10.蒼人9 自己


 私がその日目覚めると、そこはまったくもって陰気な一室のベットの上であった。

 周りの壁は黒々と変色しており、もはや年代を感じるとか言う次元では無く、朽ちていると言うよりは腐

敗していると言った方が近いだろうか。

 しかしシーツだけはやけに小奇麗で、不思議とさっぱりしていたのが印象に残る。

「ここは・・・うほッ、えほッ」

 声を出すとかび臭い臭いが体内に入り、私は思わず咽てしまった。慌てて側に見付けた窓を開ける。

「ふう・・・・」

 新鮮な空気が私を包み、苦しみから解き放たれた。やはり新鮮な空気と言うものは何にも勝る妙薬だと感

じる。後は綺麗な水があれば完璧だろう。

 そう考えると急に喉の渇きを覚えてしまった。しかし辺りを見回しても水道らしき物は見えない。

 諦めて再び窓に目を移す。

 そこからは白い壁が見えた。その壁にはここと似たような窓があり、その向こうにはやはりこの一室と同

じような黒々とした壁があるようだ。

 連立した建物なのだろう。所有者が同じかは解らないが、少なくとも同じ目的で造られたのには間違いは

無いと思う。

 もう一度私の居る室内を見回してみる。

 殺風景な部屋に古いテーブルと先程私が寝ていたベット、後は電話らしき物、それだけの景色。他にある

ものと言えば、今私が履いているスリッパだろうか。ドアの側には靴もある。私は取り合えずその靴に履き

替えた。

 スリッパはあまり好きでは無い。

「良く解らないな・・・」

 解った事と言えば、この部屋が何かの宿泊施設であるらしき事だけだった。それ以上は解らない。ここが

ホテルの類なのか、それ以外の何かなのか。或いは廃ビルと言う可能性もある。しかしそれだとあのシーツ

の新しさが説明出来ない。

 わざわざ打ち捨てられたビルのシーツだけを変えに来る者は、まったくいないとは言えないにしろ、ほぼ

皆無ではあるだろう。少なくとも私の記憶にはそう言う人物の存在は無い。

「ん、記憶??」

 記憶と言えば、そう言えば私は一体誰だろう・・・・。そうだ、B.Kだ。そう呼ばれているはずだ。

 ならばここは?そして何処から来て、何の為にこんな所へ居るのだろう。困った事に何も思い出せない。

記憶が混乱しているのだろうか。まさか寝ぼけている訳では無いだろうが、その可能性も否定出来ない自分

が恐ろしい。自分の事が解らないと言う事は、自分が何をやるのかも解らないと言う事でもある。

 本来は唯一確かであるはずの自分自身。それを理解出来ないとなれば、その恐ろしさは筆舌に尽くし難い

のが解ると思う。

「ともかくこの部屋から出よう」

 私は一つだけあるドアへと近付いた。

 そして無意味に颯爽とノブを回す。しかし・・・・。

「開かない・・」

 また困ってしまった。ドアが開かないのである。私は内側から開かないドアなど聞いた事が無いのだが。

 そして不思議な事に鍵穴も鍵らしき物すら見えないのである。

「ドアに見せた壁なのか・・・・。いや、そんな馬鹿な」

 私は再度ドアノブに手をかけた。しかしいくら回してもそのドアはびくともしない。イライラしてきた私

は体当たりまで試みたが、まったく微塵も動く様子は無かったのである。

 おかしい。開かないまでも、体当たりをすればドアが少しはぐらついて動きそうなものだが。しかしこの

ドアはまったく小揺るぎもしないのだ。

「なんなんだ、これは・・・・。私が単に馬鹿なのだろうか」

 室内に居てドアを開けられない。ノブを回せたのだから、ドアの開け方まで忘れた訳では無いと思う。と

なれば私は閉じ込められていたのだろうか。しかし何故・・・。

「解らない・・・何も・・・」

 記憶があればまだ納得も出来よう。しかし私にはそれが無く、まったく現状が把握出来ない。

 私は万策尽き、途方にくれてベットに腰掛けた。相変わらず何も解らない。

 

 どれほどの時間が流れたのか。

 あれからの私はどうしようも無く、ただ室内をうろうろと歩き回っては途方にくれているのみであった。

 迷路ならまだ良い。しかし出口が無いとなれば、もうどうしたら良いのだろうか。

 ここに訪れる人間も無く。手がかりも得られない。自分からわざわざ閉じ篭った訳では無いと思うが、し

かしそれも完全に否定出来ない自分が虚しかった。

「いや、出口なら・・・」

 困惑していた私の目に一つのものが映り、頭の中に一つのイメージが思い浮かんだ。いつもならば絶対に

しない事であるが、こうとなれば仕方が無い。

 私はベットに近寄るとその清潔なシーツを引き剥がし、何度かそれを縦に裂き、そして割いたシーツの先

端同士を結び付けて一種のロープを作った。甚だ強度に疑わしいのだが、これ以外に方法はないのだからこ

れも仕方が無い。運が良ければ上手くいくだろう。

 運が悪くても落ちるだけだ。

「頼むぞ」

 窓辺までベットを引き摺り、そしてその足にシーツを固く結び付ける。

 幸い下まではそう遠く無い。ここは二階か三階かその程度なのだろう。或いは落ちたとしても、何とか助

かるかも知れない。

「よし、行こう!」

 シーツロープを窓から外へと垂らし、気合を入れる為に少し大きな声を出す。

 正直怖くて仕方が無いが、それでもやらなければならない時もある。それこそが人生と言うものなのだろ

う。立ち向かってこそ切り開けると言う言葉も誰かが言っていたはずだ。根拠は無いが。

 私は恐る恐る足からゆっくりと外へと身体を出していった。壁を踏みつけるようにすると、案外摩擦力が

あるのかしっかりとした足ごたえが返って来た。この分なら何とかなるかも知れない。

 山岳救助隊、或いは消防団。そんな言葉と映像を頭に浮かべながら、なるべく足裏に体重をかけるように

しながら(気持の中で)、ゆっくりと身体を下ろしていく。

 汗がじっとりと額に滲み、心臓が弾けそうな程に高鳴った。

 自分は何と馬鹿な事をしているのか、そう何度思ったか知れない。

「ふう・・・・」

 それでも幸運にも私は地面へと降り立つ事が出来たのだった。私は何処かの神等に深く感謝を捧げた。

「さて、これからどうすれば良いのか・・・」

 しかしあの部屋から脱出出来たとして、それならそれで新たな問題も起ち上がる。

 周りを見回してみるが、やはり白い壁しか見えない。まるで白壁の迷路にでも迷い込んだかのようだ。

 ともかく進んでみるしかない。私は疲れ果てた身体に鞭打って、再び歩き始めた。勿論当てなどありよう

も無い。



 どれだけ歩いただろうか。相変わらず四方は白壁が続いている。何度も曲がったので、最早位置感覚も方

向感覚も無かった。何処をどれだけ何処へ進んでいるのか、それすらも検討が付かない。

「・・・どうする」

 自問自答してみる。

 例え今から引き返したとしても、何か解決する訳ではなく、スタートへ戻るだけ。そして手元にはこう言

う時に使えそうな道具は無い。都合良くコンパスやマップなど持っている訳も無い。

 つまりはこのまま進むしかない。真っ直ぐ進んでいれば、何処か果てはあるだろう。幸い分かれ道は今ま

で無かった。

 だがそれ故にぐるりと回っているだけではないかと言う不安もある。もしそうであれば、永遠にここから

出る事は出来ないのだ。もし誰かがあのシーツロープを外し中へ取り込んでしまえば、それでもうループは

完成する訳なのだから。

「行くしかないか・・・・」

 小石でも落ちていれば、それで壁に印を付けられるのだが、不思議な程そう言った物も落ちていない。よ

ほど綺麗好きな管理者がいるのか、それとも初めから無かったのか。

 そう言った雑多無意味な事を考えながら、私はただ前へと進むしか無かった。身体が悲鳴を上げている。

壊れなければ良いのだが・・・・。 




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