9-6.狭き視界、映る物はただ過小なり


 白晴厳と賦軍残兵は辛くも凱の追撃から逃れ得た。

 もしあのまま後背から追撃を受ければ、全滅かそれに近い状態になっていたかも知れない。それ程に危

うく、また強大な賦国にとっては有り得ない窮地であったのだ。

 紅瀬蔚も命だけは失わずに済んだものの、依然重体が続いており、おそらくは一月二月で治る類の症状

ではあるまい。下手をすれば、生涯戦場には出られないかも知れず、そうなれば紅瀬蔚は死んだも同然で

ある。誰思わぬとも、少なくとも本人はそう思うに違いない。

 紅瀬蔚にとって、賦族にとって、満足に戦場にも出れないという事は、即ち死も同然なのである。ただ

生きているのみ。そのような状態に耐えられる者は、彼らの中には皆無であろう。

 白晴厳達は今、賦の南部拠点、栄覇に居る。

 だがこの都市は御世辞にも防衛に向いた場所とは言えず、賦族にとって防衛戦が不得手な事も先の大戦

での望岱(ボウダイ)を見れば一目瞭然であった。それを考えれば、今も窮地は続いて居ると考えられる

し、それ以前に、紅瀬蔚がこの様では戦をやるにも不安が残る。

 現在、副官である白晴厳に全権が移っているのだが。彼は賦族には珍しい参謀型の男であり、統率力や

戦略能力に優れるが、その分個人的な武勇や戦術能力は将軍達にはまったく及ばない。

 勿論賦族であるからには、他国の精鋭を或いは凌駕する程の力を持つとも言えるが。如何せん白晴厳は

自ら先頭に立って指揮する型の人物では無い。人には得手不得手と言うものがある。いくら有能であって

も、出来る事と出来ない事に差が開くのはその為である。

 碧嶺のような、万能の天才、はそうそう現れるものでは無いのだ。

 そして軍隊とは、紅瀬蔚のように優秀な指揮官が居て、初めてその力を最大限に発揮出来るモノである

以上。その紅瀬蔚が居ない今、白晴厳とこの栄覇だけでは、やはり心許無いと思える。

 だが幸いにも、凱が今日明日にでも攻めて来ると言う事は無い。

 凱の被害も膨大であり、更には凱禅は先日の悪鬼のような策を用いた事で、民と虎からの信を著しく失

った。あの火計の後始末も一日二日では片付くまい。

 それに凱禅からすれば、時が経てば経つ程自らへの民や将兵の不信感が増し、いずれは一揆や暴動が起

こるかも知れず。それを防ぐには今の内に多大な戦果を上げておく必要があった。汚い非情な男だと思わ

れようと、それを差し引いても有能と認識させれば、それでも今は自分達に必要な人物だと思わせられれ

ば、人は不満を持ちながらも付いてくるものだからだ。

 つまり凱禅にとって、この栄覇を陥落させる事は急務である。しかし戦争は簡単には起せない。そこに

悩み、焦るであろう。

 有利であると言えば、その点がある。

「今の内に対策を練り。早急に紅瀬上将を都に送り、良い医師に診てもらわなければなるまい。ともかく、

この拠点を落とさせる訳にはいかん。不満は出るだろうが、今はじっと防衛に徹さねば。そうしなければ、

これは未曾有の危機になるかも知れない・・・」

 兵の中にはすぐに反撃に出るべきだと主張する者も居たのだが、白晴厳はこの状況にかつて無い危機感

を覚え、軽挙する事を固く禁じたのであった。


 凱都、偉世も騒然としている。

 何しろあれだけの事をやったのだ、凱禅の正気を疑うのも無理は無い。如何に以前から信頼と徳からは

無縁の人物であったとは言え、ここまでやると誰が想像出来ただろうか。

 防衛の為とあのような大仕掛けを造った者も、まさか凱禅があのような非道に使うとは夢にも思わなか

ったに違いなく。もし想像出来ていれば、誰の命だろうと拒否しただろう。

 王命が絶対なのも、その王に王たる資格があればこそである。

 しかしそのような騒ぎにも目をくれず、凱禅は常と変わらず戦後処理に没頭していた。

 一つには、そのような評価などにかかわっている暇が無いのだろう。あれから必死に火勢を弱め、何と

か消し止める事が出来たものの、その作業だけで一昼夜以上もかかってしまっていたのである。

 それが済めば今度は論功行賞、次の戦準備と新しい将軍の任命。真に彼は忙しい。実務は官僚達が行う

としても、基本的に全ての命は王が下さなければならない。

 だがいよいよ城内にまで騒ぎは及び、如何に忙しいとは言え、彼としてもそのまま放って置く訳にはい

かなくなった。そこで軍部だけでも抑えるべく、軍の代表者を招く事にしたのだった。

 何しろ今軍に離れられてしまえば、凱禅の力は霧散してしまう。軍事力と言う力があればこそ、民も表

面上は大人しく従って居るのである。不満はあれど、王をどうこう出来るとまでは思ってはいまい。

 そして今、凱禅の前には一人の男が居る。確か大隊長の一人で、囮の大軍から外し、偉世に残しておい

た男だ。それだけになかなかの手腕を持っており、確か兵の人気も高い。

 他の将軍にもすでに王の手がかかっていると見、兵達はこの大隊長を寄越したのだろう。大隊長は常に

最前線などの現場に居るから、自然と王よりも兵達に親しみ深いのである。

「王よ、貴方はどれ程の事をしたのか解っておいででありますか」

 彼の口調は当然険しい。王であるから敬語にはなっているものの、語気は荒く、どこか侮蔑の意さえ漂

う。凱の民にしては珍しく、正義感も旺盛な男らしい。

 それを見て、ふとこの男を竜将軍にと浮かんだ考えを、すぐに凱禅は取り消した。こういう男は上司と

して最良かも知れないが、掌握して腹心の部下とするには危ういのである。無用の正義感は、あくまでも

無用なのだ。

「解っている。だからこうして私はこの部屋に篭って居るのだ」

 凱禅は上辺だけは沈痛そうにそう答えておいた。

 つまりは自ら謹慎しているのだと言いたいのだろう。事実彼は戦後からほとんどこの私室に居て、必要

以上に外出する事も、人を呼ぶ事も無かった。その態度から見れば、大人しく反省しているとも見えない

事は無い。

 しかしそれは単に建前であろう事は、誰にでも容易く解る事だ。

「その程度で良いのでありましょうか。ここはせめて王を辞すくらいはやるべきです。本来ならば、二度

と民の前には出れませんよ」

 当然大隊長も解っており、さらに苛烈に辞職と、暗に国外追放を仄めかした。

 凱禅はそれを聞いて静かに目を瞑る。

 そして暫しの時が流れた後、静かに目を開いた。

「それで責任が取れるとでも言いたいのか。私が止めれば何が変わると言うのだ。責任を取ると言うので

あれば、このまま王として善政を積むべきでは無いだろうか。私も自分の行いを恥じている。まさか我が

軍勢も紛れていようとは、そんな事は考えもつかなかったのだ! ・・・辞める事で責任を取れると言う

のなら、それで全てが許されるのであれば、喜んで私は王位を退こう。ただし、それでまったく責任が取

れないとなれば、・・・・その時は君もどうなるか解ろうな」

 場が瞬時にして凍り付き、今度は先ほどよりも長い沈黙が訪れる。

「・・・・・承知致しました。軍内にはそう伝え、後は私が収めましょう」

 考えた末、大隊長は渋々凱禅の言に屈した。

 凱禅の言う事にも考慮すべき所があり。それ以前に大隊長の組する、言わば反凱禅派には確固とした信

念も道筋も有らず、彼も単に収まりきれなくなった不平不満をぶつけに来たに過ぎなかったのである。

 それを考えても、逆に今すぐに退位されても困るし。例え退位させたとしても、今の力関係を考えれば

すぐにでも政治に復帰するに違いなかった。凱禅ならば、王を傀儡にするくらいは平気でやる。

 そうなれば、逆に凱禅が動きやすくなり、王としての責任からも逃れられる。勿論、多少不便に感じる

だろうが、結果として彼を利する事になるだろう。

 例え凱禅の内面を怖れ侮蔑に近い感情を抱いていたにしても、その力量は誰もが知っている。せめてそ

れに匹敵する力か人望のある人物が居なければ、完全に凱禅を退ける事は不可能だろう。そうしなければ、

誰を立てても結局は凱禅に利用されてしまう。

 そして今の凱には不幸にもそれほどの人物は居なかった。いや、凱禅がそのようにして来た、と言って

も良いかも知れない。

 そう言うような事は、当然、当の凱禅本人が一番良く知っているだろう。

「腹黒い卑劣漢めが!!」

 だから大隊長には心中でそう吐き捨てるくらいしか出来る事は無かった。

 無力とはあくまでも無力なのである。例えどれだけ集まろうと、烏合の衆は烏合の衆以上にはなれない。

皮肉にもそれが解る程度には、大隊長は有能なのである。

「失礼致しました。ご無礼をお許し下さい」

「構わぬ、君も憂国故の言だろう。貴重な助言として受け取っておく。勿論、非礼も許そう」

 大隊長は仕方なく引き下がった。

 これでは当然、大隊長も彼を担ぎ上げた兵達も満足する訳が無いだろうが。その非難は当面凱禅では無く、

この大隊長に行くだろう。

 例え依然として凱禅に不満を抱くとしても、それはそれで良かった。凱禅にしてみれば、不平不満など

はあっても良い。ただ、その不平分子に力を持たせない事が肝要なのである。いくら燻っていようと、燃

え上がらなければ問題は無い。

 だから彼にとってみれば、今回の大隊長との話も、その詰まらなそうな表情に反して、極めて収穫のあ

るものだったのだ。

 実は凱禅には、今までのように徳と名声では無く、恐怖と法で完全に民を縛りたいと言う考えがある。

 名誉よりもむしろ利益に聡い凱の民や兵は、それくらいで無ければとてもの事御する事などは出来ない。

そしてその特性があればこそ、初めてそれが可能であるとも言える。

 つまりは正にそれこそが凱の理想図なのだ。凱禅は心からそう思う。そしてそれ以上に、凱王足る者は、

自分以外には無いのだと思っていた。

 これからの戦乱と混沌を生き抜き、凱が、凱禅がこの大陸に覇を称えるには、何よりも自国民を掌握す

る事が大事であるだろう。しかし凱禅にはそれを可能にする徳と言うものが一切無い。

 彼を弁護してやるとすれば、不幸にもそう言う狂気を宿し、そしてそれを育てるだけの人生であった事

だろうか。無論、自業自得ではあるが、凱禅には恐怖で民を屈服させる以外には無かったのだ。

 最も、歴史上に恐怖政治などが長く続いた例は無く。上手くいった例も無い。そして独裁者は常に悲惨

な最期を遂げている。

 凱禅は自らの能力を高めるべく、歴史も大いに学んでいて、当然そう言う事も知っているはずだったが。

しかし彼は独裁者にありがちな自信過剰な男で、その点は自分ならば大丈夫だと思っているようだ。

 過去の独裁者には単に能力が無かっただけなのだと、そう理解している。

 しかしその過去の独裁者達も、皆彼と同じように、自分ならば出来ると考えていた事までは気付かない

ようである。単純に書物を読むだけでは、決して身に付かないモノも、この世には多く存在すると言う事

だろう。

 自分を本当に省みれる人物は少ない。




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