物語の背景

ある手記

　何時の頃だろうか。僅かな技術を除いて、ほぼ全ての記録は消えてしまった。それが故意に行われた

のか、はたまた事故であったのか。それは今となっては解らない。

　太陽は翳り、人は嘆き。花は枯れ、水は穢れた。

　だが、それでも生物に取って一番大事なモノは失われる事はなかった。

　即ち、生きる為の意志であり希望と言われる未来を望むモノ。

　人々は残された力と遺産を振り絞るように懸命に生き、後悔と満足の中で賢明に死んで行った。

　そして復興と言う甘美な響きと共に、ゆっくりとゆっくりと微笑みを取り戻して行ったのである。

　知識も現存した機械や記憶を解析し、研究する事で。何世代もかけて僅かずつながら取り戻しつつあ

った。

　決して諦め無かった者達の手で。

　そして何時の頃からだろうか。奇妙な人類が誕生する。

　その人間には、あるモノが絶望的に足りなかった。寿命、生命力とも言っていい。その人間達は個人

差はあったがいずれも一年も経たずに亡くなってしまった。

　親は哀しみに沈み、医師は絶望した。

　それは長らく人間から不治の病として恐れられ、畏怖される事となる。

　ただ、その症状は生まれたばかりの赤子にのみに現れた。人は憂いたが安心もしたのである。自分が

親になるまでは。

　それからまた月日が流れ、諦めない人間の一人によってようやく原因らしき事が発見された。即ちそ

れが、ある一つのウイルスによって引き起こされていると言う事に。

　そのウイルスは貪欲で、餓鬼のように常に飢えている。そしてウイルスは宿主から生きる為の大事な

何かを食い荒らす。徹底的に。そしてそれを防ぐ術を見つける事は、今の人間には到底不可能であると。

如何なるモノも食い破り、跳ね返す程に強靭なこのウイルスに、昨今の天才達ですら付け入る隙を見付

けられなかった。

　そしてウイルスは人間の体内にのみ生息し大気感染等はせず、宿主の血液等の体液からのみ感染する

と、その当時は考えられた。永劫の昔流行ったと言う、エイズウイルスに良く似た感染性質を持ってい

ると。そう報告されたのだ。

　それを信じ、理解する者は少なかったが。それでもただ一つの対応法だけは認識された。

　それは他者の血肉を摂取する事で、ウイルスの飢餓を満たす事。つまりは変わりの餌を与え、そのウ

イルスを飼い馴らす。簡単な理屈ではあった。

　そしてウイルス保持者の体液に触れさえしなければ、取り敢えずは安全だと考えた。

　人は当然ウイルス保持者達を即座に隔離した。ただしかし、その異常な病状から人の血肉を貪る悪魔

ではないかと畏れもしたが。人間達はまだ多分に、皆彼らを同情的な目で見てもいたのである。だから

幽閉では無く、あくまで隔離だった。

　ある区域を保護区域として、その範囲内での外出も認められていたし、少なくとも基本的な人権だけ

は何とか認められていた。面会も、前後に検査を受ける義務が出来たとは言え、誰と何時会おうと自由

ではあった。

　最も、ウイルス保持者からすれば、もう幽閉と呼ぶに等しかったかも知れない。

　ウイルス保持者達は嫌悪感を剥き出しにしながらも、生きる為にその対応法に従った。彼らが摂取し

た血肉は、主に両親の物であったり、兄弟友人の物であったりした。輸血用の血液等も使われた事だろ

う。

　幸いな事にウイルス達は多くの貢物を望まなかったから、家族で順番に一日コップ半分程の血液を与

えればそれで何とか生き長らえる事が出来た。どうやら他者の血肉の方がウイルス達の腹を満たし易い

ようだ。或いはウイルス達の生存本能が飢餓を自粛させていたのかも知れない。

　ウイルス保持者達は血を好んだ。だからと言って、彼等がそれを欲したと言う訳ではなく・・・。

　彼らにとって摂取できれば肉片でも何でも同じなのだ。そこに生きる意志が感じられるモノであれば。

生命力の宿るものならウイルスは満たされる。ただ、肉を貪るよりは血液を啜る方が、ほんの少し、そ

うほんの少しだけ気持ちの上で彼らは救われた。ただ、それだけの事である。

　だがそうなるに従って、またも大きな問題が生み出される事となった。

　摂取する血液は有り体に言えば新鮮な方が良かった。もっと言うならば活きがよければ。生命力が溢

れていればいる程相応しい。

　そうなると自然、対象者の肉体から直に血液を吸う事が望ましいと言う事になる。何故ならば、それ

が一番効率が良く、鮮度も良い。そしてそれを円滑に行う為の器具も開発されつつあった。

　その器具は動物の牙を模されて作られた。携帯性にも優れ、付けていてもさほど邪魔にならないと言

う理由であったらしいが。おそらくは多分にブラックユーモアも含まれていたのだろうと推測される。

まあ、使用者から聞くには実際便利でもあったようだ。

　しかしその笑えない冗談が、冗談で無くなる事になろうとは。

　驚くべき事に、牙状血液摂取装置（これからは単純に血牙と記す）を使って血液を摂取しても、この

恐るべきウイルスは感染してしまっていたのである。

　このウイルスは唾液や汗等の分泌液からは感染するはずは無いとされていたのだが。どうやらこの貪

欲過ぎるウイルスは、人間の全ての血肉に巣食っていたようだ。人の全身に、とても巧妙に、まるで隠

れ住むが如く。

　そしてこのウイルスの元となるモノ、或いはウイルスそのものはどの人間の体内にも潜んでいて。そ

れがあるウイルスが干渉する事で目覚め、初めて活動を開始すると言う事実を、人間は遅まきながらも

（実際遅すぎたが）ようやく発見する事が出来た。

　このウイルスがいつ何処から現れ、いつから人に巣食っていたのかは解らない。吸血鬼伝承が昔から

世界中にあった事から考えれば。もしかすれば、人の誕生と共に居たのかも知れない。

　そう、言うなればミトコンドリアのような共生生物として。

　

　しかし、そんな事よりも何より恐ろしい事に。直に血液を啜られると、血液の提供者が摂取者に崇拝

や陶酔にも似た感情を強く抱いてしまう事も判明したのだ。これはおそらくウイルスがより容易く血液

を摂取する為に。摂取時に提供者の肉体に干渉する目的で侵入したウイルスが、脳に何らかの作用を働

きかける事でそうなるのだろうと推測されたが。これもはっきりした事は解らない。

　ただ解る事は、感染者が飛躍的に増大したと言う事だけであった。

　政府は血牙の使用を、間の抜けた話だがゆるりと禁じた。すでにこの機関は老い腐り、俊敏さの欠片

も無くなっていたのだ。取り締まりが大々的に行われた時にはもう、無数の感染者を新たに生み出した

後だったのである。

　勿論、ウイルス保持者達は知らずにやった事だ。何しろ、彼らは隔離されている。その分情報の伝達

も酷くゆるやかだったのだから。そう、馬鹿らしい程に彼らは彼らのウイルスに付いて無智だったので

ある。ある一つの事実以外には。

　ただ、その後の研究で。この感染者のウイルス（以後子ウイルスと記す）には感染力も生命力を摂取

する力も無い事が解った。これも恐らくは親ウイルスをより生き長らせさせる為だろうと予測される。

競争者は少ない方が実りは多い。

　つまりはウイルス保持者の、生まれつき発現しているウイルス（以後親ウイルスと記す）に干渉され

ない限りは、この人類に巣食う悪魔のウイルスは一生眠ったままなのである。

　これだけならば、安心の材料が一つ増えたで終る事が出来たのだが。

　何故ならば、直に摂取するのは大量に生命力が必要になる１０代後半の者達からが主で。それくらい

の年齢ならばすでに既婚者や婚約者、それに類する者が居たからである。更にウイルスが最大に成長す

る２０歳までならば、直に摂取しなくても、輸血用の血液で辛うじて生きる事は可能だったのだから。

　問題は、ウイルス感染者がそれに伴い爆発的な身体能力を同時に得る事だった。これは摂取する宿主

の為に、よりその血液提供者の生命力を増そうと働いた結果だろうと言われたが、そんな事はどうでも

良い。

　恐ろしい事は、これによって感染者は正に神話の化物に変わると言う事だ。あらゆる武器を遮る強靭

な肉体、治癒能力も驚く程に高い。それ故、人間ではまるで歯が立たず。しかもウイルス保持者に絶対

的な忠誠を捧げる。

　これはウイルス保持者が無敵の兵隊を持つに等しい事になる。正に悪魔の兵団。そしてそれは夢幻で

は無く、紛れも無い現実なのである。

　人間には野心も欲望も存在すると懸念し、恐怖した支配階級達は。ウイルス保持者は肉体的には常人

と何ら変わりが無いと言う事から。ウイルス保持者達に過不足無く、常時監視を付ける事にした。つま

りはいつでも殺せるようにと。

　支配者達、いや人間達にとって幸いな事に。ウイルス保持者を殺されれば、その保持者に忠誠を誓う

ウイルス感染者達も、後を追うように死滅した。その原因は解らないが、人間達にはその事実さえあれ

ばそれだけで良い。

　そしてウイルス保持者達のほとんども監視された生活を静かに受け入れた。彼らはすでに色んなモノ

を諦めていたのだから。或いは何かを悟っていたのかも知れない。また或いは、何よりも苦しめられた

彼らの魂は、苦渋を味わった人間の魂がそれによって深みを増すように、どの種の人間達よりも高潔に

なっていたのかも知れない。例えるならば、聖者が悟りを啓いたかのような。

　ただこれによってウイルス保持者達の自由は奪われたに等しかった。しかし誰もそれに反論する者は

いなかった。その当時、すでにウイルス感染者による事件もちらほらと起き始めていたからである。

　この頃からウイルス保持者に対する嫌悪感が、自然、人々の心を更にどす黒く変色し始めた。

　そして何時の頃からか、彼らを忌むべき者達として。ウイルス感染者達の事を誰とも無く、ヴァンパ

イア、そう呼び始める。それに対してウイルス保持者達は、人間からは始祖ヴァンパイア。ヴァンパイ

ア達からは尊敬と畏怖の念を込めてヴァンパイアロードと。

　自然、その原因となった悪魔のウイルスにはヴァンパイアウイルスの名称が与えられた。

　ヴァンパイアウイルスが発現して生まれてくる原因については依然不明である。ただ遺伝でない事だ

けは確かだ。しかし例外的に始祖ヴァンパイア同士の子にのみ、このウイルスが遺伝する事が解った。

それもより強力なウイルスとして。

　協力な親ウイルスによって発動された子ウイルスは、その感染者の肉体を親の能力を受け継ぐが如く

より強靭なモノへと変える。この点、人間の遺伝子よりもよほど明確に遺伝するのだ。

　それ故、人々は始祖同士の婚姻を最も怖れた。より強い化物を生み出さない為にも。

　ただヴァンパイア達は防衛者としても労働者としても秀逸であり、その恩恵を人間達が受けていたの

も事実だった。始祖ヴァンパイアの中には疎まれいても未だ人間に穏やかと言う粋狂者も少なからず居

たのだから。やはり魂が高潔に昇華されているのだろうか。

　また何より、感染したからと言って自由意志が失われる訳でも無く。その為か純粋にヴァンパイアに

憧れる者も少なくは無い。神の如き力を自在に振るえる事は、肉体的に脆い人間には途方も無く魅力的

な事だろう。

　現にヴァンパイアハンターとなる為に自ら感染志願するシステムも考えられた。ヴァンパイアにはヴ

ァンパイア。安易だが効果的でもある。始祖ヴァンパイアはこのシステムには協力的な者が多い。彼ら

も人間に協力し彼らの印象を良くする事が、常に監視されている自分達にとって最善であると解ってい

たからだろう。

　そのおかげか、始祖ヴァンパイア達への悪感情はほんの少しだが薄れて来た。

　始祖ヴァンパイア達は皆聡明で見目麗しかった為、彼らに対して敬愛の念も抱き易かったのである。

　その原因はヴァンパイアウイルスにある事は明らかだが、それもやはり詳しくは解らない。

　ただ彼らは輝くほどに美しかった。艶やかで華やかで、それでいて儚くて。見るものを誰でも恍惚と

させる。人間の芯からその美が響くように、あっさりと人の心を蕩かした。

　

　さして悪くも無く良くも無く。流されるままに収まる所へ収まったように感じられるそんな時代。そ

して異常なウイルスも、いつしかゆったりと日常へと変わる。

　だからと言って、何も解決はされていないのである。いつの時代も、この時代も。

　そして物語は始まる。

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