飛び出してホルマルの許へ向かい。ほとんど渡り鳥?が移動していなかったおか

げですぐに発見する事が出来た。

 そして渡り鳥?を発見した刹那、喜びと共にこう叫んでいる。

「ホルマル!」

 と。

 もしかしたら二度、三度と叫んだかもしれない。だが回数は重要ではない。ホルマルという名を止せば

いいのに叫んだ事が重要なのである。

 自分が何鳥なのか、それとも何者なのか解らなくなっていた渡り鳥?にとって、その言葉は雷鳴のよう

に響き渡り、その全てに衝撃を与えた。そして思い出されてしまわれたのである。御自分がホルマルとい

ういかがわしいビットであられた事を。

「ホルマル。俺も終りだが、お前ももう終わりだ」

 元局長がその名を叫ぶ度、ホルマルに衝撃が走り、失われた筈の記憶がより鮮明によみがえる。

 だがここで運命の悪戯か。

「お前が歌マルだという事は解っているんだ! この歌マルめ!」

 と、元局長は叫んでしまった。

 ようやくホルマルという心と記憶を取り戻される所であったのに、歌マルという余計な言葉が引っ付い

てしまったせいで、ホルマルの心は複雑な何かをお生じになられ、何だかよく解らない化学反応だか何か

によって、強制的に歌マルへと変貌を遂げられてしまわれたのであらせられる。

 その理由として、正直ホルマルはホルマルというホルに飽きられていた節があった。たまにはホル以外

のものを頭に付けても良いのではないか、別のマルになっても良いのではないか、とでもいうような。

 そこに鮮烈に響いた歌マルという新たなる衝撃。これを否定される事は、今のホルマルには到底出来ら

れない事であらせられる。

 ホルを歌に換えるという魅力的な提案に、ホルマルも逆えられなかったのだ。ホルマルも所詮コビット

の子であられたという事だろう。コビットという種はそれっぽい誘惑には非常に弱いのであるからして。

 結局ホルマルはホルを完全に取り戻される前に歌マルへと変わられてしまわれた。歌マルとなった以上

は歌われなければならず、これ以後死ぬまで歌い続けるしかなくなられたのである。

 これがコビットの聴覚に絶大なる被害を及ぼし、後世まで聴覚を破壊する妖怪として言い伝え続けられ、

都市伝説でも有名になられる、歌マル誕生の瞬間であった。



 歌マルは歌われ続けられた。とにかく歌われ続けられた。元局長などはとうに歌マル音波によって気絶

している。もしその姿を元局員が発見しなければ、そのままそこで朽ち果てていたかもしれない。

 しかし歌マルはあまりにもお歌われになられたせいで、程無く喉を潰しておしまいになられ、かすれ声

しか発せられなくなり。それでも意地になってお歌われになられたので、いつしか超音波を発せられるよ

うになられておられた。

 これでは歌マルではなく、超音波マルになってしまうが、ご本人は全く気にされた様子があられない。

 そこで自然の流れとして、名前を超音波マルへと変えられる事になられた。

 超音波マルはあらゆるものをイライラさせる音波を発せられながら、世界中の全てをイライラさせてし

まわれようと、活動を始められておられる。

 それは超音波マルの意思というよりは、本能であられたと言えるだろう。ホルマル本来がもつ傍迷惑な

全てが、この超音波マルになられた事によって方向性が付与されておしまいになられ、そうなればその方

向に動かれ始められる事も、自然の流れというものであらせられる。

 これが自然でなければ超自然という事になってしまい、超が被る事になって、甚だ面倒な事になってし

まう所であった。それが被らず自然に収まる結果になった事は、コビットとしても非常に喜ばしい事であ

る。だからこれはこれで良かったのだろう。

 しかし程無くご自慢の超音波を出される事にさえ、お疲れになられてしまわれたので。それは次第にた

だの吐息へと変わってしまわれてイカレておられる。

 これも疲労、限界という自然の流れであるからには、当然辿り着かれる結果であられたと言えるだろう。

 それが言えるからどうだと問われれば、それに対して何も言える事はないが。ともかく超音波マルは吐

息マルへと更なる変化を遂げられ。最終的にその吐息にすら疲れておしまいになられた事によって、ただ

のホルマルへと戻られたのであらせられる。

 つまり結局最後はホルマルもホルマルに辿り着かれるという事で、真理の一端が証明されたのであった。

 もしこれを元局長が見ていたら、その発見に狂喜乱舞し、学会を文字通り騒がせる事になったかもしれ

なかったのだが、今の元局長にそんな力は残されていない。ただ元局員が何らかの措置を講じる事を期待

し、じっと朽ち果てていくのみ。

 今はもう上層部も最上層部も関係ない。ホルマルと共に、朽ち果てつつある一ビットのコビットが居る

だけである。

「おお、何だか久々にすっきり目覚めたような心持じゃわ。こんな心持になったのは、黄頃餅を食した時

以来じゃて。確かにあの時はそうじゃ、その名前の通り心持が黄頃餅になるのだと、俄かに信じがたくと

も、そこは信じてみるのも一興じゃと思わされたあの時、あの時以来じゃて」

 ホルマルはかすれたお声もお気にされず、いつものように堂々と独り言をこぼされると、そのまま歩い

てイカレタ。その先に何があるのか、ここがどこであるのかも解っておられないのに、まことに堂々たる

歩きっぷり。正しく大ビットに相応しいビットであらせられる。

 そもそも森なんてどこにいっても森なのだから、ホルマルとしてはどこに居ても同じであられるのかも

しれない。ここがどこの森だとか、この先に何の森があるのだとか、そんな事は一つも考えておられない

のだろう。ただそこに森が在り、ホルマルが居る。それだけである。

「ホーホ、ヤッホッホー。ホーホ、ヤッホッホー」

 ホルマルは歌マルの名残なのか、鼻歌に非常に近いようなものを口ずさまれながら、スキップに限りな

く近い競歩とでもいうような形で、一心不乱に歩かれておられる。

 何しろ久々にすっきり目覚められたのだから、ここは一つ日課の散歩をされなければならない。何故な

ら、そうしなければ日課にならないからであられる。それを日課とする為には、それを行い続けられなけ

ればならないのである。

 日課という言葉がそうした意味である以上、ホルマルとても従わざるを得ない。確かにコビットは言葉

に支配されている。それは元々コビットの言動を表現する為の、単なる言葉でしかなかったものが、次第

に言葉自体に重みが生まれてしまい。元々自分がそうだからそう呼ばれていた筈なのに、いつの間にかそ

う呼ばれるから自分がそうしなくてはならないと考えるようになる。これはまことに不思議な現象である

が、コビット世界ではよくある話だ。

 コビットはこういった勘違いによって様々なものを生み出し、日々退化し続けている。それを進化と勘

違いしていればこそ、退化をやめないのである。まことに悲しむべき事だ。

 しかしホルマルはそのような事は全く気にされておられない。雄々しく、猛々しく、ただ歩かれるのみ。

例えそれに縛られているとしても、その事を全く気にされない、又は完全に気付いていないのであれば、

それは勝利である。無視というの名の勝利である。

 ホルマルはその事に関してはどのビットよりも才能がおありになられる、ような気がする。

「ふうむ、どうもいかんの。これはいかんぞい」

 しかしそんなホルマルにも一つ二つ悩みがあられた。

 それはかけ声の問題である。何しろ気分良く散歩をする為には音楽が要る。それはどこからか聴こえて

くるものでも構わないし、自分で奏でてもいい。何でもいいからとにかくリズムに乗って上手い事歩ける

音楽があればいいのだが、今のホルマルはそれを上手くお思い付きになれないのであられる。

 先ほどまでは、ホーホ、ヤッホッホー、などというちょいと小粋なリズムに乗っておられたのに、それ

に代わるべき、いやそれ以上に乗れる新しき音楽を全くお思い付きになられない。

 こうなればスキップに限りなく近い競歩から、競歩に限りなく近いスキップにまで落ち。更に競歩でも

スキップでも、ましてやスキップでも競歩でもない、歩き方に変わってしまわれるのも時間の問題だろう。

 勢いは失速し、程無く足は止まり、ホルマルはこう痛感された。

「ここは何処じゃい!」

 と。

 ホルマルには全ての道が開かれている筈であられた。しかしその道を今完全に見失われてしまわれたの

であらせられる。これは非常におかしな事のように聞こえるが、不自然な事ではない。何故なら、例えそ

こに道が無数にあったとしても、それが何らかの理由で見えなければ、やはり見失ってしまうからだ。

 むしろそこに道があるからこそ見失ってしまう。これは道が開かれたビットに対する、痛烈な皮肉とい

うものであった。

 それはホルマルとても回避する事の出来ない、恐るべき問題であられる。

 何しろそれがあるからこそ見失うのであり、それが初めからないのなら見失う事も出来ない。これは一

つの真理というもので、コビットは言葉に支配されているという事の証明に程近い次元にある問題なので

はないかと思える程である。

 例えそれが勘違いだとしても、そこには何かがある。いやあって欲しい。

 そういう心であられたのか解らないが、ホルマルはとにかく道をお見失いになられたのであられる。

「まあ、よいわ。寝ていればまた何とかなるだろうて」

 ホルマルは考える事を放棄され、全てをお諦めになられると、そのまますっぽりと眠られてしまわれた。



 一月が過ぎ、ホルマルは仮死状態のようなそうでないような状態になられて、しぶとくそのままのお姿

で生き延びておられる。

 不思議な事に痩せも太りもされない。これは大気中、或いは大地の中から摂取されておられる養分が、

丁度良い具合に体内へ送られておられる事を意味している。まことにこういう時のホルマルは、非常に合

理的かつ強靭な存在であられる。

 生存するという事にかけては、あの黒光りする虫でさえ足元にも及ぶまい。ホルマルこそがこの世でも

っとも強い生命体である事は、どんなに否定したくとも、認めるしかないのだろう。

 どれだけ死にそうになっても、いやむしろ死んでしまったとしても、ホルマルという命を完全に消滅さ

せる事は出来ない。おそらくそういう事になっている。この世はホルマルをそういう生命へと退化させて

しまったのだ。

 推測するに、あの世がホルマルを拒んでいるのだろう。

 この世もすぐさまあの世へ押し付けたいに違いないのだが、あの世もまた決して受け容れたくない。

 そしてこの世からあの世には簡単に行けるのに、あの世からこの世にはなかなか行けないという所から、

この両世の強弱関係は明白で、この世は一方的にホルマルを押し付けられているが、それに屈するしかな

い。という結論が成り立つ。

 しかしこの世もあの世の好きなままにさせてはおかない。あらゆる手を用いてあの世と争っている。両

世の火花散る争いは生と死という関係を加速させ、それは流れ矢的に他の生命にも降りかかる。つまりホ

ルマルこそが全ての生死の元凶であると言えなくもない。

 ホルマルが居るからこそ、この世に生死というものが夥(おびただ)しく蔓延(まんえん)しているの

だろう。

 それならば、ホルマル誕生以前の生死はどうだったのだろう。

 これが残念ながら解らない。何しろホルマルがいつ誕生されたのかさえ解らないのだ。

 ホルマルは生まれ出でた時からホルマルであり、気付いた時にはコビット社会に入り込んでいた。そし

て勇名をはせ、たような気がしないでもないような不都合な状態を経て、一介の爺ビットに落ち着かれた

筈なのであられるが、通常のビットとは全くかけ離れられた存在であられる。

 まるでコビットとは別の不思議生物ででもあられるかのように、コビットであられながらも通常ットと

は違う。

 ここからホルマルは何者であるか、という論争が起き。今まででもその謎を解き明かそうとして数々の

ビットが犠牲になってきた事はよく知られている。

 そしてその謎が何一つ解き明かされていない事も。

 だからホルマルがいつお生まれになられたのか、そのコビット生が一体何であられるのか、はさっぱり

解らない。

 解らない事は解らないと言うしかないのである。

 しかし一つだけ解る事がある。それはホルマルは生存し続けられるという事であり、あの世がホルマル

を拒否し続ける限り、いつまでもこの世に在り続けられるという事であられる。

 これをどうにかする為には、あの世以外にホルマルを押し付ける場所、仮にホルマル収容所としよう、

それを新たに創るしかない。そうして永遠にそこへ閉じ込める。死にすら忌避される存在には、そうする

以外に対処法は無い。まさに終わりなきがホルマル。その言葉通りの存在であられる。




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