1-9.好転の示か否か


 食事をいただいた後、蒼愁(ソウシュウ)は楓仁(フウジン)竜将と緑犀(リョクサイ)大長に丁重に礼

を述べて別れ、再び休息所でじっと待った。そしてひたすら待ちに待ち、ようやっと結果発表の時が訪れた

のである。

 しかし元来この青年は何処かのんびりした所があり。あれだけ待っていたにも関わらず、今行けば人が多

いだろうと言う事で、敢えて更に待っているのであった。その気の長さには頭が下がる思いである。

 そしてまた例のように何処をとも無くぼんやりと眺めていると、ふと見覚えのある老人が通りがかった。

 蒼愁は常にしているように颯と礼の姿勢をとった(彼は誰かが通りがかる度に一々礼をしている。まあ、

彼がその通行人に気付けばの話なのだが)。老人はそれを見て一瞬不思議そうな顔をしたが、どうやらあち

らも朧げに記憶があったようで、笑顔を浮かべひたひたと蒼愁の方へとやってきた。

「お主は確か蒼愁と言ったかな。こんな所で何をしているのだ」

 それは参謀長、蜀頼(ショクライ)その人であった。試験も全て終わり、これから帰宅と言った所だろう

か、朝とは違い簡素な衣服に着替えていた。

「はい、私はここで結果が出るのを待っておりました」

「まさか・・・、あれからずっとかね」

「はい、その通りでございます」

 蜀頼はそれを聞いて何とも言えない難しい顔をした。ここは呆れるべきなのか、それとも気が長いと誉め

るべきなのか、はたまたのんびりした奴だと笑ってやるべきなのか。蒼愁の顔自体は大変に生真面目なので、

蜀頼としてもどうにも判断と対応が難しい。

「変わった男だ」

 そう思うしか無かった。

「ならば、もう張り出されているはずだ。はよう見て来ればどうかね」

 蜀頼は考えた結果、好々爺然とした微笑を浮かべる事にした。いつもは職務柄難しい顔をせざるを得ない

のだが、こうして笑うと人の良いじいさまになる。それに蜀頼自身、この蒼愁に少なからず親近感も持って

いた。自然に微笑める。

「ははあ、それはそうなのですが・・・。何分、今は混雑しているでしょうから」

 しかし蒼愁は頭を掻くようにして笑ってその提案を辞した。この男は生涯とにかく良く笑った。そしてこ

れがなかなか面白い笑顔をしているらしい。

「おお、まあそうであろうな」

 蜀頼もまたそれにつられるように笑う。そうして二人で暫し談笑を交わした。

 こうして蜀頼が、と言うより参謀府の者が、受験者と語らうのも実はそう珍しい光景では無い。

 何故なら参謀にとって最も大事なのが情報であり、その情報は当然生で新しい程良い。それを考えれば、

全国から人が集まるこの試験期間くらい情報収集に適した期間は無いのである。その為、参謀府の者は試験

者に酒を奢ったり、或いは宿の便宜を図ったりしながら各地の情報を地道にせっせと聞き出していたりする。

 そしてその職務は参謀長たる蜀頼も変わらない。

「さて、ではそろそろわしは帰るとしよう。お主もそろそろ見に行って来ると良い。もう人もおらぬだろう」

 蜀頼はそう言いながらも、そう言う自分が少し可笑しかった。何しろこの青年の合否を最終的に決めたの

は他ならぬ蜀頼自身なのだから。

 しかし蒼愁の方はそんな事はころりと忘れているのか、初めから考えもしないのか。

「はい、それではそうさせていただきます」

 と馬鹿丁寧に言い、礼の姿勢を取った。

 蜀頼はそんな青年が好ましい。軽く会釈しながら微笑み。

「うむ、その蒼衣に恥じぬ働きをせよ。後、母御によろしうにな」

 ついうっかりと口を滑らせてしまった。

 蒼愁は母に?とそこは不思議だったが、それ以前の言葉の大事な意味に何も気付かず。

「はッ、ありがとうございます」

 そう謝し蜀頼と別れ、城門へと歩いた。

 当然、蜀頼の言う通り、蒼愁は見事合格していた。真にめでたい。

 

 

 

 その夜、蒼愁は迷った挙句再び桐明館を訪れた。

 本当ならば親類縁者でも何でもない方々に、これ以上世話になるのは流石に気が引けたのだが。彼として

も如何せん夜道を旅するにもいかず。とても申し訳無かったのだが、もう一晩頼んでみるしか無かった。何

しろ彼には他に当てもつても欠片も無い。

 そして蒼愁は控えめに館内へと踏み入れた。すでに夜の帳は下り、それでも街中は酒宴で騒がしかったの

だが、この館内はもう静かなものだった。この商館の夜は静かだ。

「あら、お帰りなさいませ」

 丁度店仕舞いに取り掛かっていた、御上の桐音(ドウイン)がそんな蒼愁を笑顔で迎えてくれた。彼女と

はそう顔を合わせる事も無かったのだが、どうやら顔を覚えてくれていたようだ。それは彼の纏う珍しい蒼

の衣の為もあるかも知れないが。

「凛鈴、蒼愁様がお帰りよ。ご案内なさい」

 そして蒼愁も面識のある従業員の凛鈴(リンレイ)を呼び、蒼愁には疲れを落としてごゆっくりして下さ

いと、再び朗らかに微笑んだ。凛鈴も何処か嬉しそうに蒼愁を奥へと案内する。

 どうやら蒼愁は彼女達に気に入られているようだ。おそらく蒼愁の生真面目さが主人の桐信(ドウシン)

に似ているので、そこに親近感のようなモノを持ったのだろう。どちらにしても、その辺は蒼愁には解らない。

「それでは、こちらでゆっくりと疲れを御流し下さいませ」

 凛鈴はまず蒼愁を湯船へと案内してくれた。彼女は背中を流して差し上げましょうかとも言ってくれたの

だが、それは流石にあたふたと辞した。背中を流すくらいは一般の宿でも気の利いた宿ならやっており、別

段特別な事でも無かったのだが。何分、蒼愁はそう言うのがとても苦手である。

 大体、洗ってもらっている間、一体どうしていれば良いのかが彼には見当も付かない。喜ばす話術がある

訳でも無し、開き直って堂々と出来る訳でも無し。それに女性に裸など気軽に見せるモノでも無い。

 そんな風に理由を自分で付けているが、まあようするに蒼愁にはそんな甲斐性が無いのだ。

「ふう・・・・はふう・・・」

 湯船に浸かると、不思議な程一日を終えたと言う実感が涌いて来る。

 そして本当に合格したぞと、そう言う喜びも改めて溢れてきて、蒼愁は一人湯船で笑っていた。しかしそ

の後、それならそれで準備が無数にあるぞと気付き、それに宮仕えなど出来るのだろうかと、一転して心細

い表情になった。そのくせまた暫くして、まあどうにかなると開き直り、再び笑みを浮かべる。

 不気味である。

 もし小心者の凛鈴がこれを見ていたら、また一騒動あったかも知れない。ともかく、めでたい事ではあった。

 この後、蒼愁は盛大に合格を祝ってもらい。腹がはちきれんばかりに大いに食べ、大いに飲んだ。珍しく

酒を飲んだので、あっと言う間に潰れてしまったのだったが。

 ともかく桐一家と共に楽しい一夜を過ごし、明朝丁重に礼を述べ、蒼愁は帰路へと付いたのだった。

 今回は言わば凱旋である。蒼愁の足取りも自然軽く、表情は明るい。

 そしてここから、この蒼愁と言う人間の名は徐々にちらほらと歴史の表舞台で見かける事になる。しかし

それは同時に、再びこの世に大きな戦乱が巻き起こる事も意味していた。 

 ただ、彼はまだ何も知らない。

 今はにこやかに実家への道を歩むのみである。蒼天は未だ静かに微笑む。


 

          

                              第一章 了




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