9-7.天浪に翔る


 賦国首都、牙深(ガシン)にも漸く各地の報が入って来ていた。

 どうやら内容が内容だけにとても信じられず、間諜達がより慎重になった為に、常よりも時間がかかっ

てしまったようだ。賦王、賦正(フセイ)もその内容を知って驚愕しつつ、伝達の遅延にも納得した程で

あるから、間諜達の混乱も察せられる。

 ありえない事に、玄へ向った紫雲緋率いる最精鋭の大軍が、大将軍、玄宗(ゲンソウ)率いる紅竜に迎

え撃たれ。なんと二万にも及ぶ損害を受け、紫雲緋も失意に溢れ、各隊の士気も落ち、疲労は極め、とて

もの事それ以上進軍出来る状態では無いと言う。

 現在、紫雲緋軍は晴安(セイアン)まで戻り、兵を再編成しつつ休養中との事であった。

 しかしこれは紫雲緋がどうこうでは無く、単純に玄の覚悟にこそ敬意を表すべきであろう。詳しい事を

知らなくても、おそらくは賦の誰もがそう考える。紫雲緋の信頼が揺らぐ事も無いだろう。何しろ、賦族

の彼女への信頼は絶対なのだから。

 そしてそれ程の被害を受ける抵抗となれば、暫しの休息は必要である。だからこちらに関してはまだ良

い。詳しい話は紫雲緋が帰るまで解らないが、玄宗も討ち取ったようであるし、順調とは言え無いが、必

ずしも失敗であるとは言えない。

 それよりも、信じられないのは後の二通の報であった。

 賦国北部を護って居た次将軍、青海波(セイカイハ)が、漢嵩(カンスウ)率いる北守軍に破れ。青海

波自身も討ち死にし、北部拠点、黒双(コクソウ)を北守に奪われた。

 南部拠点、栄覇(エイハ)に凱の軍勢が侵攻し、上将軍、紅瀬蔚がこれを打ち破るものの。凱首都、偉

世まで追撃した所で敵の火計にあい。一万人近い死傷者を出した上、紅瀬蔚自身も重体である。

 この二つの報には、流石の賦正も暫し絶句してしまった。

 彼の代になって、領土を侵攻された事が初めてなら、自国を護る将軍が一人も居ないと言う事もまた初

めてである。

 賦正は即座に紫雲緋に向けて、至急軍勢を帰す旨、伝令を派遣したが。こちらへ戻るまでにはまだ暫く

の時が必要だろう。兵も疲れきり、玄の切り取った領土も未だ不穏、無理は出来まい。

 だがこのまま放っておけば、更に北守の侵攻は広まり、凱に栄覇を落される危険性もある。

 趙戒の言を信じ、自らもそれを由と考えた玄への侵攻であったが。ここに至って、その全てが裏目に出

たようだ。

 勿論その原因と責が全て趙戒にあるなどとは思っていない。全ては計算外、予想外の事態が降り重なっ

ただけの事。おそらくこのような事になるなどは、例えあの趙深(チョウシン)の神の如き智謀を持って

しても、計り知れない事態であったに違いない。

 しかし賦正は軽挙した自分を恥じた。もう少し考えるべきであったと。

 だから全ての責任を負う覚悟も出来ている。王とは、最高位の認可者とは、元々そう言うモノだろう。

 全民の頂点に立ち、代表して全てを治める。しかしそれ故に、全ての責も負う事になる。王になりたい

などと簡単に言う者は、何も知らぬ思慮浅き者だけだ。

 本来は、これほど過酷な地位も他にはあるまい。

「悔いるのは後でいくらでも出来よう。一先ずは今を救わねばならぬ」

 現在彼が動かせる軍隊は、全て集めても二、三万と言った所だろうか。その中でも確実迅速に動かせる

のは二万程度。

 あまり良策とは思えなかったが。賦正はその二万の軍勢を一万ずつに分け、北と南にそれぞれ援軍を送

る事にした。

 そうなると南の栄覇には白晴厳が居るから良いとして、差し当たっての問題は指揮官が不在の北部方面

となる。あちらは青海波の気性を考え、彼一個に任せてあった。その青海波亡き今、当然その代わりとな

る人物が必要となる。それも早急に。

「となれば、最早わしが行くしかあるまい・・・。牙深は趙戒に任せよう。わしが不在となれば少々不安

であるが、この重要時に不満を漏らす者は居らぬ故、おそらく暫くは問題あるまい」

 少々賦正には不安が残ったのだが、だからと言って他に大軍を御し得る人材が居ない。将来の将軍候補

達も、ほとんどが紫雲緋と共に出、残るのは経験不足の者ばかり。どの道、彼には選択肢などは無かった

のである。

 防衛を考えない賦族の癖が、今尽く失策に繋がっている。

  

 賦正軍は迅速に出発した。

 老いたとは言え、例え兄である紫雲海(シウンカイ)には及ばないとは言え、彼もまた並の武将では無

い。王としての器量も威厳も、長い年月を得た事で一様に深くなっている。それは指揮官としての深さに

も繋がるだろう。

 身体は昔程に機敏に動かぬまでも、その経験と手綱捌きを持ってすれば、神速とは行かないでも疾風の

ように駆ける事は可能だ。万能とまでは言え無いが、経験こそが時に全てを補う術となる。

 賦正は数日をかけ、漢嵩の篭る黒双までやって来た。

 草原を駆けさせれば、賦族の上を行く者などいない。そして草原での騎馬戦をやれば、賦族以上に戦え

る者もいない。

 黒双は落とされたが、ここはすでに賦の土地である。漢嵩としても簡単に策などは立てる事が出来ない

だろう。ここは他国のように防衛などを考えてはいないのだ。拠点となる都市も、単に補給点か通過点に

過ぎず、改修すらしていない。

 ただ、攻撃のみを考え、大軍の運用に足る行軍路を確保して来ただけである。

 都市の防衛設備などは皆無に等しく。言わば、漢嵩は裸で篭って居るに等しいのだ。

「たかだか一万と言う者もおるだろう。しかし一万人の力は単純に侮れるモノでは無いぞ。漢嵩よ、老い

たりとは言えこの賦正、まだまだ容易くは敗れぬ」

 賦正率いる軍勢は確かに強い。紫雲緋とまでは行かなくとも、決して他の将軍に引けは取らないはずで

ある。国王自らが出陣するとなれば、その士気も高いに違いない。

 だがそれは同時に諸刃の刃でもあった。

 もしここで賦正までも破れ、最悪討ち取られてしまえばどうなるだろうか。

 趙戒ではとてもの事代役を務められないだろうし(能力的にでは無く、人望などにおいて)、紫雲緋も

国外に居る。そこに悲報の連続、更に賦正までもとなれば、最早国として保っておられず。民衆も抑えを

無くし、自暴自棄な行動に出てしまうかも知れない。

 大規模な賦族の復讐戦へと。

 それでも賦族の強靭さを考えれば、少しの間は快進撃を続けるだろう。怒りに燃える賦族達を止める事

は、困難以上に恐怖でしかない。

 しかし無謀な突進もいつかは止まる。人は無限に駆け続ける事などは出来ないのだ。

 補給も無く、作戦も無く、疲弊しきった所に、一斉に大陸人が襲いかかるに違いない。それも賦族以上

の怒りを持って。

 その後は容易く想像出来るだろう。良くて再び奴隷として生きるか、悪ければ惨たらしく殺されるか。

どちらにしても、もう二度と立ち上がれないように、賦族は昔以上に打ちのめされよう。

 賦正も王として長年生きて来た男である。このような事は容易に想像出来た。

 今まで危機感などは微塵も抱いた事は無かったが。今此処に至っては、それを考える以外には無かった

のである。

 つまり賦正は滅亡への危機を感じている。

「わしが負ければ全ては終る。せめて紫雲緋が戻るまで、それまでは隙を見せる訳には行かぬ」

 その結果、折角黒双まで迅速に来たにも関わらず、悪戯に時を過ごすしかなかった。

 敵も疲弊しているだろう今、一万の軍勢とは言え黒双を落とす可能性も無いではないが。しかしそれを

するには刺し違える覚悟で挑まねばならないだろう。しかもそれで尚、成功する可能性は低いのである。

 決して漢嵩とは容易く勝てる男では無い。

「口惜しいが、ここは野営をしながら時を待つしかあるまい・・」

 賦正は長期戦の覚悟を決め、野営の準備と、付近に潜伏しているだろう青海波軍残党の集まるのを待つ

事にしたのだった。勿論援軍の出せそうな所には、すでに伝令を送ってある。

 もう少し軍を増強出来れば、また違う絵を描く事も出来るかも知れない。

 今は賦正の軍勢と対峙して居る事で、漢嵩に威圧感を与える事以外に出来る事は無かった。 




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