9-8.一足刀に踏み入れよ


 黒双周辺には緊張が満ちて居る。

 賦軍は簡単に攻め入れる戦力では無く、北守軍にも決定的な戦力差がある訳では無い。

 青海波軍を破ってから賦正軍が来るまでに少しの時を得たものの、今漸く拠点支配に取りかかれた所で

あったのだ。

 黒双を降伏させた事で被害を抑えたが、かと言って彼らが漢嵩に従う訳が無い。賦の民達を全て逃がす

必要もあったし、当然代わりに文官達と北守の民を入れる必要もあった。

 現状はやっと賦の民を逃がし終えた所で、北守の支配地となっては居たものの、付近の村々までを掌握

してはおらず、青海波軍の残兵が辺りに潜伏している可能性も高い。

 望岱から兵と糧食を急いで輸送させているものの、未だ完全とは言えず。そして治めるべき民もほとん

どいない。

 現在の黒双を単純に防衛点とだけ考えても、お世辞にも頼りになるとは言えない。賦族は防衛を考えな

いのは周知の事実で、漢嵩も初めから期待はして無かったのだが、よもやこれ程とまでは思わなかった程

に、呆れる程に何もされて無かったのである。

 防壁も修復した跡すらほとんど無く、備蓄品も八割方持ち出されていたようであった。残されて居た物

と言えば、多少の非常食と矢、後は防寒用具の類のみであり。北守軍はその微弱な要塞に唖然としつつも、

賦族の強さをまざまざと思い知らされた感であった。

 賦族にとってみればこの都市も道の一つに過ぎず、驚くべき事には、この程度の装備でずっとここを護

り抜いて来たのである。今は賦領に侵攻などは考えられないだろうが、五国家として落ち着くまでは常に

激しい戦火に晒(さら)されていたはず。それを彼らは己の力のみで防ぎ、それどころか領土拡張までし

てしまっているのだ。

 漢嵩は身震いする思いでそれらの報を聞き、城壁と防壁などの改修を急がせたが、一、二週間そこらで

満足に出来上がるはずも無い。城の改修と修復には長い時間と、そして資材、人が必要である。

 そうこうあたふたしている時に、何と賦王自らの出陣である。北守軍に対する精神的衝撃の大きさは窺

(うかが)い知れると言うものだ。

 つまり、賦正の予想以上に漢嵩は圧迫感を感じていたのである。

 例え兵数が一万程度とは言え、賦兵が波に乗れば、倍近い兵力差すら打ち崩す程の力を持つ。しかも賦

王が率いるとなれば、果たしてそれはどれほど強いのか、どれほどの士気となっているのか。例え敵がど

れ程の力を持とうと、望岱に篭れば跳ね退ける自信はあるが、この黒双の防衛力では如何ともし難い。

 それを考えれば、漢嵩としても容易に動けないのである。

 現在の黒双に駐屯する兵数は二万五千程度だろうか。有利には違いないが、何とも言えない数である。

 それに賦王自ら率いる兵が、本当に一万程度のみであるとはどうも納得しきれない。何やら策でもある

のでは無いだろうか。それとも援軍か別働隊でも居るのでは無いだろうか。

 考えれば考えるほど不安が脳裏を駆け巡る。うかと攻め入れば、それを好機と打ちのめされるのでは無

いかと。

 今の賦にはその程度の兵力しかいないのだと、そう考えるのが妥当だとも思えるが。しかしそうも思え

ないのが賦の怖さなのである。策を嫌うそうだが、それでも策を用いるのは皆無と言う訳でも無い。いざ

となれば何をするか解らない怖さが賦族にはあるのだ。

 言わば、未知の怖さが。彼らは根本からして大陸人とは違う。

「一足刀の間合いと言うものがあるが。これは正にそれだな。央斉、お主はどう思う?」

 一足刀の間合い。つまりは後一足踏み入れればお互いに敵の殺傷範囲内に入ると言う、行くに行かれぬ

刹那(せつな)の間合いの事である。

「確かにそのようですな。賦の王も長年軍事からは退いておりますが、その力は高く、思慮深く、おそら

く漢将軍にすら匹敵する程の名将。彼の率いる軍勢はたかが一万と言えるモノではありますまい。そして

それのみが全兵力だと簡単に考えるのも、何やら危ういような気も致します」

「うむ、そこよ。そこが問題なのだ・・」

 漢嵩と央斉の二人は遠くに賦軍を望みながら、一緒に唸り込んでいた。

 どうにも不安材料が多過ぎるのだ。これは動くに動けまい。

「しかし将軍。ここで悪戯に悩んで居れば、それは敵に時を稼がせる事になりましょう。確かに不安材料

は多いでしょうが、待てば待つ程敵兵が力を付けるのもまた事実。そしてこれは考えれば千載一遇の好機

でありますぞ。ここはあの時と同じく、決断の時かと存じます」

「あの時・・、あの時か・・」

 漢嵩は以前、壬に降った時の事を思い出した。

「うむ、今こそ進む時であろう。座して待つにはまだ遠い。楽は出来ぬな」

「そう言う事でありましょうな」

 二人は苦笑いにも似た声を漏らし、そして即座に進軍の準備に取りかかったのだった。


 漢嵩は悩んだ末、この戦いに全兵力を投入する事としたようだ。

 都市前に壮大な陣形が見える。双方の距離は2,3キロにまで近付いているだろうか。賦軍一万に比べ

れば、これは圧倒的とも言える兵力差であり、見た目では優勢としか思えない。

 門前に後衛と予備兵として弓兵を五千程度、二万を前衛と中衛に分けている。前衛は騎馬隊、中衛は歩

兵隊だろうか。賦軍は騎馬一色であるから、武器はお互いに大半が槍を持っていた。

 士気も低くは無い。無論、賦族への怖れはあるだろうが。

「流石は漢嵩。敵ながら良い判断をする」

 賦正は敵ながら感嘆の意を示した。

 漢嵩が全兵力を投入したであろう事は、間諜からの報告から容易に想像出来る。如何に兵が多いからと

言え、いや兵が多いからこそこのような思いきった決断を下す事は難しい。

 このような場合は大抵守備兵を残すか、城塞に篭るものだ。後々の事を考え、保険として見てもこれは

妥当と言えるかも知れない。しかし今は違うのだ。敵王との決戦の時に、まごまごと躊躇している愚か者

が覇権など、王位など勝ち得るはずが無い。

 人生には大いなる決断を下す時があり、他の何事を犠牲にしても厭わない程の不退転の覚悟が必要な時

がある。それどころか、躊躇すれば全てを失ってしまう可能性すらある。気付かないくらいの些細な躊躇

と楽観、それが人生を大きく分ける事は意外に多い。

 そして紛れも無く、今がその時であった。

 それは賦正も同じ。であるからこそ、彼は自ら出陣する事を決断したのである。

 しかし惜しむらくかな、思うように時間を稼ぐ事が出来なかった。報告が遅かった事も痛い。

 漢嵩の動きがこうも速く、そして強靭となると、流石に彼としても勝機を掴めるかと不安になる。

 今ここで、もし漢嵩が一分悩めば一分の利があり、一時悩めば一時分の利が賦側にあった。そして逆に

賦の動きが速ければ速いほど、その一秒一分に、驚くほどの利が生まれたのである。これは悔んでも悔

みきれるものでは無いだろう。

 だから褒めた。最良の選択をした漢嵩を大いに認めたのである。

 誇るべき好敵手に会った時、賦族は好敵手への賞賛を惜しまない。

「せめて後五千も居れば、もう少し動きようもあるのだが・・・・。そしてこうも真っ向から迎え撃たれ

ては、最早進むしかあるまい。それに漢嵩も待ってはくれぬだろう」

 後ろに黒双があるとなれば、真っ向から貫き抜く訳にも行かない。都市前に常時数千の後詰を残してい

るはず。例え前面の本体を突き崩せたとしても、今度は前後から挟撃されてしまうに違いない。そうなれ

ば更に前衛が左右から止めとばかりに押し寄せるだろう。

 倍以上の兵に包囲されてしまえば、最早後は燃え尽きるのを待つしかない。

 しかも敵兵の後ろに黒双がある。それを護る意志と、後ろに防衛点あると言う不思議な安心感が、少な

からず兵の心を強くするだろう。

 平原での決戦は賦族の得意とする所であるが、それも縦横無尽に駆ける大地があっての事。それを縮め

られては流石に安穏とはしていられない。兵力の一点集中からの敵中突破が賦軍の最大の力であるが、こ

れは見合わせるしか無いようだ。

「黒双を捨て、単なる後陣の支えとするか。どうやら漢嵩は王位をとって、一皮剥けたようだ。青海波が

破れるのも納得出来ると言うもの。しかしこの賦正を、ただの老将と思ってもらっては困る。我が槍を見

よ!、我が馬速を見よ!、そして我に続く騎馬兵を見よ!! 碧嶺にして感嘆させたその力、今ここで見

るが良い。そして末代まで語り継げぃ!!」

 賦正は槍先をすらりと抜き放った。

 そしてしっかと槍を掲げ、全軍に命ずる。

「左中右の三軍に分かれ、中軍は我と共に進め! 高々と声を上げよ!! 最早一歩たりとも退く事は許

さぬ! 死せよ、死せよ! 全軍、突撃ッ!!」

「オォォオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」

 賦の誇る黄金の兵団が唸りを上げて草原を進む。

 若兵老兵新兵も無数に居るが、その全てが賦族である。気高くも神々しい軍勢は、正に天兵と見えた。

 それを見、北守軍も猛々しく動き出す。

 策も何も無い、力だけが左右する真っ向勝負の決戦である。果たして天運はどちらに傾くだろうか。




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