9-5.冥府魔道図絵


 正に地獄絵図であった。

 ほぼ全面に碁盤の目のように張り巡らされた落とし穴群、しかも周到に中には竹やりや木杭などが仕込

まれている。落ちれば即命を失い、人馬共に味方に押し潰され跡形も無い。

 それだけならまだ衰える所か、怒りによって士気は天を突く程に高まったかも知れない。何せ落とし穴

が埋まる程の兵数があるのだから、賦族であれば味方の死骸を乗り越えても進軍したであろう。

 しかし恐るべき事に、落とし穴や付近一帯には油樽も埋め込まれており。それへ賦軍が落とし穴に嵌(は

ま)った直後から、偉世の防壁上に居る弓兵達が一斉に火矢を放ったのである。

 忽ちの内に辺りは炎の海と化し、更にその炎が導火線のように張り巡らされた油線を伝って、次々と仕

掛けられた油樽に引火する。巧妙に配置されていたのだろう。途切れる事無く炎は猛狂い、まるで炎の津

波のように賦軍を包んだ。

 その波が満ちる度、数え切れない程の人馬が燃え尽きる。

 おそらく普段は木材を橋のようにして隠して居たに違いない。それを是招(ゼショウ)が出軍するとす

ぐに取り払い、導火線のように油を撒いたのだろう。そうでなければ、とても短時間の内に出来る仕掛け

では無かった。

 奥の手として、前々から気の遠くなるような時間を使って、少しずつ造り。そして怠る事無く管理し続

けていたに違いない。正に凱禅に相応しい執拗な策である。

 そしてそれは同時に、是招軍は出撃した時点で生贄とされる事が決まっていた事を意味する。現に燃え

盛る炎の中には青竜を表す、青い鎧や旗も見えた。炎に敵味方の区別があるはずも無く、それを求めるの

は愚かとしか言えない。

 造った凱の工兵や協力した住民達の側ですら、よもや敵味方共々焼き尽くす事になるとは、思っても見

なかったに違いない。

 賦軍ならば、こんな罠を仕掛けてくるなどとは、尚更想像も出来まい。警戒せず、敗兵を猛然と追うが

まま、この油地帯に突っ込んだのだから、その被害の大きさは言うまでも無かった。

 指揮官である紅瀬蔚や白晴厳が愚かとも言えまい。

 誰が味方共々一切を焼き尽くそうなどと思うだろうか。それに草原地帯であるからには、この炎は簡単

には消えまい。雨でも降らない限り、延々と燃え盛り続ける。

 そんな怖ろしい魔物のような策が、一体誰に想像出来ようか。誰が使うなどと予想出来るだろうか。

 凱禅からすれば、甘い、その一言ですませるかも知れない。しかしこれは正に悪鬼羅刹でも忌避するよ

うな所業であろう。

 狂ったとしか思えない。同じ大陸人から見ても、例え賦族相手であれ、このような事をする者は狂人と

しか考えまい。狂人の策を見抜ける者など、同じ狂人以外に存在しないだろう。

「かかれ!!」

 凱禅はすかさず下知を飛ばし、炎に恐れを為す兵達を無理矢理行軍させ始めた。

 その顔は愉悦に滾っており、火に魅入られた者しか浮かび様も無い、あの独特の表情を浮かべている。

 初めは渋っていた兵も、その愉悦を見ていると次第にその表情が伝染したのか。その内彼らの中からも

炎に酔ったように、次々と炎の海に飛び込み始める者が出てきた。

 勿論あまり近付くと自らも巻き込まれてしまうから、彼らは矢を射たり、懸命に炎から逃れ出た者に止

めを刺したりと、その程度の事しか出来なかったが。それでも賦兵の恐怖を増大させるには充分だった。

 如何に賦族とは言え、狂人などとまともに戦が出来る訳が無い。

 それも凱兵達は敵味方問わず攻撃しているのである。

 策は成功したのだから、命がある者は当然助けてやれば良いものを。何を考えているのか、敵味方区別

せずに攻撃しているのだ。皆炎に魅入られてしまったとしか思えない。それは正に異常な光景であった。

「兵共まで狂っているのか・・」

 紅瀬蔚は火傷を負った体を庇う様にして、絶望的に呟く。 

 彼は落とし穴にかかったものの、馬を捨てる事で何とか生き延び。そのまま必死に逃げ、何とか炎から

逃れる事が出来たのだった。運が良かったとしか言い様が無い。彼の勘の鋭さがたまたま彼を、油に火が

点けられる前に、逸早く撤退させたのだ。

 それでも炎から完全に逃れる事は出来ず、深い火傷の痛みで歩く事すら儘なら無い。無様で恥だとは思

ったが、今となっては這いずって逃げる事しか出来なかった。

 迫り来る炎の前に、一体誰がどれだけの事が出来るだろうか。他の兵にも撤退するように叫んだものの、

兵達はすでに恐慌に支配されていたし、それで無くとも全速の騎馬兵が急に止まれるはずは無いのだ。

 そして紅瀬蔚の見る前で、数え切れない程の兵達が炎に包まれて逝く。

「人がこのような事をするはずが無い・・。凱禅は人を捨てたか・・・、いや初めから人では無かったの

かも知れぬ・・・」

 絶望に漏らした言葉も、ただただ虚しく虚空に溶け入るのみである。


 賦軍の受難はこれで終わりでは無かった。

 油も燃え尽き、火勢が一段落した所で、呆然と立ち竦んでいる罠に巻き込まれずに済んだ賦兵に対して、

伏兵が左右から突然襲いかかったのである。

 いかに屈強の賦族とは言え、これ程の光景を目にし、そこへ左右から挟撃されてはたまらない。

 幸いこの火勢が邪魔になって、凱禅の本隊も易々とは進軍出来ないが。剣槍が届かなくても弓矢は届く。

防壁上から凱禅軍から無数の矢と火矢が飛んで来ていた。

 心が折れた賦族達はさほどの抵抗も出来ず、次々に討ち取られて逝く。

 紅瀬蔚も必死に叫んだが、彼自身が瀕死の状態なのである、そんな指揮官では統率力もあったものでは

無い。我を取り戻し善戦する将兵も居たが、最早撤退するしか無かった。

「くッ、退け・・。退くのだ・・・」

 痛む体を引き摺りながら紅瀬蔚は懸命に動き回り、とにかく撤退の命を叫び続けた。だが撃音の響く戦

場では、彼の弱った喉ではとてもの事声を届かせる事は出来ない。

 彼の体は自身が思っているよりも遥かに深刻であり、その後の症状を考えれば、おそらく槍を持ち上げ

る事すら出来なかったと思われる。意識を保っているのがやっとだったろう。

「これほど無様な戦があろうか・・・」

 紅瀬蔚は身を切裂くような痛みの中で、ただただ自らを恥じた。

 敵の言わば挑発に乗り、例え悪辣としてもまんまと策に嵌って、大軍を敗走させたのだ。この責任は彼

一個の命程度で贖(あがな)えるモノではあるまい。

 せめて生きてる者を逃がすまでは、死んでも死にきれるものでは無かった。

 しかし彼の意志に反して、身体はほとんど動かない。夢中で炎から逃げた時は感じなかった痛みが、今

になって思い出したように彼の体を蝕んでいる。

「紅瀬上将を御守りするのだ!!」

 止せば良いのに、そんな死に損いの自分を救おうと、賦兵達は必至に戦う。もし紅瀬蔚が居なければ、

すでに彼らは逃げ去っていただろう。ここで撤退する事は必ずしも恥では無い。

 しかしここで大将を見捨て、自らの命の為にのみ逃げるなどは、紛れも無い恥辱である。しかも悪い事

に、彼らも生き残る為に馬を捨てて居た者が大半で、僅かに馬に乗る者も無事の兵も、左右から現れた伏

兵に阻まれ、単身紅瀬蔚を助ける事が出来なかったのである。

 それに紅瀬蔚の居る所は炎に近い。そこに馬で乗りあわせれば、馬の方が火に怯えて恐慌を来たしてし

まう恐れもあった。更に騎馬兵は目立つ、城側の弓兵からは良い的になってしまうだろう。

 それでも賦兵達は紅瀬蔚を助けようと、無理に無理を重ね、当然のようにばたばたと死んで逝く。

 紅瀬蔚はどれ程、自分を放って逃げよ!、そう言いたかったか。しかし今の彼のか細い声では、兵達の

耳にはとても届かないのである。

 炎も火勢は衰えて来ているが、それでも乾いた草々を餌に徐々に広がっていた。

 このままでは近い内に紅瀬蔚は炎に呑み込まれてしまうだろう。

「紅瀬上将!!」

 だが天は彼らを見放さなかった。大聖真君と地海黄竜王の加護だろうか、漸(ようや)く白晴厳率いる

兵団が編成を終え、追い付いたのである。

「皆、上将は任せよ!、各々撤退するのだ!!、これ以上上将を辱めるつもりか!!!」

 白晴厳の常無い怒号に将兵達は我を取り戻し、大隊長以下の指揮で漸く元の組織的な行動に移り始めた。

そうなれば凱兵との能力差は格段に違う、敗勢を跳ね返すには至らないものの、何とか退路を作る事は出

来た。

 白晴厳は足の速い小勢と共に出来た道を駆け抜け、紅瀬蔚を攫(さら)うように馬に乗せ、後は運を天

に任せて只管(ひたすら)に逃げた。無数の矢が彼を襲い、その身体を掠めたものの、何とか致命傷を受

ける事からは逃れ得たようだ。正に天の加護としか言い様が無い。

 他の将兵もそれで安心したのか、それからは賦族らしい見事な撤退を見せた。切り替えが早いのも、彼

らの強みの一つであろう。 

 しかし途方も無い被害を出した事には違いない。この戦いで賦族は一万人近い死傷者を出し、凱禅の率

いた軍勢(見捨てられた虎と是招軍は除くと言う事)の死傷者は千に満たなかった事でも、それが解ると

思われる。




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