10-1.荒天に燃ゆる


 賦国の都、牙深(ガシン)。無二の英雄、壬牙(ジンガ)と趙深(チョウシン)の名を冠するこの都は、

今大きく動揺していた。

 次将軍、青海波(セイカイハ)の戦死、黒双(コクソウ)の陥落。そして上将軍、紅瀬蔚(コウライウ

ツ)の負傷。更に現賦王、賦正(フセイ)までもが北守王、漢嵩(カンスウ)に倒されたのである。

 これが動揺せずにいられるだろうか。

 しかも北守兵と凱兵が今も賦領土を侵そうと、ひしひしと狙っている。

 唯一この状況を打開出来るであろう大将軍、紫雲緋(シウンヒ)も現在遠征の徒にあり、国内には居な

い。帰還する目途すら立っていないようだ。

 玄国も衰えたとは言え、新王玄高(ゲンコウ)の下、ふつふつと反撃の機会を待っている。現在紫雲緋

の居る晴安(セイアン)近辺も平定しきれているとは言えず、各地の動向にも注意が必要だ。

 大将軍率いる兵団の傷も容易く治るものでは無く、流石の彼女でも今は無理を出来まい。

 賦国内には趙戒(チョウカイ)が居るが、彼は兵達の人望が希薄、更に勇名も無いに等しい。とてもの

事動揺する国内をまとめるような力は無かった。彼は実際才能溢れる青年ではあるが、将帥として人を動

かす才までは持っていなかったようである。

 このままではいずれ国民の嘆きが怒りへと変わった時、大きな暴動とその力が転化した時に、それを抑

える所か、統御する事すら出来ないだろう。

 そうなれば賦族は死地へと猛進するのみであり、例えそれでどれだけの戦果を得ようと、美化された死

までの高揚感を増す程度の力にしかならないだろう。復讐とは元々生産性とは無縁のモノでもある。

 本来ならば、後に残す者が居てこそ護る事に意義が出来。そうであるからこそ、護る戦いにおいての死

を尊いとして来たのだ。それはつまり命を繋ぐと言う、人が生きると言う事に対しての、一つの至上の意

味となる事柄にも繋がるからだ。

 そしてこれは人の持つ中でも最も尊いとされる、仁、の心にも通じると思われる。

 それが護る事もせず、ただただ己の渇望の為に、無我夢中に死を求める暴動などは、言って見れば意味

も意義も無い災害でしかない。

 自らを滅ぼすだけの戦い、誰も救われぬ道などに一体何があるのだろうか。

 生命を受け継ぎ育んで行くと言う大いなる意志、一個の生命体としての生きる目的。それを失ったとす

れば、最早死兵ですら無く、ただの死人ではないか。死人は決して何も生み出せない。

 人間が持つ全ての可能性を捨て、死に至る道を猛進するなど、あって良い事ではないだろう。それは人

としての自分すら否定する事では無いだろうか。

 しかしそのような雑多な思考の渦中にある趙戒に、今はもう何の策も道筋も見えない。

 どうしても答えが内から響いてこないのである。

「こんな馬鹿な事になるはずが無い! 賦族だぞ、大陸最強の兵団・・・それが何故このような事になる

のだ。これこそ、在って良い事では無いッ!!」

 そして嘆き叫ぶ声に応える者もいない。

 賦正から任せられた彼の私室において、終わり無き迷走を続ける彼に、今まで答える事が出来た賦正も、

今はこの世にいないのだ。

「こんな事態は、このような時は一体どうすれば良いのか」

 彼は今まで賦正に無数の策を授けたが、その種となるのは主に大軍師、趙深の残したと伝えられる軍讖

(グンシン)と言う兵法書であった。しかもその兵法書の全てでは無く、賦の趙家に残されていた、完本

の半分にも満たないと思われる試作本の写しである。

 元々軍讖とは趙深の長子が父の言葉と記録を思い出し綴ったと言われる物で、当然完成したのは彼が成

年して父を追った後であり、賦国に残されているはずが無く。そのただ一冊の完本は今となっては行方が

知れない。

 この賦国にあるのは、長子が出る前に母と賦族から聞いた話と、自らの記憶を残す為に書き残しておい

た物の写しでしか無かった。ようするに趙深以外の記憶に頼った真に不完全な物であったのだ。

 しかしその程度の物でも、広く大陸中に現存する軍讖の欠片達よりは遥かに有用な物である事には違い

ない。実際趙戒が役立てて来てもいる。

 趙戒も趙深のやり方を真似、現在の状況と照らし合わせて応用するくらいの才ならば、充分にあったと

言う事だ。

 だがどんなに上手く真似る事が出来たとしても、それで趙深になれる訳は無い。此処に来て、彼もその

限界を痛烈に知る事となったのである。

 結局全ては他人の力であり、自分の力では無かったのだと。

「ともかく私がやらなければ・・・。こんな事では先祖代々受けてきた恩義に応えるどころか、賦族自体

を滅ぼしてしまった男として名を残さねばならない。それだけは、それだけはしてなるものか! そうだ、

私は趙家の当主。趙深の神謀を継ぐ者、私に出来ないはずは無い。今一度、私の手で賦を立て直してみせ

よう」

 才と補償の無い可能性を誇り過ぎるきらいがあるが、彼も悪い男ではない。例え悪気の無い悪以上に性

質の悪い存在は無いとしても、誰が彼を責められるだろうか。趙戒は純粋に自らの責務を果たしたいと思

っただけなのだから。

 そして趙戒は少しでも信じられる者を集め始めた。数は少ないが、賦正と紫雲緋の努力もあり、趙戒を

補佐しようとしてくれる者も居たのである。

 今となれば、彼らだけが頼りであろう。 


 黒双を落した北守も、流石にそれ以上進軍する事は出来ない。

 賦正を討ち取れたのは大きいが、それで賦族が全て無力化する訳ではない。紫雲緋も居るし、彼女が率

いる数万と言う軍勢も居る。

 楽観するどころか、紫雲緋の居る晴安と距離があって助かったと言う気持の方が強い。

 国内にもいざとなれば駆けつける兵が無数に居るだろう。引退したとは言え、未だ若年の訓練兵とは言

え、それでも賦族となれば単純に侮る事が出来ない力となる。例え武具が無くても、鍬や鎌、或いは石で

も持って駆け付けよう。賦族とは猛き種族である。

 北守側の被害も大きく、流石は賦の王、散り際までも見事であり。そして国の為に出来うる限りの時間

を作り出す事にも成功していた。

 だが焦る事は無い。

 今賦に居るのは、賦正でも紫雲緋でも無い、何処の馬の骨とも知らぬ若造だと言うでは無いか。そのよ

うな者に、あの屈強なる賦族を治められるはずはない。

 差し当たって漢嵩がすべき事は、晴安と賦とを分断し、賦の内部崩壊を待つ事であった。

 そう、賦は放っておけばいずれは滅ぶ。いくら激しい抵抗があろうと、団結力の無い賦族などは羽の無

い矢も同じ。どれだけ威力があろうと、でたらめに飛んで行く矢などは脅威とはならない。

 すでに間諜より賦都牙深の混乱の大きさも伝わって来ている。

 そしてどうやら凱の方も戦果を上げたようだ。漢嵩には及ばぬまでも、凱は明節の言ったように確かに

動いたのである。

 だが凱については不穏な噂も聴こえて来ていた。

 漢嵩のような潔癖に近い武将から考えれば、正に想像外の噂であるが。例えどのような話であっても、

ありえない事では無いのが、あの凱と言う国である。これも充分に調べておくべき事柄であろう。

 別段北守と凱とは同盟を結んでいる訳では無いのだから、この国にも油断してはならない。

「まだまだこれからと言った所でしょうな」

 傍らに侍す参謀長、央斉(オウサイ)も溜息を吐く。

「うむ、しかしともかく玄の滅亡は防げたのだ。玄宗殿の死は悔やみきれるものでは無いが、それでも全

てが無駄では無かった。賦王を倒せたのも、玄宗殿のおかげであろうし。結果として玄は滅びを免れ、そ

れどころか最早賦こそが滅びの中にある」

「はい、玄宗様もさぞお喜びでありましょう。ですが今しばらくあの大将軍殿を引き受けてもらわねばな

りますまい。遺憾ながら、今の我が国には晴安を力押しに陥落出来る程の力はありませぬ」

 そこが痛い所なのだ。

 玄を結果的に助けられたは良いが、今の状態ではとてもの事、名将の誉れ高い賦の大将軍から晴安を取

り戻す事は出来ないだろうし。もし逆に彼女がその全力を持って襲いかかってくれば、それを跳ね除ける

自信も今の漢嵩には無かった。

 何しろ過去何度も渡り合い、それによって漢嵩の名声までをも高めた程の相手である。この黒双などで

は如何にも頼りない。しかも彼女の率いる兵団こそが賦の最も強大な軍勢、未だ傷が癒えないとは言え、

その力は堅固な要塞無しに防げるものでは無かった。

 だから晴安と賦を分断し、紫雲緋を孤立させる事は良策に違いないのだが。本音を言えば、単純に戦力

不足であり、それ以外に方法が無いのである。

 勿論、そこまで玄に肩入れする義務も無いのだが、漢嵩としてはどうしても捨て置く気持にはなれない。

特に王までもが討死したとなれば、不可思議な責任感が頭をもたげてくる。

「ともかくかの大将軍を孤立させ、軽々しく動けぬようにして押さえ込むしかあるまい。差し当たっては

兵を集め、防衛の強化を図らなければ。今は失意に沈んでいようが、いずれ賦王の仇を取るべくこの黒双

にも向って来よう」

「確かに。そう言う意味では賦王の死によって、良い機会を与えてしまったかも知れませぬ」

 国家の優劣は正に波が折り返すが如く、四季が巡り変わるかのように、止め処なく流れ、変化し続けて

いる。その行き着く先は漢嵩であろうか。それとも紫雲緋、或いは趙戒であろうか。

 未だその決する先は誰にも見えず、また予測する事も人には不可能であるだろう。




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