13.蒼人11 咆哮


 緑の匂いがする。それは不思議と心地良く、私の心も癒してくれるようだった。

 何かここ少しばかり、余計な物事を考えすぎていたように思う。考えても考えても、行動しなければそれ

は全て無駄だと言うのに。やはり小難しい理屈ばかり考えていても面白くも何とも無い。

 ただこうしてあるがままの存在を、あるがままに受け入れる事が一番なのだろう。

「すーーーーーっ、はーーーーーっ」

 取り合えず深呼吸をしてみた。澄んだ空気が口の中に満ちると、少しだけ喉も潤い、空腹も紛らわせられ

る気がする。空気と言うモノも、やはり大事なものだと感じた一瞬であった。

 少し落ち着いた所で、改めて辺りを見回してみる。

 これでもかと言うくらいに草木が生い茂り、叢には落ち葉に虫、小動物さえちらほら見えた。それは見た

目通り生きていく為に必要な物が、ここに豊富にあると言う証明であろう。

 それを思うと、私の希望も自然と膨らむ。

「何か果実でもあれば良いのだが・・・」

 しかしそうは言っても、最早肌寒いくらいの季節である。未だ緑は生い茂っているのだが、果実の類はそ

ろそろシーズンオフだと言えなくも無い。果たして都合良くあってくれるだろうか。

 まあこう言う時には不思議と何かあるものだと、特にそれ以上不安に陥るでも無く森を歩いた。

 落ち葉も少なくは無い。踏み締める度に、まるで地面がスポンジのように弾む。落ち葉の中にも何か食べ

られる物が落ちている可能性も高いのだが、しかし私は木の枝だけを見て歩く。水分の少ない物を食べれば

余計に喉が渇き、悪影響にしかならないと思ったからだ。

 何でも腹が減ったらむやみに食べれば良いと言うものでもない。

 だが案ずるより生むがやすし、意外に何とかなるだろうと、矛盾だがそんな風にも思えた。まだ何か頭の

中が二つの気持でごちゃごちゃと混ぜくりあっているように感じる。

 言ってみれば気楽に複雑に考えると言った所だろうか。いや、自分でも意味が良く解らないのだが。

 ともかくそんな複雑な、いや単純に二つの気持に追い立てられていると言った方が良いかも知れない。

「これも記憶喪失の症状なのだろうか・・・・・」

 色んな事を無闇に考えていたのも、記憶の混乱からだったのだろうか。

 ま、今はそんな難しい事はどうでも良い。単純に生きる事を考え無いと、本当にこんな森で訳がわから

ないままに死んでしまう。

「いざとなればその辺の葉っぱでも食べれるだろう」

 草木の汁や樹液も飲めない事は無い。味と栄養の保証はまったく無いが。それでもそんな物を吸って生き

ている生物もいる事だから、多少は効果あるだろう。

 そう自分を励ましながら、とにかく奥へ奥へと進んだ。これだけ豊富な緑があると言う事は水源もあるは

ずだから、奥へ進んで行けばいずれはその水源に辿り着けるはず。運がよければ見つけ、悪ければ野垂れ死

にするだけの事と考えれば、それほど不安も無くなって来ていた。

 ただ、相変わらず喉と腹の乾きが辛い。せめて少しでも水分があれば・・・。

 私は気楽な心と切実な身体を抱えながら、とにかく必死に歩いた。今は歩くしかない。



 森を彷徨うのが当たり前に思えてきた頃。

 私はおそらくゾンビのような顔で虚ろにただただ歩いていただろうと思う。

 そして疲労から私はいつか意識を失い。更には深い眠りに落ちた。

 いや、眠りと言うよりは失神と言った方が良いのか。

 そんな中で、緑のあの強烈とも言える匂いと、不思議なくらい穏やかな風がゆったりと頬を揺らしていた

のを覚えている。ただ、覚えていたのはそこまでであった。後は全てが暗転し、文字通り私は力尽きたのだ

ろう。

 そして目が覚めると、私はまたその記憶とは違う場所に居た。

「ここは・・・・何処だろうか・・・」

 しかし辺りを見回していると、頭が目覚めるにつれ、私をえもいわれぬ絶望感がひしひしと包んで行く。

 何故ならばそこは私が以前いた、あの白壁の一室であったからだ。

「まさか・・・夢だったのか・・・」

 慌てて服装を確かめる。あれが夢で無ければ、確か擦り切れて薄汚れてしまっていたはず。

「馬鹿な・・・・」

 しかし予想通り服などには染み一つ見付からず、新品と言っても良いくらいに綺麗だった。とすればこの

記憶はなんなのだろうか・・・・、ここまで夢とはリアルであったのか。いや、そもそも私は夢など見た事

があったのだろうか。

「解らない、やはり何も解らない・・・・」

 自分に関しての記憶が全く無い。それは以前と変らなかった。胸にあるのは先程の夢とも現実ともつかぬ

虚ろな記憶だけ。

 自分に関する記憶が無いと言う事は縋るものが無いと言う事でもある。しかしそんな事を哀しんでいる暇

も無い。とにかくも現状を把握しなければ、そうしなければ気が狂いそうになっていた。

 取り合えずドアへと近付く。

 それから思い切りノブを捻り、渾身の力でドアを押した。

「うわッ!?」

 すると予想に反して呆気なくそのドアは開き。そしてその勢いのまま私は目前の白壁にぶつかる。変な機

械音と痛みが全身を軋ませた。

「やはり夢だったのか。いや、今が夢なのか??」

 その区別は今の私には難しい。どちらがどう夢で、どちらがどう現実なのか、その程度の事すら解らなく

なっている。

「いや、とにかく調べてみよう」

 もう細かい事に拘るのは止めにして、考えるよりも行動に示す事にする。その方がきっと上手く行く。不

思議に無意味な自信が心の中にあるのを感じている。そう、全てはなるようにしかならず、そしてきっと上

手く行くようになっているのだ。

「取り合えず下へ向かおう」

 ここが宿泊施設であれば、当然管理者と客の世話をする人間が居る事になる。その者達が居る所と言えば、

大抵は一階だろう。そして宿泊部屋があるのは、こちらも大抵は二階より上だろう。

「階段だ。階段を」

 とにかく廊下を一方向に進んで行けば、おのずとそれに当るはず。ここも迷路のようなのでは、などと思

わなかった訳ではないが。おそらく大丈夫だろう。

 私は右方向へと足を踏み出す事にした。それに特に意味があった訳では無い。私が右利きだっただけの事

である。ともかく、今は進む事だけを考えたい。




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