11.蒼人10 白魔


 もう疲れた。

 私は地面に倒れ込むように座り、暫く息を吐いてから横になった。全身が疲労に包まれ、最早一歩も歩け

ない。いや、歩きたく無い。これ以上何もしたくは無かった。

 目の前に広がる景色は相変わらずの白、白、白。真っ白で頭が焼き切れそうになる。

「一体何処まで行けばいいのだろう・・・」

 あれからどれだけ歩いたのか、もうそれすらも霞む程に歩き続けた。そうする以外に何も方法を思いつか

なかったからだが、それだけに徒労を感じる。せめて何か得るものでもあれば、またこの疲れも違ったもの

になっていたのだろうが。しかし予想通り何も得るものは無かったのである。

 あのままあの部屋に居た方が良かったのかも知れない。少なくともベットがあり、休むことは出来た。

 まあどちらにしても最終的にはあそこから出るしか無かったのだろうから、これはこれで良いのだろう。

どう足掻いた所で、結局は同じ結果になると言う事もそう珍しい事では無いと思う。

 それは運命と呼べるかも知れないし、単に自分の力が足りなかったと言えるのかも知れない。どちらにし

ても今私が解るのは、間が抜けているが今こんな所で遭難していると言う事実であった。

 森林や渓谷、高山などであれば、それは仕方が無い部分もあるかも知れない。しかしこんなビル群の中で

遭難とはなんとも間抜けな話であろう。俗にコンクリートジャングルと言う言葉もあるが、しかしその創作

者もこの状況を意識して創った訳ではあるまい。

 だがそんな馬鹿みたいな状況でも、本当にどうしようも無かったのだから仕方が無い。

「何か、何かあれば・・・・」

 視線を四方へ飛ばし、何か脱出への手がかりでもあればと探して見る。だがやはり返って来るのは、白い

壁と無意味に綺麗な地面。こうなれば、もう穴でも掘るしかないだろうか・・・。しかしかと言って掘る道

具も無ければ、どちらへ掘れば良いのかも解らない。

 諦めて天を眺める。

 空は呆れる程晴れ渡り、澄み切った蒼に覆われている。だがそれすらも私を嘲笑っているかのように見え

た。心が荒み出しているのだろう。

 気を取り直して、もう一度考えてみる。

「やはりループしているのか・・・」

 そう考えるのが妥当であるか。それにここが永遠に続くと思えるくらいに広い場所だとは思いたく無い。

例え出口があったとしても、それほどの距離を行き着く気力はもう無かったからだ。

 それならばループしている方がどれだけ楽だろうか。

 そしてループしているとすれば、ここからの出口は一つしかない。つまりはこのビル群の向う側だ。

 ビルを通って反対側へ抜ける。おそらくはそれしかないだろう。

「また入るのか・・・。しかし、私は一体何をやっているのだろう・・・」

 色んな部分が腑に落ちない。でも、今は行動するしかなかった。生きるとはそんなものだろうか。 



 手近にある窓を開け、疲れた身体で懸命に這い入る。まるでナメクジか何かになったかのようで、少し自

分が惨めになった。ただただ当ても無く出口を探すと言うこの行為、確かに切実な問題であり、今の私にと

って重要な事なのだが。しかしその大して生甲斐も持てない行為には、やはり虚しさを感じる。

 そしてその先にも希望めいたものも無い。単に生きているから生きているにも似た、そんな哀れみを自分

に感じてしまうのだ。せめて何かしらの希望でもあれば、またこの気持にも違ったものが宿るのだろうが・

・・・。

 這い入った一室は先に私が目覚めた所と同じく、酷く殺風景な一室であった。家具の種類も配置もほとん

ど変わりが無い。やはりホテルか何かの宿泊施設なのだろう。しかもあまり上等では無い。

 そう言った安ホテルと言うのは何処にでも存在するから、ここに在る事も納得出来ない事では無い。しか

しこのようにそんなものが果たして乱立しているものだろうか。

 もしかすれば何かの介護施設か医療施設なのかも知れない。ただそのような施設にありがちな消毒液の臭

いもせず、何の喧騒も無かった。

「おや?」

 そんな中で私は一つだけ前の部屋と変わった物を発見する。

 それはシーツである。ベットのシーツが、この部屋の物は他と同じく朽ちていたのである。長年そのまま

にされていたのだろう。埃と雑多な汚れでもう白いとはお世辞にも言えない。

「と言う事は、初めに私が居たビルだけがまだ辛うじて生きているのだろうか・・・。そう考えれば・・」

 私は室内に一つだけ設置されたドアへ向かい、静かにそのノブを回し、ゆっくりと力を込めた。

 そのドアはあの独特の音を奏でながら、呆気なく外側へ開いていく。そこに何の力の存在も認められない。

捨てられ放置されたままのドアの姿がそこに在った。

「やはり・・・。何故かは解らないが、私はあの部屋に閉じ込められていたらしい」

 しかし何の為にそんな事になっているのかが解らない。何しろ私の頭の中に、そう言った過去の行動の記

録のみがすっぽりと抜けているのだ。他の生活に必要な情報はしっかりとはっきり過ぎる程のこっていると

言うのに・・・。

「そこだけが抜けると言う事は・・・それほど思い出したくない過去があると言う事なのか。私は一体今ま

でに何をしてきたと言うんだ・・・」

 自分の事が解らない。それだけならまだ良かった。だが自分が恐ろしい思い出したくも無い過去があるか

も知れず、それをまったく思い出せないと言うのは本当に恐ろしい。思い出せないだけに尚更不安が募る、

一体何をどれだけの事を自分はしたのか、それによってどんな恨み辛みをかっていると言うのだろう・・。

 そしてその罪はどのような形で私に報いるのだろうか・・・。

 どうして私はこんな想像力とか言うおぞましいモノを与えられているのだろう。余計なモノが次々と脳裏

に浮かぶ。そしてその想像力を自分で抑える事も出来ないのだ。

 しかもそれは悪い考えほど鮮明になる。

 何故自分はこんな大事な事を忘れてしまったのだろう。どんなに辛くても、忘れた後の恐怖よりは数段ま

しであろうに。想像に苛まれるよりは、心からましであろうに。

「ともかく今は進むしかないか・・・」

 悩んでも悔やんでも答えは出ず、今都合良く記憶も戻る訳も無い。

 記憶を取り戻すにはきっかけが必要だと聞いた事がある。或いは時間をかければ思い出すかも知れないが、

今はそんな暇は無いだろう。

 私が何かをして閉じ込められていたとすれば、逃げた私を追ってくる者が必ず居る。

 だから進もう。進んでいればきっかけに触れる時があるかも知れない。

 そして私は室外へと踏み出した。

 じっとしているとまた余計な事を考えそうだったから。



 廊下を横切り、そのまま丁度向い側に在った部屋へと踏み入る。

 単純に考えると、内側から外側へと真っ直ぐ抜ければ、それでこのループからは抜けられると思ったから

だ。そう言う単純な考えの方が失敗も少ないと思う。それに確かな当てが無い今、そうするしか方法も無い

だろうし。

 向い側の部屋も先程の部屋とまったく同じ家具が、これまた同じように配置されていた。何の面白みも感

じないが、二部屋同時に滞在する事など無いのだから、これはこれで良いのだろう。同じ作りにした方が手

入れもしやすい。

 こう言う施設にはそれほど個性と言うものは必要ないのかも知れない。単純に一まとめで良いのだろう。

余計な物は常に要らない。

「今日は何度窓を抜ければ良いのだろう」

 そして当たり前のように窓を潜ろうとする自分が何故かだんだんとおかしくなってきている。それも大笑

いしたい程に、心の底から声を吐き出したいくらいに。

 もう窓から出入りすると言う事に何の疑問も刺激も与えられる事は無かった。恐るべきは慣れ、人間の感

覚でひょっとすれば一番恐ろしいものなのかも知れない。それは心が鈍感になるのと等しいのでは無いだろ

うか。

 いや、感性の麻痺、とまで言った方が良いのか。

 どちらにしても、私はこの窓を潜り抜けるしか無いのだった。

 そして私は当たり前のように窓を抜ける。

「・・・・・・これほど簡単な事だったのか・・・」

 すると呆れる程簡単に風景が変わった。今までのビル群ではない、眼に優しい自然の景色。そこが何処か

は解らないが、人里離れた場所には違いないだろう。

 まるで箱庭から出てきたような、そんな不思議な感覚を私は覚えた。そう、まるで二つの異なった世界を

行き来してきたかのような、夢の後のような感覚を。

「これは一体何だったのか・・・」

 私は後ろを振り返り、未だ高く聳え立つビル群を眺めた。数えるのも億劫になるほどに、無数に乱立して

おり、狂ったようだと言う説明がしっくりくる。あの中の私が不可思議なら、あの場そのものも不可思議な

ものに違いは無かろう。

「しかし、私は本当に何をやっていたのだろう・・・」

 良く解らない。もしかすれば私は単純にあそこに住んでいて、あのシーツも自分で変えていたのだろうか。

そうなると、私は馬鹿げた話だが、自分の家から必死になって逃げ出していた事になる。考えたくも無い話

だが、それはありえない話でも無かった。

「ともかく何か食べる物と飲み物を探さなければ・・・」

 喉は渇ききり舌が貼り付きそうで、おまけに疲労と空腹も重なり、今にも倒れそうな心地になっている。

 ビル群の私を挟んで丁度反対側には奥深そうな森が見えた。森に行けば何か口に出来る物があるかも知れ

ない。少なくともここに立ち尽くしているよりはましだろう。

 私はともかくその森へと向かう事にした。

 引き摺る足は耐え様も無く重かったが、不思議とそれでも動ける自分に感心していた。これも一つの慣れ

なのだろうか。もう疲れる事には疑問を持つ事も無かった。  




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