23-7.夢の綻び、夢の終わり


 胡曰の弟、胡虎が亡くなってから短くない年月が経っているが、その名は今も人々の心に残っている。生前

は楓流の片腕として敏腕を振るい。凱聯からも深い信頼を寄せられるという希有な人物で、凱聯の暴走をよく

抑えていた。胡虎という存在があればこそ、楓流は己が仕事に専念できていた。

 趙深が楓流のもう一つの頭脳というならば、胡虎はもう一つの手足、半身といえる。

 しかしそんな彼も凱聯の失策を埋める為に命を散らし、将兵はその死を嘆き悲しみ、楓流も胡虎の代わりに

凱聯の方が死んでいれば・・・と心中悲痛に呻(うめ)いた。凱聯ですらしばらく大人しくなったくらいで、

胡虎という存在の大きさはそこからも窺(うかが)えるだろう。

 その胡虎の実の姉である胡曰が弟の名を出せば、凱聯は良くも悪くも感情量の大きい人物であるから、深い

影響を与える事ができるだろうと彼女は考えた。今更前言撤回させる事は不可能だろうが、趙深と、いや壬牙

と凱聯の関係を多少は改善できる可能性くらいは得られるかもしれない、と。

 ただし彼女も一片の言葉だけで済むだろうと考える程若くはない。何かしらの楔(くさび)、代償が必要だ

とは理解していた。

 そこで苦渋の決断ではあったが、申寥を凱聯に預ける事にした。

 凱聯の内にある不満の最たるものは趙深だが、申寥の占める割合も少なくはない。彼女が凱聯の立てるべき

手柄と名声をかっさらっていったという事もあるが。最も腹立たしい理由は、彼女の指揮する軍が、まるで楓

流が居るが如しである、と言われている点にある。

 結局、凱聯の心にあるのは今も昔も楓流であり、自分がその臣として最も優れている、重んじられる事だけ

が望み。帝国がどうなろうと大陸がどうなろうと関係ない。自分が最も楓流の近くに居るべき存在である、と

いう子供のような自尊心を満足させる為だけに生きている。

 だからこそ国家の存亡を無視してまで己がままに振る舞えるのであり、生前の楓流に疎(うと)まれるよう

になっていたのである。今も凱聯は楓流が死した事よりも、むしろその死を隠され、自分の居ない所で全てが

決められていた事の方に怒りと哀しみを燃やしている。

 趙深を裏切り者と罵(ののし)るのも、それが為であろう。

 凱聯の怒りを静めるには、その身勝手で自分本位な心を慮(おもんばか)ってやる必要があった。言葉だけ

では足りない。本当にばかばかしい事だが、はっきりとした形で、お前を認めているのだ、という心を示さな

ければならない。

 故に申寥である。

 胡曰の懐刀と目されている申寥を預けたとなれば、それは胡曰が凱聯を支持したという事にもなり、また凱

聯が申寥の上位に在るという事をはっきりさせてくれる。そうして気分を良くさせた上で胡虎の名前を出した

なら、さすがの凱聯も聞く態度を見せるだろう。

 良くも悪くも単純な男であり、だからこそ扱いに困っているのであるから。

 胡曰は申寥に対し、できるならば凱聯と仲を深めるようにも言い含めておいた。

 申寥は凜々しく男性らしい面も持っていたが、女性としての美しさ、挙措(きょそ)動作も充分に心得てい

る。それはいざとなれば女としての力を効果的に用いる為であり、そういう意味でも胡曰が手塩にかけて育て

てきた。

 その最も可愛い娘をよりにもよって凱聯などにやらなければならないのは腹立たしい事この上ないが、だか

らこそ策としては効果的となる。皮肉なものだ。

「寥よ、この償いは、いつか、必ず・・・・・」

 楓流と自分の魂を完璧なまでに継いだ女だ。凱聯の心を盗る事など容易かろう。誘惑などせずとも、凱聯の

方が勝手に惹かれてしまう。彼が楓流を求めているが故に。

 胡曰は意図せずそうなっていた事に満足し、また深く涙した。



 申寥が凱聯の副官に就任した報は大陸全土に驚きをもたらした。

 最も驚いたのは凱聯本人であったはずだが、それだけに満足する事大であった。それに彼は部下に対しては

寛容(かんよう)である。今まで抱いていた不満を忘れたかのように満面の笑顔で迎え、王が賢人を迎えるよ

うに手厚く遇したと云う。

 そこには明開の働きも大きい。

 彼は凱聯の副官で、政務に関しては無能以上に害悪である凱聯に代わり、兵站(へいたん)から政務全般ま

で取り仕切っている人物である。中諸国からの評価は必ずしも良いものばかりではないが、その手腕は認めら

れており、彼なくして凱聯なしとまで言う者も少なくない。

 その明開が胡曰に薦めたのは申寥を胡曰の妹とする事である。

 言葉だけのものでも構わない。とにかくその言葉を凱聯に伝えれば、自然申寥を見る度に胡虎の存在を想起

させる事となり、全てにおいて潤滑油の役目を果たすようになるだろうと。

 その助言には胡曰も同意する以外になく、申寥にも明開を頼り、従うよう命じた。

 申寥の方にも異論ない。初めから身も心も楓国に捧げる覚悟であり、いずれこのような運命になる事は解っ

ていた。自分を拾い、育て、人間として生きられる道を与えてくれた胡曰と楓流に対し、彼女は親以上の、ま

るで神を慕うにも似た気持ちを抱いていたようだ。

 神の如き二人の為ならば身を犠牲にする事も厭(いと)わない。いや、喜びですらある。それが彼女にでき

る唯一の恩返しなのだから。

 申寥は誠心誠意凱聯に仕え、自らの役割を果たす為だけに生きた。

 ただしそんな中でも集縁の事は片時も忘れず、いつでも戻って働けるよう情報を集め、彼女なりにあらゆる

事態を想定して戦略を立てておいた。

 この事がきっと将来必要になるだろうと申寥は解っていたのかもしれない。



 一月も経つと申寥効果は誰の目にもはっきりと解るくらいになっていた。

 あれだけ怒り狂っていた凱聯の言動に落ち着きが生まれ。反趙壬(趙深、壬牙)の態度を崩す事も、趙深個

人に対する怨嗟(えんさ)の念を衰えさせる事もなかったが。荒れ狂う気持ちに任せて行動する事は少なくな

った。

 明開の言葉は彼個人に対する不審もあって聞く気はないが(それでも明開の忠勤ぶりを見て、多少は気にか

けるようにはなっている)、申寥の言葉なら無視する事はない。胡曰の書いた、胡虎亡き今、自分の妹のよう

に思っている、という文面がよほど効いているようだ。

 申寥に練兵を任せる事も増え、一時は沸き立っていた兵達も見違える程静かになっている。

 各国の暗躍も効果が薄まり、凱聯が良いように動かされる事は少なくなった。彼は何をするにも申寥に相談

するようになり、二人の仲が性急に深まっていく。明開も良く二人を支え、中諸国は今までにない安定を見せ

ている。

 胡曰はこの報に満足したが、同時に嫌悪も覚えた。

 もしこれを楓流が聞けばどう思うであろうかと。言わばこれは申寥を売り渡して得た成果である。

 しかし感傷に浸っている暇はなかった。依然(いぜん)、大陸の情勢は混沌としており、凱聯に処方した薬

もいつまで効果があるか解らない。もし今ここで誰かが余計な事をすれば、全てが台無しになる事も大いにあ

り得る。

 他にも不安はある。特にそう思えるのは趙深の心だ。彼とも密に連絡を取り合っているのだが、どうもその

態度というのか論調が変わってきているような気がする。趙壬が異民族と同義と捉(とら)えられている状況

も変わらない今、もっとしっかりしてもらわなければならないのに、以前のような覇気が感じられない。

 まるで別人になったかのようだ。

 凱聯という最大の起爆点を抑えられたのは良かったが、今後どうなるのか、どうしていくのかという絵図面

を誰も持っていない事も気にかかる。

 このままでは統一国家という体裁すら保てなくなる。

「楓流様ならば、このような時どうされるだろう」

 ずっとそう問いかけてきた。

 返ってくる答えはいつも一つ。

「そう。こうなってしまったら、もう帝国の分割統治以外に方法は見えない」

 帝国を帝国として維持できないのであれば、以前のように大陸を分割し、それをそれぞれの王が統治する形

に戻すしかない。いや、すでにそうなっている。帝国という形を馴染ませるには、余りにも楓流の死が早過ぎ

た。今となっては帝国という形を維持しようとする事が、かえって帝国の分裂を招いている。

 統一帝国という体はすぐにも捨て去るべきであろう。

「けれど・・・・それは・・・・」

 しかしそれは楓流が命を賭して行った大陸統一という事業を真っ向から否定するものであり、楓流という男

の人生を否定する行為でもあった。楓流に夢を見た者達にそんな事ができるはずもなく。だからこそ趙深は不

可能と悟りながら帝国の維持に挑んだのであり、そうなるべくして失敗したのだ。

 今更分割統治を言い出した所で、皆の怒りを煽るだけであろう。それが解っているからこそ、誰もが苦悩し、

誰もが同じ結論に辿り着きながら、そこへ踏み出せないのである。

「なら・・・・私がやるべき事は一つ」

 誰も口にせずとも、誰も望まずとも、結果として分割統治という形へ落ち着いていく。そういう流れを作り、

その流れを速めさせるのだ。

 簡単に言えば、皆に諦めさせるのである。

 楓流のした全ての事を、楓流という一個の傑物を、皆の心から諦めさせるのだ。

 あれは夢であり、その夢は彼の死と共に終わったのであると。

「・・・・・・・・・・・・・」

 そう結論付けた時、胡曰の目は空洞のように渇いていた。涙などとうに枯れている。そして今心までも枯れ

果てた。帝国への執着、楓流の夢、理想のあるべき姿、そういったものも根っこから流れ落ちた。渇いた体に

残るのは決意、遺された意志だけである。

 そもそも楓流は大陸統一などという事業を望んでいたのか。

 本当は今の胡曰のように分割統治、つまりある程度各国の領土関係が落ち着いている状態を維持する方が良

いと考えていたのかもしれない。

 解らない。今となっては何も解らない。

 でも楓流が今のような状態を望んでいないという事だけは解る。彼が望んだのは平和、安定、当たり前のよ

うに大事なものを奪われていくという悲劇のない世の中だ。であれば、大陸統一、帝国というような形に囚わ

れている今こそが、最も嘆くべき状態と言えまいか。

 そこに安定などありはしまい。

「私がやるべき事なんて、初めから決まっていた」

 楓流亡き大陸があるがままの状態に落ち着く事。その為に遺された命を使う。それが楓流に拾われ、初めて

そこで人間としての命を得た自分がやるべき使命、責任ではないか。それを自分以外の誰ができると言うのか。

 胡曰は枯れ果てた心と尽きた思い出の中で、そう結論付けた。



 壬牙は胡曰の行動に同情の念を抱いた。そして自分の行動が思っていた事と反対の結果を生み出した事に大

きな責任を感じた。

 これでは凱聯と同じではないか、と。

 趙深も最近はめっきり元気をなくしているし、大陸中が喧噪に包まれてはいても、活気は無い。皆口々に叫

びながらその表情は死んでいる。

 誰も何をすれば良いのか解らないのだ。

 自分もまたそうである。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 彼は今、外壁に付けられた監視塔から南方を眺め見ている。

 この地は楓流の夢の拠点であり、楓国の未来の姿があるはずであった。それがどうだ。以前の森だけの姿で

あるかのように鬱蒼(うっそう)と静まりかえっている。確かに未来の姿ではあるのだろう。つまりは国家と

しての死の姿である。

「迂闊であったわ」

 楓流の死という衝撃によっておかしくなっていたものか。

 けれど今更前言を撤回する事はできないし、全ては動き始めている。一度流れに乗れば、誰もそれを変える

事はできない。結局、人はいつも歴史という大河に流されていくだけの存在なのだ。その事が今は痛い程解る。

 壬牙は冷静であった。冷静に物事を捉え、前途が絶望である事を理解している。その上で燃えていた。頭と

は裏腹に心は鋼のように燃えたぎっていた。

 趙壬を異民族と同義語とされている状況には我慢ならなかったし、趙深を巻き込んで悪いとも思ってはいる

が。それならば異民族の王として君臨してやろうか、と開き直る心がある。どうやら壬牙という男は趙深とは

逆で、追い込まれて尚、情熱に燃える型の人物であったようだ。

 その開き直りもただの妄想ではない。

 彼の治める南方の賦族と部族の力は武力だけで言えば他を圧倒している。紫雲竜が居ないとはいえ、楓最強

の部隊である騎馬隊も押さえているし、本来ならば凱聯如きが対立できるような相手ではないのだ。

 異民族という札さえ付けられていなければ、このような状態にはなっていなかったであろう。おぞましい印

象操作であり、人はそういうその場限りの雰囲気で動くものであると痛感させられた。

 趙深、壬牙という楓の文武二枚看板に対し、凱聯というおまけで将軍位を与えられたような男が拮抗(きっ

こう)できている事態の方がおかしいのである。

 全くもって腹立たしい。

「だが、所詮、凱聯は凱聯である」

 誰が下につこうと誰が協力しようと凱聯が凱聯である現実に変わりはない。一時の勢いとたまたま結び付い

ただけであり、いずれ自壊するが必定。

 そんな張り子の虎よりも気にすべきは他国(この時点で壬牙も帝国という統一国家が意味を成さないものと

なった事を理解している)の動きであろう。双、楚斉、越辺りが気になるか。後孫も気に留めておくべきかも

しれない。

 現状ではなく、広く十年先まで見据えなければ楓流になる事は叶わない。

 今はどの国家も表面上は大人しくしているままだが、暗躍で終わるという事はあるまい。趙壬と凱聯の争い

を演出するのも、覇者となるべき準備を整える為の時間稼ぎに過ぎまい。あやつらからすれば帝国の弱体化も

狙えるのだから一石二鳥である。

「俺もいつまでも凱聯などに構ってはおられない。乱世再来の時の為に、南方に覇を築かねば。それには趙深

殿と一蓮托生と見られているこの状況を上手く使うべきだ。もしその力を借りられるのであれば、この大陸を

再統一する道も拓けぬ事はあるまい」

 無論、その再統一は碧嶺の名の下に、だ。あくまでも壬牙は帝国家臣であり、その分を違えるつもりはない。

亡き楓流に代わって、その夢を成し遂げる。それだけである。

「その為に南蛮王と呼ばれるも悪くはない」

 とにかく力を付ける事だ。力さえあれば、その力に皆なびく。誰も確かな未来を持てぬ今だからこそ、力と

いう確かなものはより大きな力となる。その力を持って人を導けば良いのだ。

 人は流れには逆らえぬ。ならばどの流れに乗るかを選べば良い。その流れに人を運べば良い。

 本来進むべきはずだった、楓流の夢の流れに。

 ただしそれは後々の事だ。趙深の骨折りを無駄にさせたような真似はもう二度とするつもりはない。胡曰が

しようとしている事の邪魔をするつもりもない。

 動くとすれば彼女がしくじった時。その時はもう自分を抑えようとは思わない。やるべき事を為すまでだ。

 それまで力を蓄え、待つ。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 壬牙は逸る心を抑えるように、ひっそりと息を潜めた。



 西方に居る魏繞は、胡曰が凱聯の起こした騒ぎを一時的にせよ治めてくれた事にほっとしている。何も解決

はしていないのかもしれないが、当面の落ち着きを得られた。今はそれで充分だと彼は考える。

 それにこの一連の騒ぎが帝国内に一種の清涼作用をもたらしたと言えなくもないだろう。

 人々は楓流の早過ぎる死に驚き、不安を覚えたはずだが。その不安が凱聯という解りやすい形を取り、また

それが一応の解決を見たことで安堵したであろう。事態は何も変わっていないとしても、一瞬彼らは落ち着い

た。ならばそれはそれで良いのである。

 現実にどうなっているかは大きな問題ではない。人がそれでも安心と思えるのならば安心なのであり、重要

なのは人がどう受け止め、どう考えているかにある。

「そうであろう、紫雲竜殿」

「・・・・かもしれませぬな」

 魏繞と共に西方を治める紫雲竜は彼の考え方に同調した訳ではなかったのだが、さりとて一理はあると思い、

半分は受け止めておいた。

 いや、例え異があったとしても黙っていただろう。紫雲竜は楓流に仕えた頃からずっと政治向きの話に加わ

る事を避けていたし、自分の意見を述べる事も避けてきた。あくまでも補佐役、実務家としての態度を崩さず、

実直に楓流、帝国に仕えてきた。

 その態度は政治嫌いとか無口であるとか言うのではなく、彼が自分をいつも部外者だと、客将であると考え

ていた事からきている。

 楓流や趙深がどう考えていたとしても、結局自分は賦族である。三文字の名を持つ異民族である。どれだけ

重い地位を得ても、部族を倒し紫雲の名を冠する栄養を得たとしても、その事実は変わらない。趙壬に対する

今の大多数の大陸人の反応を見ればそれが良く解る。

 賦族解放もいつかは成るかもしれないが、それは今ではない。十年や二十年程度の歳月ではとても無理だろ

う。隷属というのは誰かが今日から止めようと言って止められるものではない。そういう意味でも楓流と趙深

は不可能事に挑戦している。

 だがそうと解っていて彼らの夢に付き合っている。父、紫雲世(シウンセイ)もそうだ。賦族解放の第一歩、

その一歩目になろうとしている。今の為ではなく、何百年、何千年という遙かな未来の為に。

 故に半分は傍観者としてずっと楓流の国家を眺めてきた。今はまだ主張する時ではない。自分の意見を本当

に述べられるのは、自分達が本当の意味で帝国民になれた時である。

 しかしその礎となる帝国そのものが今崩れ去ろうとしている。

 どうにかして食い止めたいが、何も言えない。何もできない。

 大将軍と上将軍が諍いを起こしている今、次将軍である自分までが余計な事を言えば、胡曰が骨を折って得

た危うい均衡を容易く崩し、帝国滅亡へと大きく踏み出させてしまうからだ。壬牙の失策を真似る訳にはいか

ない。沈黙こそが重要なのだ。

 部外者に語るべき言葉など無いのだから。

 けれども、最近思う時がある。

 これで本当に良いのだろうか。自分は部外者だと他人任せにしておいて本当に良いのだろうか。

 自分の生きる道、望む道は、この帝国にしかないのだろうか。本当にこの帝国が夢の礎なのだろうか、と。

「紫雲竜殿、これで我が国は建て直す時間を得られるであろう。まずは喜ばしい事である。秦王様も安心なさ

れ、国内の不穏も解消されるであろうな」

「・・・・・・・・・・・・・・」

 紫雲竜は目礼を返す。いつも通り、疑念などおくびにも出さずに。

「しかし長くは持たぬ。最早陛下存命時の状態に戻る事は不可能だ。我らが任されたここ西方は中央と南方を

繋ぐ要地、今後どうしていくべきか、ようく考えねばならんだろう。そして手を打っておく必要がある。何も

せずに見ていれば、何もしないまま滅びてしまうかもしれん。それは亡き胡虎殿も望まぬ事。

 私は私の役目を果たさなければならぬ。貴殿はこれからも私と共に励んでもらいたい」

「・・・・・・・・・・・・・・」

 紫雲竜は同じように目礼を返した。

「うむ、そなたが居れば心強い。今二将に余計な事をすれば、煙を立てるのみ。なればこそ、我らは我らの役

目を果たすべく、できることをすべきだと思う」

「・・・・・・・・・・・・・・」

 三度目礼を返した。

「であれば私はやるべき事を果たそう。貴方には西方の安堵をお頼み申す」

「承った」

 紫雲竜も帝国を滅ぼしたい訳ではない。このまま存続し、彼の、いや彼らの目的に向かって進んでくれれば

良いのだ。それが一番良い。

 ただし、もしそうでなくなった時は、その時は・・・・。

「・・・・・・全ては賦族解放が為に」

 紫雲竜は奥歯をぐっと噛みしめた。



 魏繞は凱聯らの事はこのまま胡曰達に任せ、自らは双への対処を進めて行く事にした。

 彼の居る秦は北方の双と近い。その為、双に関して他の地方よりも多くの情報が素早く入ってくる。当然間

者も数多く放ち、双内の情勢を探らせ続けている。

 幸いというべきか、双の高官は宮廷政治以外の能力は標準以下であり、その部下である双臣達も高官を良く

思っておらず、必要以上に職務に励む者は稀である。情報を得るも工作を仕掛けるも、双の権威に関する事以

外であれば(その点のみ双高官は異常なまでの団結力と支配力を見せる故)、容易であった。

 貴族主義と言われているように、双内での序列は血統によってはっきりと区別されており、高官に縁故のな

い者は生まれながらにして出世を望めない。能力の多寡など問題ではなく、血筋のみが優先する。

 それはそれで清々しいくらいであるが、努力や能力に左右されないとなれば、職務に対するやる気というも

のは失われる。正に無駄な努力、そんなものを進んでやろうとする者は少ない。

 それでも始祖八家の最後の一統である双王家に対する尊敬の念は強く、また長年貴族主義が浸透している為

に表立って不満を形とする事は無いようだ。

 楓と繋がってからはその影響を少なからず受け、多少は出世の道も拓けており(紀陸{キロク}に仕える、

秦内で働く楓臣に近付く等)、表に見せぬ不満も少しだが解消している。

 しかし現在は皇帝(代理)である双正が姿を隠し、楓からの再三の要請にも関わらず返事を出さないせいで、

民は皆不安がっている。

 凱聯と壬牙の諍いもあり、その火種が双に飛んでこないかと怯える毎日である。

 皆いつでも逃げられるよう家財道具をまとめ、食べ物や日用品がいつ買えなくなるか解らぬと余分に買い求

める者が増え、物価は日増しに上がっている。

 ここで帝国が迂闊(うかつ)な真似をすれば、双国内に大混乱をもたらし、それが大陸全土に波及するおそ

れがある。帝国内も不安定なのに、皇帝代理を擁する双国までそのような状態では安定など望めない。

 今後どうするにせよ、双の安定が急務である。

 そこで魏繞は凱聯と壬牙の諍いが落ち着きを見た事を間者を使って広めると共に、双に対して物資の援助を

申し出た。

 ただしその援助はそのままの意味ではなく。物価が上がっているのも二将の不和が原因であり、帝国の不始

末。ならばその責任は我らが取るが道理。幸いこちらには物資に余裕がありますから、それを双へ運び、安価

で売りましょう。勿論、輸送、売買で生じる税は全て納めます。という方式を採った。

 これならば双高官は全く損をしないし、物価も下がる。その上莫大な税収入まで得られるのだから文句の付

けようがない。

 双高官も双正を帝国から遠ざけているとはいえ、別に国交を断絶したり、返答をしない訳ではないので、こ

れには嬉々として飛び付き、受け容れた。現在の皇帝(双高官)の態度に関して何も触れなかった事も気に入

ったのだろう。

 双民達も魏繞の処置に感謝し、帝国に対する感情も不安から安堵、好意へと姿を変えた。民に直接与えたの

ではなく、ただ同然の価格でまず双の商人に卸したので、商人の不満も最低限のもので済んだ(不満を抱いて

いない訳ではない)。

 魏繞はその結果に一先ず満足した。このまま双との繋がりを深め、双高官の心を取れれば、双王の出馬も願

えるかもしれない。皇帝代理である彼の言葉はやはり重い。凱聯がまた機嫌を損ねるかもしれないが、そこは

胡曰が上手くやってくれるだろう。

 とにかく玉座が空いているのが悪いのだ。趙深が皇帝になれぬ以上、双王に出てきてもらわなければならな

い。誰も楓流の代わりはできないとしても、何分の一かの働きはできるだろう。

 そのように魏繞は考えていた。いや、一縷(いちる)の望みにすがっていたのかもしれない。

 紫雲竜はそんな彼を横に見ながら、黙々と任務をこなし続けた。

 その甲斐(かい)あって西方の情勢も安定してきているようだ。



 大陸北東部に位置する衛のみは大陸全土を揺るがす情勢不安に流されず、民も将兵も王である趙深のように

と皆心にぐっと堪えて自分の成すべきと思う事に励んでいた。

 ある者は国を想い、ある者は恋人を想い、ある者は家族を想ったが、誰もが衛を衛足るべしと想う事には変

わりない。趙深の夢に導かれて集まり、その夢の為に邁進(まいしん)してきた彼らにとって、楓流の死も他

の国家ほどには恐れるべきものではなかった。趙深が健在であれば、その夢を見続ける事ができるからだ。

 ただしこれで賦族解放、いや異民族解放という夢が遠のいた事は彼らも解っている。だからこそ身を引き締

め、やれる事をやり続けている。今までそうしてきたように。そう信じてきたように。

 何がどうなろうとも、我らのやる事は変わらない。

 その気持ちを体現しているのが紫雲世と呂示醒(リョジセイ)の二人である。紫雲世は一時魏繞と共にあっ

たが、その役割を息子、紫雲竜に託し、ここ衛にて諜報組織の人材育成など本来の役割に戻っている。呂示醒

もまた同じ職務を全うしつつ、紫雲世がこの火急の時に居てくれた事に心底安堵していた。

 性豪放な紫雲世は皆から大親分のように慕われている。衛が今もまとまりを保ち続けられているのには彼の

力が大きい。呂示醒だけでは崩れはしないまでも、この安定はもっと慌ただしいものになっていただろう。

 しかしそんな紫雲世の顔も呂示醒と二人だけの時には曇りを見せるようになっていた。趙深が精彩を欠くよ

うになっているからである。

 どんな窮地に陥っても、どれ程の損害を受け、どれ程の困難が前途に待ち受けていようとも、動じず冷静に

物事を処理してきた趙深の姿を想えば、今の姿は別人のようである。能力に衰えが見えたとかではないが、何

をするにも意欲というのか、意気が感じられない。今までのような異民族解放に向かって邁進していく、とい

う心が見えなくなった。

 方策にも積極性を欠くようになり、ともすれば紫雲世の方が焚き付けねばならない事も増えた。これは異常

事態である。衛にとって趙深は楓流以上に大きな存在であり、その覇気の多寡は大きく国政にまで影響する。

彼がそんな態度では将兵も不安に思うだろう。

 楓流と趙深の蜜月の日々を思えば、まるで一心同体であるかのような二人の姿を思えば、その死の衝撃が誰

思う以上に大きかったのは察せられる。しかしその楓流から後事を託された趙深がそのような様では、誰がそ

の為に共に励もうなどと思うだろうか。

 そう言って様々に焚き付けてみたが、どうも要領を得ない。

「ようやくここまでこれたと言うのに、一体どうなさってしまわれたのか」

 さすがの紫雲世も愚痴の一つも言いたくなる。

「趙深様には趙深様のお考えがあろう」

 そんな彼を呂示醒は心配のしすぎだと言い聞かせる。あの趙深様に限って下手な事をなさるはずがない。こ

れもきっと何か我らには計り知れぬお考えがあるのだろうと。

「ふうむ」

 しかし衛民の多くがそのような具合だから心配なのだと紫雲世は思うのだ。帝国が楓流に頼り過ぎていたよ

うに、衛もまた趙深に頼りすぎなのではないか。これではもし衛が趙深という柱を失えば、帝国と同様に国家

そのものが瓦解してしまうのではないか。

「やはり捨ててはおけん。わしは何度でも行くぞ!」

「・・・・・やれやれ、お主は昔からそうだ」

 呆れ顔で紫雲世を見送る呂示醒だが、そんな彼も不安が無い訳ではない。まとめ役である彼らがおたおたし

ていては下の者達に示しが付かないと思い、外に出さないだけである。他の者達の中にも同じように自分の不

安を押し殺している者が少なくないのではないか。

「趙深様がそのお心を、少しでも取り戻されれば良いが・・・・」

 紫雲世を呆れつつ、その願いを託してもいた。

 例え立ち直れない程の傷を心に負ったとしても、趙深ならば必ず戻ってきてくれる。

 そんな風に考えていたのだ。この時は、まだ。




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