2.蒼人一.誕生


 目覚めた時、私は私が誰なのか解らなかった。

 今まで何をしていたのか、今から何をするつもりであったのか、そう言った事も含め、まったくもって自

分の事が解らないのである。自分に関する記憶が少しも無かった。

 しかし何もかもを忘れていると言う訳でも無い。生活知識、マナー、そう言った生きる為に必要だと思われ

る知識は、むしろ豊富に思い出せたのだ。

 名前も解らないが、ともかくB.Kと名乗る事にする。よく解らないのだが、どうもそんな風に呼ばれてい

たように感じたからだ。誰に、本当に、そう問われれば困惑するばかりであるし、自分でもおかしな名前だと

思う。でもそれ以外に思い浮かばないのだから仕方が無い。

 まあ取り合えず、現在の状況を把握してみようと思う。

 私は森の中で目覚めた。鼻をすっとさせるあの草の匂いと、ざわざわとさざめく木の葉の音、そして目の前

に広がる木々の群れは、ここを森だと断定する材料に事欠かない。

 周りを見回してみるが、特に目立った物は無かった。私の身体に外傷らしきものは見えず、また痛みも感じ

無い所を見ると。これは心理性の記憶喪失と言うやつなのだろうか。

 しかし心理性であるとすれば、こんな森の中で私に何があったと言うのだろう。

 解らない。解らないからともかく街を目指す事にした。こんな場所に居ては不安も晴れない。

 幸いにも近くには道らしきモノが見える。あれを辿って行けば、おそらく何処かには着けるだろう。それが

道の役目と言うものでもある。

 ともかく私は道なりに進む。



 暫く進むと、道の舗装が如実になり、明らかに人里近い印象をより受けるようになってきた。看板、電信柱、

そう言った物が淡々と立ち並んでいる。

 今は夜更けである。少しその陰影が不気味にすら見えたのだが、このような物に一々驚いていてはいけない。

そう思えども、心細さに身が縮んだ。

 生の気配がしない無機物の群れがこれほど怖いと思えるとは、正直驚いている。単に暗いだけなのに、それ

が何故こうも怖いのか。私は臆病者であったのだろうか。

「・・・・・・寒い」

 孤独に耐えられず呟いてしまった。だが寒いのも事実、何かが寒い。

 無性に怖くなって空を見上げた。どんよりと雲が一面を覆っている。あれもまた寒い。全てを閉じるような

あの雲が、まるで自分のようにすら思えてしまう程、強烈な印象を与えられた。

 私は全てから閉じられていると、そう告げているように思えたのだ。

 しかしそんな私の心をそっと揺り開けるように、道の向こうから少しばかりの光が私を差した。そしてその

光と共に鋭い振動音が横を過ぎ去る。

 車が通ったのだろう。そうなればいよいよ人里近い。

 私は更に歩く速度を上げた。

 心は逸り、この心細さから速く、早く解き放たれたいと願う。そしてこの寒さからも。

 夜は寒い。寒いのは嫌だ。



 私はようやく民家の明かりを発見した。

 それはまるで初めて見るかのように、不思議と暖かく。そして何故か飢えが満たせるような、長年追い求め

て来た物を目の前にしたような、そんな奇妙な感覚が私を包んだ。

「なんだろう、これは・・・・」

 そうか、私は飢えていたのか。

 温かいスープと柔らかい肉を、私はおそらくは求めているのだろう。

 しかし民家があったとして、果たしてどうすれば良いのだろうか。考えた所、どうも私はお金と言う物を持

ち合わせてはいないようだ。クレジットカードの類も無い。

 これで私が以前どうやって生活を営んで来たのか、甚だ疑問であったが。今はそんな事を考えている余裕

は無い。どうすれば良いのだろう。

 人の善意に期待するのか。それとも同情を誘ってみるか。私の現状を具に告げれば、或いは成功するかも知

れない。でもこのご時世に、私は記憶喪失です、と言って誰がどれだけ信じてくれると言うのだろう。しかも

一文無しである。

 例え記憶喪失だと言っても、普通財布くらいは持っているものだ。夜盗にでも襲われたと言えば良いのかも

知れないが、傷一つ無い小奇麗なままの私を見て信じてくれるかはこれもまた疑わしい。

「まいったな・・・」

 呟きながら、身体中を漁ってみる。何か金目の物でもあれば、どうにかそれと引き換えに、食事とベットに

ありつける可能性が開けるかも知れなかった。

 だが残念ながら私は何一つ持ち合わせてはいなかった。

 自分でも不思議なのだが、どうも私は服を着ただけの姿であんな森まで出かけていたらしい。或いは他に連

れでもいたのだろうか。その連れの者に置き去りにされたと言う線も考えられるが、例えその答えが出たとし

ても、現状を打破するに何の役にも立たない。

「・・・・・・・」

 私はそうして暫し途方に暮れた。

 何となくここまでやって来たが、来たら来たでなかなかに難しいものだ、人の世は。

 しかし私も愚かばかりでは無い、この世界には警察と言う存在がある事を思い出したのだ。そこへ行けば多

少なりとも面倒は見てくれるだろう。人の良い警察官ならば、何か調達してくれるかも知れない。

 私はそんな淡い期待を込めて、辺りを慎重に見回した。

 出来れば民家から遠い場所が良いと、そんな風に私は思っていた。何故かは解らないが、あまり人目につき

たくも無い感情が私を自然に支配していたのである。一つには記憶喪失の自分では、人に会ってもどう接して

良いのか解らないからかも知れない。そしてそんな自分をあまり見られたく無いと思うのは、多分人間として

当たり前に思う感情の一つではないだろうか。

 考えてみれば、ここの住民と私は知り合いである可能性もあり。そうであれば知り合いと出会う事が、私の

記憶を取り戻す為の良い材料になるはずなのだが。そう言う理性が働く前に、何となくあまり大勢の人間とは

一度に同じ場所で出会いたくは無かった。

 だから私は密やかにその明かりの方へと近付いて行った。幸い夜である、そうそう見付かる事は無いであ

ろう。とにかく今は行動すべきだ。

  


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