9-9.二天、賢しからず


 左中右の三軍を一の字に布陣させる賦軍に対し、二の字に布陣された前衛軍と中衛軍での二列横陣でこ

れを迎える北守軍。

「前衛軍、迎え撃て!」

 漢嵩は前方を良く見渡せるように、少し引いて中衛に位置し、叫ぶように指示を飛ばしている。伝令は

使わず、今は主に太鼓と大隊長への指令でまかなっているようだ。

 兵数は多いものの、これは言わば賦正と漢嵩と言う一個一軍の決戦である。他将軍へ一々指示をするよ

うな事をせずとも良く、そんな事をしていてはとても間に合うまい。戦況は刻一刻と変化し続け、それに

対応するには簡単迅速な指示が必要となるのだ。

 だからこそどの軍隊も、平素から太鼓一つで動かせるように訓練に訓練を重ねている。

 個人戦とは違い、集団戦では指揮官以外は自分の裁量だけで行動する事はほとんど無い。だからこそ余

計に訓練と言うものが重要になるのである。

 軍の強さは個人個人の能力だけに寄らず、統制の取れた運動だけが数の力を発揮出来る。

「出し惜しみする程楽はさせぬよ、漢将軍!」

 前衛一万が突進するのを見ても、恐れる所か物足りぬ余裕さえ見せる賦正。

「余計な考えは要らぬ! ただただ、前に駆けよ、駆け続けるのだ!!」

「オオオォオォォォオオオオオオッ!!!」

 その余裕を証明するかのように、賦全軍もその速度を上げた。

 そしてやや北守側が押されるような位置にて、両軍が激突す。剣戟の音が木霊する様に連続して響き、

人が吠え、そして馬が吠え、喰らい合うようにして絡まり合う。

 流石に同数では賦軍に勝てる兵などは、この大陸には居ない。北守兵は無残に斬り裂かれ、蹴落とされ

て行った。体格と強度からして違い過ぎるのだ。巨石に兎が立ち向かうようなもので、端から相手になる

ようなものでは無かった。

「中衛軍、左右から挟撃せよ!」

 漢嵩の命により、中衛が真っ二つに割れ、それぞれが左右から一斉に賦軍を挟撃する。

 漢嵩自身は前衛に紛れ込むように、中央の修羅場へと向かった。彼が自ら指揮せねば、前衛はこのまま

崩されてしまうかも知れなかったからだ。やはり賦族は強い。

「今更左右からだと、それが出し惜しみだと言うのだ。左右軍、迎撃せよ! 敵前衛などは中軍だけで充

分である!!」

 挟撃しようと迫る中衛軍に対し、賦の左右軍がそれぞれ迎撃に当たる。その運用は見事なもので、まる

であらかじめ予定されていたかのように、全員が滑らかに動いた。いや、初めからこの程度は予想されて

いたのかも知れない。 

 とすれば、漢嵩は正に掌の上で遊ばれているようなものであろう。

 賦の編成は左右軍が各三千、そして中軍に四千である。

 中央は漢嵩率いる一万に当たる訳で、今も多少の苦戦は免れまい。しかし左右は三千に対して五千ずつ、

これは或いは一挙に破られる可能性もある兵数差。冗談では無く、気合で一気に抜かれてしまうかも知れ

ない。そうなれば中衛軍は恐慌を来し、それ以降は機能しなくなるだろう。

「漢将軍、諦めよ! 天運は我らにこそある」

 これが北守側が初めから二万の軍勢で当たっていれば、また違った展開になったかも知れない。しかし

当初に一万の兵だけで当たったのが不味かった。

 賦の初撃は全力を込めた渾身の一撃である。それを受けるには一万程度では少な過ぎ、その程度ではす

ぐに気を呑まれてしまったのだ。

 それは漢嵩には解りすぎる程に解っていた。しかし彼の表情からは後悔の念を感じない。それどころか

これで当然とでも言わんばかりに、普段通りの平静な表情を保っていた。

 そして気合を放つ。

「ここが正念場よ! 皆、全霊を持って戦うのだ!!」

 しかしその声も虚しく、中衛は蹴散らされるかのように左右に圧し出され。前衛も突き破られるように

賦の中軍が圧し出し、漢嵩自身も必死に槍を振いながらも、その勢いに逆らえぬようであった。

 だが、やはり彼の表情は変わらない。槍を振う姿は必死であるが、その表情からはまるで危機感を感じ

ないのである。まるで彼自身が賦軍を引っ張るかの如く、自然に引いて行く。


「何かおかしい」

 そう賦正が気付いたのは、退き返せぬ程に敵陣に入り込んでしまった頃であった。

 中軍がまるで前衛軍に飲み込まれるかのように、ぐいぐいとめり込んで行く。

 北守兵も確かに必死に戦っている、戦っているのだが、何かそこに違和感が見え始めたのだ。その必死

さが別な必死さなのではないかと。

 妙に抵抗が無いのである。まるで水底のように、力を込めれば込めるほど圧し込まれて行くような。確

かに同じ大地は大地であるが、何かが違う。そんな不可思議な感覚が過るのだ。

 しかしそうと思っても、最早どうしようもない。放たれた勢いは容易に止める事は出来ず、また止まっ

てしまえば軍勢としては死んでしまうだろう。敵中に停止するなどは自殺に等しいのだ。

「やむを得ぬ、こうなれば進むのみ。皆、我に遅れるな!!」

 賦正は不安を振り解くかのように、更に強引に速度を上げ始めた。

 進むしか無いとなれば、鬼神もたじろぐ程の勢いで進む事だけが、或いは自らを救う道であるだろう。

どちらにしても悪化を辿るのみであれ、しかし何をしても同じだけ悪化が進むと言う事では無い。常に最

善の道と言うモノは存在し得る。

 だが自らの信じる道のみが、最善の栄光の道であるなどとは、決して限らないものだ。

「頃は良し。包囲陣を完成させよ!! 敵中軍、即ち賦正のみを狙うのだ!!」

 漢嵩の命に従い、いままで押しに圧され、中央突破されそうにVの字形に伸び切っていた前衛軍が、そ

の伸び切った中央を中心として見事に分かれ。まるで砂時計の砂のように、中軍がその切れ目から流れ出

てしまったのである。

 勢いに乗っている中軍はそれを止める事も出来ず、霧がいきなり晴れ、見慣れぬ景色が突如広がったか

のように困惑し、そのまま突進し続けるしか無かった。

 左右に分断した前衛軍はそのまま中軍の左右と後方に移動し。それを見計らったかのように、黒双前に

残されていた後衛軍が矢を射かけながら前進する。

 つまり賦正率いる中軍は、まんまと漢嵩に誘き出され、孤立したまま包囲されてしまったのだ。

「これが狙いであったか! このわしがこうも簡単に術中に嵌るとは! む、すでに左右軍も誘き出されて

しまっておるか・・・。これはいかぬ!」

 流石の賦正もこれには戦慄を禁じ得なかった。

 左右軍も中軍と同じく、中衛二軍に誘き出され、少しずつ中軍から引き離されていたのだ。賦軍が気付

いた時はすでに事が成ってしまった後であり、最早手の打ちようが無い。

 左右軍を戻そうとしても、今からではとても間に合わず。例え無理にそれをしたとしても、中衛軍に背

後から急襲されるだけだろう。

 賦正が三軍に分けるのを上手く利用した、見事な策であった。

 北守の犠牲も多いが、それでもまだ賦正を一万以上の兵力で囲んでいる。しかもその中の五千は温存さ

れていた、まだ疲労も無いに等しい兵達である。それに比べ、賦側は常に全力を出すしか無く、疲労が溜

まりに溜まっている。

 そこへ敵の策にむざむざ捉えられたと言う敗北感が加われば。これは如何に強靭な賦族と雖も堪るまい。

現に賦正から見ても、浮き足立つ兵の心が目に見えるかのようである。

 気力と勢いこそが賦族の身上だが。その勢いは断たれ、気力も萎えつつあるとなれば、その強さも幻と

消えてしまう。

 賦正の胸に、真の意味での敗北感が去来した。こうなってしまっては、もうここで死する以外には無い

のではないか。

 漢嵩も決死の覚悟で挑んでいるからには、平素の甘さも全て捨て去っているはず。最早付け入る隙も手

段も無く、賦正の命運は決したと言えよう。

「ここで終わるか・・・。すまぬ、紫雲緋よ、賦の民よ・・・。せめてわしの心配が杞憂に終われば良い

のだが・・。趙戒、お主の器量がわしの秤を越えておる事を祈る」

 賦正は溜息をつくように長い息を吐き、覚悟を決したかのように一心な目で敵軍を睨んだ。そして強く、

強く、叫ぶ。

「最早生を望むな! 死せよ、死せよ、漢将軍を共に冥府へと案内してくれようぞ!! 天運は賦族にあ

り、志は潰える事は無し!! 功名の立て時ぞ、皆奮え、奮えい!!!」

「ウゥォォォオオオォォォオオオオオオオオオッッ!!!」

 そして賦族は最後の抵抗を示したのだった。


 激戦の末、賦正は討ち死にし、彼と共に中軍全員が死を遂げた。左右軍の半数近くは撤退したようであ

ったが、そのほとんどが見るに耐えない深い傷を、全身に負っていたと言う。

 無論北守の被害も甚大で、前衛は半数以上が死に、中衛も死傷者は数え切れず、後衛も賦の最後の抵抗

をまともに受け、ほぼ壊滅してしまった。漢嵩も引いていたものの、その勢いからは逃れられず、腕や足

に無数の傷を負ってしまったようである。

 しかし賦正の死によって北守は歓喜の渦に包まれ。逆に王を失った賦族の衝撃は推し量るのさえ憚られ

る程で、国中が大混乱を来たしているようだ。

 治めるべき趙戒には人望も人徳も無く。未だ紫雲緋は賦の地に戻れず。そして残された唯一の将軍であ

る紅瀬蔚も今尚、病床から立ち上がれぬ有様である。

 賦の暗雲は増すばかりで、晴れる兆しすら見えないように思えた。

                                                第九章  了 




BACKEXITNEXT