4.蒼人3 初犯


 三嶋と言う警官の家はさほど広くは無いが、一戸建ての堂々としたものだった。どうやら借家らしいが、

思わず聞いた家賃の割にはすこぶる上等の家だと思える。田舎の相場と言うのもなかなかに恐ろしい。

 話によると一人で住むには広すぎるので、他の警官達と共同で使っているらしい。だが、他の警官達とは

当たり前だが勤務時間が異なるので、一緒になる事も稀だと言う。どうもそう言う不思議な同居生活を送っ

ているようだ。

 私はそれでは結局一人で住んでいるのと変わらないではないか、とふとそんな疑問が浮かんできたが、そ

れを口に出す事は止めておいた。この国の風習として、余計な詮索をする事は礼を失する事となっているは

ず。わざわざ泊めて貰うのだから、無闇にこの三嶋の機嫌を損なう事は得策では無いだろう。

 だから私は終始ゆったりとした笑顔を浮かべていた。

「取り合えずお風呂にでも浸かってのんびりして下さい」

「はい、ありがとうございます」

 私はそうして勧められるまま、湯船を頂戴する事にした。

 温かい風呂、これ以上のご馳走も無いだろう。そう自然に思え、それがやはり自分はこの国の人間なのだ

と、自分に少しばかり安心も出来た。外見も言葉も正にこの国の人間なのだが、しかし記憶が無いと言うの

はどうにもそれに自信が持てない。

 自己と言うモノはそれに内包された記憶もあって、初めてしっかりと成り立つモノらしい。

 その記憶が無い私は、言ってみれば土台が無いようなものだ。ふらふらと安定感が無く、一体何処に建っ

ていれば良いのかよく解らない。

 何にしても風呂は良い。

「ふああああ」

 ゆったりと熱いお湯に全身を浸けると、こう隅々からじんわりとした温かさが生まれてくるようで、とて

も心地が良かった。やはり人には温かさが必要なのだ。



「どうでしたか、湯加減は?」

「いや、良いお湯でした。すっかり疲れも抜けました」

「そうですか、それは良かった。私も入らせてもらいますから、お先にお食事をどうぞ」

 三嶋はそう言うと人の良い笑顔を浮かべて、私と入れ違いに湯船へと向かって行った。

 室内の丸い小さな食卓にはすでに料理が並べられている。私が風呂に浸かって居る間に用意してくれたの

だろう。その辺のスーパーに売っているお惣菜などを温めた物で、特に手がかかっているようには思えない

が。それでも充分にありがたい。

 泊めてくれるだけでなく、風呂や食事まで用意してくれるとは、なんと人の良く、そして私の役割にとっ

てなんと都合の良い男なのだろう。

「ん、私はまた何を思っているのだ・・」

 役割?自分で自分の浮かんできた思考に吃驚してしまったが、記憶喪失故の混乱だろうと無視する事にし

た。もうそう言う事を考えるのには飽き飽きしている。今はのんびりとしていたい。また明日になれば忙し

くなるだろうから。

 そして私は食卓へ向かったのだが、何故かどうにも食欲と言うモノがわかなかった。あれほど飢えていた

と言うのに、これは一体どういう事なのだろう。

 温かいスープと柔らかい肉。そう、真っ赤などろりとしたスープに柔らかい血まみれの肉を。私は心から

求めていたはずだ。

 しかしそんな贅沢は言っていられない。そう自分に言い聞かせ、どうにか食べようとするのだが、どうし

ても私の身体がそれを拒む。それを否定する。私が求めているのは、求められているのはそれでは無いと。

 そしてそのまま数分自己と格闘し、私はさらさらとそれに気付いてしまった。

「私が食べたいのは・・・・」

 食べたいのは三嶋であると。



「いや、そんな馬鹿な」

 私は思わず頭を振った。

 しかし理性で否定しても心がそう訴えている。だが例えそうでもそんなモノを認める訳にはいかない。ど

うする、今なら、油断している今なら楽に狩れるのだが・・・。

「何を考えているのだ、私は!!」

 頭を卓へと勢い良くぶつける。そして額から血を流しながら、自分自身が空恐ろしくなった。そう思うと

言う事は、私は記憶を失う前はそのような事をしていたと言うのだろうか。人を喰らうなどと、そんな恐

るべき行為を・・・、私は、私はそんな事をやってきたと言うのだろうか。

 いや、断じてそんなはずは無い。

 そんなはずは無いのだ。

「・・・・・・・・」

 しかし美味そうな匂いと温もりを与えてくれるであろう、眼前に並べられた食事に一切関心を示せないの

も確かである。食べる気がしない、いや、食べてもしょうがないとさえ私の心が告げる。お前が欲しいのは

そのようなモノでは無いのだと。

 そして空腹と言うよりも、より単純な飢えと言う感情が私を蝕んで行った。

 赤い血滴るあの肉を、私は得なければならない。そうすべきだと、そうするしか無いのだと。

「そうだ、それ意外に道は無いのだ」

 今までそれほど感じ無かったのに、それに気付いた途端恐るべき飢餓感が私の中で増大しつつあった。も

はやそれは耐え様も無い。眠気にも似た抗えぬ欲望が次第に心に満ち満ちていく・・・。

 そして私を急かす。今だ、今だ、今ならやれるのだ。今しか無いのだと。

 風呂場に居る今ならば、三嶋も逃げ道が無いはず。これが風呂から上がれば、なかなかに面倒な事になる。

そうだ、今しか無い。

「今しか、今やるしか無いのだ」

 私は夢を見ているようであった。まるで自分以外の自分自身が動いているような、そんな不可思議な現実

にはありえない感覚に支配されている。

 その不可思議な自分は素早かった。

 あっと言う間に風呂場の前まで移動すると、素早く戸を開け。

「なッ?」

 そんな素っ頓狂な声を上げる三嶋に向かって、いつの間にか変化していた恐るべき私の右手をこれまた素

早く振り下ろしたのだった。

 そして私の右手は三嶋の脳髄を掴み、心地良く引き出し、彼を瞬時に絶命させた。

 血が噴出し、私の全身に恵の雨を降らす。

 満ち足りていた。そしてそれを舐め、心から、

「美味い・・・」

 そう思ったのだ。

 

 次に気付いた時は私はまた見知らぬ場所に居た。

 今度は砂浜の上、暗闇の潮風が吹きぬける。強い潮の香が鼻腔を満たし、そこに秘められた生命の息吹

に蹂躙された。偉大なる生命の源、海、そして風と大地。

 私はふと思い出し、慌てて全身を確認したが、しかしまた以前起きた時と同じく身奇麗なままであった。

鮮血どころか、不思議な事に砂粒一つとて付いていない。

「夢、だったのか・・・・」

 起き上がり、周りを見回す。

 漁村と言った所だろうか。船がちらほらと見える以外には、取り立てて目立つ物は無く、夜だけに人影一

つとて見えなかった。

 夢であれば、私は何と言う夢をみてしまったのだろう。もしかすれば人を喰らいたいという願望でもある

のだろうか・・・。恐ろしい、おぞましい・・・。

 そして私は夢と同じように、それが当たり前のように記憶が無かった。

 B.K.そんな馬鹿げた名称だけが頭に浮かぶ。

 私はまた一人、当ても無く歩き始めた。




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