9-4.謀者の虜


 賦軍は偉世に迫った。

 最早目と鼻の先と言っても良く、防壁に作られた見張り塔からも騎馬兵の起こす土煙が濛々(もうもう)

と沸き上っているのが見える。

 予備兵を除いても尚一万五千に近い大軍である。まるで眼前が霧で覆われたように思える程、凄まじい

煙幕となっていた。

 それに偉世へと逃げ落ちてくる敗兵も勿論居る。それを合わせれば或いは三万に届くかも知れない。ど

ちらにしても凄まじい光景である。

 しかし凱禅はその知らせを受けても、眉一本動かす事は無かった。その胆力も尋常では無いが、それ以

上に彼は表情を偽る事には長けている。もっと言えば、自分の心を統御する術に長けていたのだ。

 おそらくそれだけならば、古来から現在までの第一級の将軍達と比べても、彼は劣る事はないだろう。

そしてそれが策謀家にとっても最も必要な資質であるに違いない。

 策を練る為には冷静に全てを広く高い視点から見据えねばならぬ。例えて言うならば、地上からの人の

目では無く、天からの神の如き目を持って観察せねばならないのだ。

そしてそれが出来る者が、古来から歴史に名を馳せた軍師、参謀と成ってきたのだろう。

 何よりも策謀家とは、その冷たい程に合理的な目を持たなければならない。冷徹な程にあるがままに観

測せねば、他人の動向と思考などは解るものでは無いからだ。

 そう言う点を見ても、凱禅は比類なき策謀家になる素質があったのだろう。最も、彼はそれに私心を入

れる傾向、つまり我が強すぎるようにも思えたのだが。現在の所、その点はさほど障害にはなってはいな

いようだ。

 だがいずれその我が冷静さを上回る事になれば、一体どういった事態を引き起こすのか、それは誰にも

解らない。凱禅に弱みがあるとすれば、正にそこに尽きるだろう。

「フン、猪突猛進で済んだのは、碧嶺の時代までよ」

 今凱禅は城の最上階に造られた展望の間より、遠く賦の軍勢を見下ろしていた。

 彼は軍勢を率いるとしても、賦族や漢嵩のように先駆けをするような事はしない。勿論いつまでも城内

に篭って居る訳も無いが、それでも後方指揮をするに止めている。これは昔からそうだった。

 それが一つには今一つ彼が虎に人気が無かった所以かも知れないが、彼からすればそんな自殺に等しい

阿呆な事はとてもの事出来ようはずも無い。

 兵の士気などは勢いに乗ればどうとでもなる事であるし、先頭に立つだの後ろに居るだのと、そのよう

な些事によって揺らぐような物であれば、初めから期待し無い方が良いに決まっている。

 それよりも事前に必ず勝つ為の算段を立てて置く方が、遥かに確実であろう。

 つまりそれが罠であり、戦略術数である。

「先人は偉大なモノを我等に残してくれた。戦場での心得?古臭い礼式?・・・そのような児戯では断じ

て無い。先人から我らが受け賜ったのは偉大なる知恵と知識である。偉大なる大軍師趙深様か、それほど

までに有り難い恩人であるならば、その彼の得意とした策によって滅ぶが良い。気様らが碧嶺の兵法を受

け継いだと言うのなら、私は趙深の深謀をこそ受け継いだのだ。つまりはそれが天下を取る術である。所

詮碧嶺とは、趙深が居たおかげで天下を取れた程度の男に過ぎぬ!」

 凱禅が碧嶺を嫌うのは、むしろ趙深の謀略こそが天下統一を成したのだと、策謀こそが天下を取れるの

だとそう言いたいからかも知れない。

 そして何よりもそう思う事が彼にとって、非常に心地良いのである。

 それから考えても、ここで賦族は彼の前に無様に屈しなければならない。大陸最高の力も、ただ叡智の

前に滅びなければならないのだ。

「よし、そろそろ頃合だろう。準備は整っているだろうな」

 凱禅は近くに侍っていた伝令兵に、まるで詰問でもするかのように尋ねる。その鋭さと冷たさこそが威

厳だと、将器だとでも思っているようである。

「はい、いつでも行えます・・・。しかし、本当によろしいのですか。このままでは撤退する我が軍勢も

巻き込まれてしまいますが・・・」

 伝令兵の顔に深い恐怖の色が浮かんでいる。それは目の前の凱禅への恐怖と言うよりも、後ろめたい気

持から来る後世への不名誉を思う方の恐怖なのだろう。名誉を重んじるこの大陸の民であれば、それこそ

が最も怖ろしい事に違いなかった。

 現世での恐怖ならば現世だけで済む。しかしこれが例え死んでも千年一万年先までも永遠に蔑まれると

なれば、これ以上の屈辱と罰はあるまい。

 歴史に汚名を残せば、魂になってさえも罪を償い続けねばならないのだ。それも終わらない償いを。

「構わん。圧倒的な兵数を持って、それですらあのように無様に負けた者など、今ここで死なせてやった

方が幸せなのだ。それに今門を開けるとなれば、雪崩打って賦族共がやってくる。私とて辛い、辛いがこ

れも国の為だ」

「詮無き事を申しました。ご無礼どうかお許し下さい」

 勿論伝令兵も凱禅がそのような殊勝な事を思っているなどと思った訳では無い。伝令に選ばれ、多少見

込まれているにしても。所詮は一介の兵卒に過ぎない以上、王命に逆らう事は出来ないからであった。

 そしてそれ以上に賦兵が迫り来る今、門を開けたく無いのは彼も同じだったのである。

 凱禅は苦悩する伝令兵を、変わらぬ無感動な視線で見送り、そして出陣の支度を始めた。後は彼が号令

するだけで、いつでも軍勢を動かせる。

 その時が賦が崩れ去る時であろう。  


 紅瀬蔚は本気で偉世を落とすつもりである。

 冗談半分で動く者は賦族にはおらず、良くも悪くも率直な民族なのである。そして勿論、出来無い事は

初めから口にしない。

 彼には充分に勝つ見込みがあった。何しろ三万五千もの大軍を打ち破ったのである。自軍の士気は否応

無しに高まっており、逆に敵兵は士気廃れ、兵数も多く残ってはいまい。

 それを考えれば、正に時は今、と言う様相であったのだ。

 白晴厳から遣わされた伝令兵も必至に紅瀬蔚を追っていたのだが、未だに遥か追い付けない。初めから

彼に追い付くなどと言う方が無理な話だったのである。伝令兵は絶望した。

 最も、この調子では例え伝令が届いたとしても、紅瀬蔚の判断は変わらなかっただろう。だが、その心

に警戒心を持たせる事は可能だったに違いない。

 紅瀬蔚は気を引き締められる機会を、他ならぬ己の馬の達者さによって失ってしまったのだ。

「ちと隊列が乱れておるか・・・」

 しかしそうとは言え、紅瀬蔚も猛って戦況を見失う程愚かでは無い。陣形は乱れ、ともすれば兵達の目

が血走しりがちな事にも当然気が付いていた。

 例え優勢であれ、いや優勢であるからこそ逸るのは危険である。逸れば逸る程思わぬ罠に陥りやすく。

そして気分が猛っていただけに、一度に劣勢に引き摺り落とされた時の衝撃も大きい。

 その衝撃は一瞬にして大混乱を引き起こし、下手をすればそのまま敗走してしまう事になりかねない。

 先程の凱軍が良い例だろう。彼らは賦の倍近い兵を持っていながら、いや持っていたからこそああも簡

単に崩れ去った。

 単純に凱が是招が愚かだとは言えない。人の心とはそう言うものであるからだ。そう言うものである以

上、どうしようもない事もある。この世に冷たい炎、熱い氷など無いように。それもまた自然法則の一つ

であるのだろう。

 それは屈強の賦族と雖も変わらない。彼らも正しく人間なのである。それが人間の限界と言うものかど

うかは解らないが、それに近いモノであるに違いは無い。

「しかし今更どうにもなるまい。こうとなれば猛りに猛るのみである」

 紅瀬蔚は覚悟を決めて速度を更に速めた。

 ここまで大きく流れてしまえば、今更止める事は物理的に不可能である。例え剛勇誇る紅瀬蔚でも、壬

との戦いで転がり来る巨石を止められなかったように、人間であるからには出来ない事も多い。

 今彼に出来る最善の事と言えば、更に速度を上げ、その先駆けの将としての吸引力で、兵達の士気を更

に引き上げる事だけだった。

 その事が逆に裏目に出よう等とは彼は思いもしない。例え何があっても、凱の軍勢程度がこれ以上正面

きって賦軍を迎え撃つ等とは、到底思えなかったからである。賦軍が野戦で無類の強さを発揮する事は周

知の事実であり、凱の中にその賦軍に正面から立ち向える程に度胸のある者など居るはずも無かった。

 ようするに侮ってしまったのであろう。それに実際剣を交えた後であり、彼にしても気が立っていたの

である。味方を囮にして、しかも見殺しにして罠をかけるなどと、そんな事は紅瀬蔚には想像も出来ない

事も、大きくそこに起因するかも知れない。

 現にそれを目にした時、彼はただ一言。

「本当に狂ったのか!!」

 それだけを叫び、信じられぬ思いに紅瀬蔚程の男が暫し何も出来ず、呆然と立ち尽くしてしまったと言

うのだから。その心中がどうだったかなどとは、語るまでも無い事だろう。

 

「敵兵予定の位置に差し掛かりました」

 伝令兵が凱禅に告げる。

「そうか、では実行せよ」

「はッ!」

 凱禅からはすでに賦の軍勢は見えない。何故ならば、今彼は賦を見据えて居た城より出で、軍勢を指揮

する為に地上に馬越しに立っていたからである。

 彼の眼前には長大とすら思える防壁と門があり、それが彼らを護る代わりに視野を閉ざしていた。

 最も今更外を見る必要も無かった。ただ静かに策がなるのを待てば良い。それは長い時間では無いだろ

う。後数瞬で解る事だ、飽きる暇も無い。

「!!!!!!!!!!!」

 突如声にならぬ大音が分厚い防壁越しに凱禅まで聴こえて来た。あまりにも多数の声が交じり合ってい

る為に、音としか認知出来ないのである。

「門を開け、火矢を射よ!!」

 凱禅の命が飛び、門が音を立てて開かれる。

 そして間髪入れず、兵達は用意していた火矢を遥か敵影へと放った。必ずしも矢を当てる必要は無い。

ただ混乱を助長出来れば良いのだ。こけおどしだが、今ならそれだけでも充分に効果があるはず。

「出来れば敵将がかかってくれれば良いが、そこまでは望むまい。・・・全軍、出陣せよ!!」

「オオオォォオオオォオオオオオオーーー!!!」

 凱兵達は各々喉が張り裂けんばかりに大声を発し、遮二無二突進し始めた。

「策はなった!後は功名を立てるのみぞ、存分に奮え!!」

 その光景を後背から眺め、凱禅は満面に嘲笑を湛えている。

 彼の見た光景こそ、彼の持論である猛勇が策の前に無残に敗れ去る事の証明だったからだ。もし今彼が

居る場所が私室か、そこまで行かないでも兵達の前で無ければ、おそらく肩を震わせて高らかに笑ってい

たに違いない。

 例えその中に是招に率いられていた軍勢と虎が居たとしても、彼は心から喝采を放っただろう。

 善悪を他所に、策の成否だけで言えば、それ程見事に成功したのである。   




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