生真面目も程々に

1-6.大商館の主

　しばらくすると店奥から再び足音が聴こえ、先程奥へ引っ込んだ店番の女性が小走りに現れた。

「ん？」

　蒼愁（ソウシュウ）がそちらに目を向けると、丁度女性の後から続くように中年の男が出てきた所であっ

た。とは言えおそらく蒼愁の父、蒼明（ソウメイ）よりも年嵩だろう。髪に少し白みがかかっている。厳密

に言えば、中年と言うよりは初老と言った歳なのかも知れない。

　商館と同じように、質の良い落ち着いた色の衣服を纏っていた。

「失礼を致しました。私、当商館の主で桐信と申します」

　桐信（ドウシン）と名乗ったその男は丁重に頭を下げ両手を胸元で合わせて、礼、の姿勢をとった。

　しかし蒼愁の方はと言えば訳が解らずにしばし呆けてしまっていた。何故ならば、礼、とは普通貴人や目

上の人物に対してする動作であり。一介の青年に過ぎない蒼愁からすればそんな事を初対面の、しかも年配

の人物からされる理由も無いのである。

　蒼愁は困惑していた。

「どうぞこちらへお入り下さい」

　桐信はそれを貴人故の余裕とでもとったのか慇懃に蒼愁を店奥へと案内しようとした。

　しかしこの時に到っては流石の蒼愁も我に返り。

「お待ち下さい」

　慌てて桐信を止めた。

「如何されましたか？」

　これには桐信の方が驚いたらしく。自分に落ち度がありましたかと、申し訳無さそうな顔で謝り始めた。

店番の女性等はもう見ている方が可哀想で居た堪れなくなる程、青を通り越して蒼白な顔になってしまって

いる。元来が小心な娘なのだろう、その蒼白な顔に更に堅く張り詰めた表情も浮かべていた。

「いえそうではありません。ただ私には見ず知らずの方にこれほどの礼を受ける理由がありません」

　蒼愁は丁寧に、礼、を返しながらそう伝えた。その礼法に長けた母親仕込みの優雅な仕草だけを見れば、

この青年が貴人であると取れなくも無い。しかも美しい蒼を身に纏っている。こんな目の覚めるような気高

い色は長らく商館の主をやっていた桐信ですら、今までに一度として見た事は無かった。

　そんな事もあり、桐信は如何にも不思議そうに問うた。

「しかしこの片袖を持っていらしたのは貴方なのでしょう？」

「はい、それはそうなのですが・・。あのう、その袖は一体どのような物なのでしょうか？」

「はあ・・・」

　桐信はそれを聞いて呆けたような表情をしていたが。しばらくして何事か思い当たる事があったらしく、

なるほどなるほどと一人頷いた。

「ともかくもこんな所ではなんですので。凛鈴、そろそろ店を閉めなさい」

「はッ、はいッ」

　凛鈴（リンレイ）と呼ばれたその店番の女性はあたふたと入り口の方へと向かった。

「それではこちらへ」

　そして桐信は蒼愁を振り返り、店奥へ進むよう促した。その振る舞いは相変わらず丁重過ぎる程に丁重である。

「いえ、しかし・・・」

「ささ、こちらへ」

　蒼愁はしばらく抵抗していたものの、やがて桐信に押し切られる形で店奥へと歩み始めた。こうしてこの

青年はまた困ってしまっていた。一体どこまで困れば気が済むのであろうか。

　

　店奥はどうやら店主一家と使用人達の住いになっているらしく、多数ある部屋に廊下の隙間から寝具等が

見えた。蒼愁は広い廊下を最奥の来客用らしい一室まで通され、質の良さそうな椅子を勧められた。

　そこは天井の高い開放的な空間で、掃除も行き届いているらしくとても清潔感の漂う部屋であった。蒼愁

は旅塵に汚れた自分の衣服を見て少し申し訳無く思ったが。しかし彼には他に衣服らしい衣服も無く、彼自

身にはそれをどうする事も出来無かった。

　するとその様子を見て取ったらしい店主、桐信はにこやかに笑い。

「程無く湯船の用意が出来まする故、しばらくお待ち下され」

　と眼で気にするなと言ってくれた。蒼愁はただただ感謝して勧められた椅子に腰を下ろした。やっと落ち

着けた蒼愁は深く息を吐く、旅の疲れがその息と共に吐き出されたような気がした。

「それであのう・・・・その片袖と言うのは・・・」

　そうして蒼愁はおずおずと切り出す。

「はい、実はこの片袖は私と縁のあるやんごとなき御家の物なのです。この色彩を纏える方はこの壬国内で

もごく限られたお人だけなのです。ですから私共は貴方様がその御家の所縁の方かと」

　桐信は人の良い笑顔を浮かべながらそう答えた。

「ははあ・・・なるほど」

　蒼愁は片袖の持ち主の少女の姿を思い浮べる。やはり尊い御家の出であったかと、あの気品と不思議な物

言いを納得した。しかしそれとしても、いやだからこそ言わなければ申し訳が無い。

「しかし私はあの片袖の御方とは今日始めて会った間柄でして。私自身はただの平民の出に過ぎません、ど

うぞお気遣いなさらないよう。ただ私には他に当てにする所も無いものですから、もし宜しければ納屋の片

隅にでも今夜一晩置いていただければ幸いに思います」

　蒼愁はこれまた馬鹿丁寧に頭を下げて、礼、の姿勢を作った。その動作にも蒼い上着が良く映える。

　すると今度はそんな動作に桐信の方が慌ててしまい。

「いや、例え初対面であろうとも。あの方は気軽に片袖を裂くような方でもありませぬ故、貴方をそんな扱

いにしては申し訳が立ちません。ここは私の顔を立てるとお思いになられて、大したおもてなしも出来ませ

ぬが、どうかごゆるりとご滞在下さい」

　と言いながら深く頭を下げた。

　すると自然、これに恐縮した蒼愁が頭を下げる。となるとやはり桐信が畏れ入って頭を下げる訳で。この

二人は幾許かの時を頭を下げあって過ごす羽目となってしまった。

「旦那様、湯船の用意が・・・・」

　そこに報告に現れた凛鈴もそんな二人を見て固まってしまい。それからまた暫く後に、痺れを切らした桐

信の妻、桐音（ドウイン）が現れるまでずっとこのままの状態が虚しく続いたと言う。

　それから桐音の的確で迅速な進行によってようやく旅塵も落とし、しばらくぶりに熟睡出来た蒼愁は、洗

っていただいた衣服のおかげで、気分もさっぱりと大きな門出を迎える事が出来たのだった。

　桐信、桐音共に我が子のように手厚くもてなし、送り出してくれ。蒼愁も彼らに言葉にし尽くせない程の

感謝の意を抱いた。

「良き結果が出ます事をお祈り致しております」

「ありがとうございます。この恩は生涯忘れません」

　そうして蒼愁は何度も振り返りながら桐明館を後にしたのだった。

　彼の人生の大きな転機となるだろう参謀府試験はもう間近に迫っている。蒼愁は足早に急いだ。

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