6.蒼人5 再任


 私が目覚めた時、小屋の中にはすでに誰も居なかった。それどころか人の居た気配すら無く、ただ朽ちた

物々だけが周辺に転がっている。あの老人は何処へ行ったのか、それを知る術は無く、知る必要も無い事か

も知れない。

 そして私は身体を起こし、その小屋を出た。

 濃厚な潮の匂いが鼻腔を刺激する。この匂いは慣れないと息苦しい程だ。外からでもこれだけ強いのだか

ら、海中に入った時はどれほど強いのだろうか。その匂いはもう固形物にすら感じられるのかも知れない。

 辺りを見回してみた。しかしやはり何も無い。あるのはその小屋だけ。

 昨夜あの老人が道を教えてくれると言ったはずなのだが・・・・。と辺りを再び今度は注意深く見回して

いると、程無くして少しの違和感が私を襲った。矢印なのだろうか、砂浜に一文字にくっきりとそれは記さ

れている。

 果たして人の力でこれほどくっきりと記せるのだろうか、ここまでするくらいなら昨夜教えてくれた方が

楽だったのではないか。そのような様々な疑問が脳裏を過ぎったが、他にあてがある訳でも無く、ありがた

く今はそれに従わせてもらう事とした。

「・・・重いな・・」

 砂浜に足を捉られる。まるで掴まれてでもいるかのように。

 私は以前このような砂の上を歩いた事があるのだろうか。水と砂がぐしぐしと積み重なったような、この

重い砂浜の上を。そしてこの潮の香を嗅いだ事があるのだろうか。

 記憶が無くても身体が覚えており、時に記憶として感じる事もあるらしいが、まったくそのような気持に

はならない。これほど特徴的な感覚ならば忘れ様も無いだろうに。そうとなれば私は海をまったく知らない

のだろうか。

 しかしそれはおかしいような気がする。この国は島国であり、国土もそう大きくは無く、そして自然四方

を海に囲まれている。その条件を考えれば、この国の者が海を感じ無いなどという事は在り得ない。環境に

よって泳いだ事が無いとか言う者はいるかも知れないが、まったく知らない等と言う者が果たして居るのだ

ろうか。いや、おそらく居るはずが無い。

 と言う事は私はこの国の者では無いのだろうか。

 まったくもって記憶が無いと言うのは面倒なものだ。自分が自分たる拠り所が記憶、思い出だとすれば。

それが無い私は私であって私ではなく、私である事を確かめる術さえ無い。

 しかも夢遊病のように時折自分のやっている事が解らなくなるような時間がある。断片的な光景がちらち

ら浮かぶが、そのどれもが繋がらない。まるでツギハギの記憶を植え付けられたような。

 ああ、私は一体誰で、そして何をしようとしているのか。

 何かしようとしているのは確かで、そこに明確な意思すら自分でも感じている。そう、それを、自分は、

絶対に、しなければならない、と。

 そして何故かこう心と身体に渇くものがあった。私にもそれが必要なのだと、その渇きがはっきりと教え

てくれる。でもそれが何かが明確には解らない、教えてももらえない。

 何も解らない以上、今は進むしか無いだろう。色んなモノを見聞きすればいずれ思い出す可能性もある。

 しかしそこで私は思い立つ。もし、初めから何も無かったら、思い出す以前に思い出すものが一つとして

無かったら、と。

 その恐怖は筆舌に尽くしがたい。

 

 そんな取り止めの無い事を思いながら、砂浜に記された方角へ暫く歩くと、おぼろげながら民家らしき建

物が見えてきた。そこは小さな村のようであり、どうやら民宿などもあるようだ。

 しかし宿泊施設があっても私には持ち合わせが無く・・・・いや、もしかしたら。

 私はふと思い立ち、自らの衣服を漁り始めた。

「あった!!」

 そして喜びのあまり思わず叫んでしまう。当たり前の事と思われるかも知れないが、財布があったのであ

る。確かに記憶喪失とはいえ財布ぐらい持っているものなのかも知れない。しかし何故か私には意外に思

え、その財布があると言う事がとても新鮮で嬉しかったのだ。

 まるで財布と言う物を、お金と言う物を始めて持ったかのように。

 慌てて財布の中身を調べてみると、高額紙幣が数枚入っていた。身の証をたてられるような物は残念なが

ら一つとして無かったのだが、お金が有るというだけで随分心の落ち着きようも違う。縋れる物、頼れる物

が、例えこんな紙切れ数枚だとしても、在る事は少なからず救われる。

「ああ、天に感謝します」

 私は晴れ渡る空にその幸運を心から感謝し、その感謝の気持を尊く捧げた。

 それから先ほどまでとはまったく違う晴れやかな心で、私はその民宿へと向かう。このような小さな集落

である、それほど宿料は高く無いはず。この数枚の紙幣があれば、充分に目的を達する事が出来るだろう。



 その民宿は豪華さとは正反対の趣であったが、質朴なこの漁村の景観をそのまま現すかの如く、行き届い

た掃除でこざっぱりとした雰囲気の建物であり。身構える必要も無く、落ち着いて宿泊出来そうな宿であった。

「いらっしゃいませ、お一人様でございますか」

 白みがかった髪をした老女が一人、私を出迎えてくれた。こんな漁村に居るにしては変に品が良く、もし

かすれば他の町からでも嫁して来たのかも知れない。

「はい、部屋は空いておりますでしょうか」

 私も同じように丁寧な物言いにしておく。

「ええ、空いております。ささ、こちらへどうぞ」

「失礼致します」

 古い家屋を増改築したらしく、新旧の不思議な継ぎ目に見える跡が残る廊下を越え、私はひたひたとその

老女に続いて足を運んだ。

 わざわざこのような増改築までしている所を見ると、夏場ともなれば海目当ての旅客などで賑わうのかも

知れない。幸か不幸か今は少し肌寒いほどの季節であり、人通りも少なく、この民宿も私以外には客もい

そうになかったが。

 まったくもって都合の良い宿である。後は良さそうな獲物が・・・・、と。

「お客様、どうかされましたか?」

「い、いえ、少しぼうっとしておりましたようで・・」

 とっくに部屋に付いていたらしく、老女が不思議そうな顔でこちらを見ていた。どうも私は時々呆けてし

まう癖があるらしい。気をつけねばなるまい。

「それではお食事は・・・」

 私は食事の時間帯や注意ごとを説明してくれる老女の話に耳を傾け、そして希望する事柄を告げた。まだ

朝も早いが、残念ながら朝食の準備は出来ておらず、何処か他で食べるしかないようだ。

 丁度良い、少しこの村を見回ってみよう。そうすれば何か記憶の糸口でも見付かるかも知れない。

 私はそう思い、潮の香の付いた衣服とともにその民宿を出たのだった。

 取り合えず歩いていれば食事出来そうな所があるだろう。




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