1-2.蒼家の家庭の事情


 趙庵(チョウアン)の賑やかな商店通りを抜け、更に歩き喧騒を離れた静けさの戻る所。そこに蒼愁(ソ

ウシュウ)の家は在る。

 山鳥は穏やかに囀り、まるで大地の息吹のように、山菜が仄かな青い香りを運んで来る。そんな場所だ。

 商店から遠い分、買い物等は不便だが。穏やかで静かな生活はそれ以上に貴重なものではある。家主であ

る蒼家の現当主、蒼明(ソウメイ)の趣味なのか、家の造りも質素で古風でもあり、なかなかに雰囲気のある景

観をかもし出していた。

 実際、建造されてからもう随分月日が経つのだろう。それはそこに在るのが当然のように、周りの景色と

溶け合い、見事に調和している。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、蒼愁」

 蒼愁が玄関を潜ると、穏やかな微笑みを浮かべた女性が出迎えてくれた。柔らかそうな黒髪が、戸口から

吹き込んだ風にふわりと揺れる。蒼明の妻であり、蒼愁の母である蒼瞬(ソウシュン)である。

 彼女は夕食の支度をしていたようで、奥から漂う香りがふと空腹を誘う。

「母上、父上は戻られましたか」

 蒼愁は実母に馬鹿丁寧な程な口調でそう問いかけた。

 例え家族であれ、目上の人には丁重にも鄭重に接する事が当然であると。そう幼き頃から教えられている為だ

ろう。礼節を重んじる事こそ、人が人である所以であり。そしてまた自分が居るのは先人のおかげであり、与え

られる知恵も知識も全ては先人の考えられたモノ。それに大して感謝するのは当然の事なのだと、彼は幼き頃よ

り事細かに教えられている。

 特に彼の父、蒼明は礼儀作法と言葉遣いには事にうるさい。

「いえ、今日も遅いようです。まだ帰られてません」

 蒼瞬はにこやかにそう答えた。蒼明は仕事で帰りが遅くなる事が多い。

「さあ、先に汚れを落としてきなさい」

「はい、母上」

 蒼愁は革靴を脱ぎ、綺麗にそろえ。母に一礼をしてから奥へと進んだ。

 浴室まで行き、衣服を脱ぐとゆったりと身体を流し始める。塵埃が清らかな水で流れ落ち、同時に外で浴びた

良くないモノも浄化される。それは一つの儀式でもあり、祈願でもあった。

「着替えを置いておきますよ」

「ありがとうございます、母上」

 戸外から聴こえる穏やかな声。

 そして足音が消えて行くのを確認してから、蒼愁は浴室を出、洗濯された衣服に着替える。

「ふう、何とか説得しなければ」

 それから蒼愁はブツブツと何事かを呟きながら、食卓へと向かった。この男は家に戻っても変わらないらしい。

足取りは朧のくせに、ペースは一定だ。そしてするすると眼を閉じたまま器用に歩く。

 母は今日もいつもと変わらなかった。母は常に自分を応援してくれているように思う。それがどんな事であれ、

頑張りなさいとにこやかに笑ってくれる。しかし父は違う。父は納得出来ない事は、如何なる事でも許してはく

れまい。  

 誠意だけでは駄目なのだ。何事か説得力のある何かを見せなければ。

 しかし、と蒼愁は思う。

「確かに試験に受かる保証はどこにも無いのだから」

 むしろ、門前払いのように追い返される可能性の方が、遥かに大きい。

 眼を瞑って歩く息子を蒼瞬は怒るでもなく、静かに夕食の支度を整え始めた。彼女も料理を手にしたまま、実

に自然に障害物を避けて迅速に歩く。蒼愁は母に似たのかも知れない。

「今帰った」

 その時、玄関から低い声が響いた。

「おかえりなさいませ」

 蒼瞬が即座に向かい、鄭重に出迎える。

 ついに当主のご帰還か。蒼愁は決戦の時を静かに待った。

 腹が鳴る音がやけに頭に響く。



 蒼愁の対座にゆるりと蒼明。そしてその側に蒼瞬が座る。

 蒼明は相変わらずの仏頂面で、眉間がぴくりとも動かない。まるで仁王のように堅く蒼愁を観ていた。父親の

怖さと言うモノを充分過ぎる程に持っている。しかし別に今は怒っている訳では無い。ただ、知らない人がみれ

ば、怒っているとしか見えないのだろう。どっしりとした威圧感をこの当主は纏っている。

 そして当主は重い口をゆっくりと開け放った。

「愁よ。まだお前は諦めていないようだな」

 押し出された声は重く。聴く者に無意味に重圧を加える。

「はい、男子一生の決意ですから」

 しかし蒼愁は怯む事無く、父の目をまっすぐに見据えた。

「それは良い」

 蒼明はゆっくりと噛み締めるように呟く。

 しばしの時間が流れた。

「しかし、お前が向かう先はあの黒竜だ。親として息子を見守るのが務めだが。子の無謀を諌めるのもまた務め。

解るな、愁よ」

 そうして再び発せられた父の言葉は、有無を言わさぬ威厳に満ちていた。しかし蒼愁もまた、他の誰でもない

この父の息子なのだ。今はまるで怯まない。

「私は試験を受けます、父上」

 そして息子も自らの言葉を確認するように、しばしの静寂をもたらした。

 母親が湯のみを品良くすする音が聴こえる。最も彼女に近しい男二人が揃いも揃って頑固なのに、そろそろ呆

れているのかも知れない。ただ、表面上はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていた。

 あくまでもマイペースに事を運ぶ。

「しかし父上」

 そして蒼愁が再び口を開いた。

「私も無理難題を意固地に通そうとは思ってはおりません。ただ一度・・・。そう一度だけ、私の我侭をお許し

下さい。それで志為さぬ時は、私も潔く諦めます。・・・・父上は昔、男たるもの簡単に志を投げ出すものでは

ない、と仰ったではありませんか。どうか一度だけ試験に望む事をお許し下さい」

 彼の目はいつに無く真剣に輝き、何事もそれを翳らせる事は不可能に思えた。正に不退転の決意をして来たに

違い無い。

「むう・・・・」

 蒼明もこれには考えを改めずにはいられなかった。何しろ、簡単に意志を曲げるな、と教えたのは他ならない

自分なのだから。蒼明は自らの哲学で躾た事を、今更ながら少しだけ後悔した。そして同時に誇りにも思った。

どうやら息子にはしっかりと根付いてくれているようだから。

 だからこそ、もうここまでくれば。

「よかろう。ただし一度、一度だけだぞ」

 そして念を押すように息子にゆっくりとそう告げた。

「ありがとうございます、父上」

 蒼愁は嬉しそうに深々と頭を下げたのだった。

「ではご飯に致しましょう」

 座が落ち着いたのを見計らって、蒼瞬が穏やかに微笑んだ。

 しかし彼女も内心は。

「やれやれ、手間のかかる人達ね」

 と、呆れながらも可笑しくて仕方が無かったに違い無い。




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