9-3.不覚の鉄槌


 紅瀬蔚(コウライウツ)は猛追している。

 凱兵は壊乱し、追えば追うだけ損害を与えられた。刻一刻と死傷者は増し、すでに数千と言う膨大な数

に上っている。だがそれでも賦軍はその足を止めようとはしない。

 それどころかこのまま津波のように凱都偉世(イセイ)まで押し寄せ、一気に落とさんとする勢いであ

った。実際その場に居れば、それも当然のように見えただろう。それ程に戦況は賦側へと大きく傾き、史

上にも稀な大勝とまで言える光景であったのだ。

 青竜を率いる是招には最早戦意の欠片も無く。日頃あれだけ拘っていた巨馬も捨て、すでに速度の出る

馬を配下から奪って乗り換えていた。その表情は感情を全て曝け出し、冷静さが微塵も無く、ただただ逃

げ続けているのみである。

 彼の頭にはとうに大軍の指揮官、将軍と言う言葉は無かったであろう。目の前を共に逃げる兵達をどや

しつけ、時間稼ぎの為にわざと蹴り落とし。まるで亡者がくもの糸に群がるかの如く、一心不乱に逃げて

いた。方角も道もあまり関係なく、生れ落ちてこれほど集中した事があったかと思える程に、逃亡に専念

していたのだ。

「痴れ者は逃げ姿まで無様なものだ」

 それを見、紅瀬蔚は益々怒りの炎を膨れ上がらせる。

 彼の常識で言えば、総大将は確かに総指揮として軍勢の頭として、戦時中は自分の命をこそ最も尊ばね

ばならない。何故なら、総大将が討ち取られたとなれば、軍は即座に壊乱するか、そこまで行かなくとも

深く動揺するに違いないからだ。

 そんな事になれば戦に勝てる道理も無く、当然のように負けてしまうだろう。

 しかしである。最早勝敗が決したとなれば、その存在は単純に敗軍の将以上でしかない。国王ともなれ

ばまた別だが。そうとなれば軍勢を敗北させた責任を取り、自らが殿(しんがり)に立つのが当たり前で

あって。それを自らが先に立って逃げ、配下の兵達を見殺しにするどころか、無理矢理盾にするとはどう

言う事であろうか。

 武人、軍人にとってこれ程恥ずべき行為も無いだろう。

「最早怒りすら生温い!奴の首を必ず獲るのだ!!是招めの首を我が眼前にそえよ!!」

 紅瀬蔚は自慢の駿馬をけしかけ、更に速度を上げさせた。

 戦場や普段の鍛錬で鍛えに鍛え抜かれた馬である。その速度はその辺の軍馬などは軽々と凌駕する。賦

族ですら追い付ける者が稀な程の速度で、紅瀬蔚は自然陣形から(最も追激戦である為、陣形らしい陣形

はすでに無いと言っても過言では無かったが)突出する形となった。

「ちと出過ぎですな・・・。誰か、紅瀬上将に自重されるよう告げよ。わしでは将軍に追い付けぬ」

 それを見、副官の白晴厳(ハクセイゲン)は慌てて手近に居た伝令兵を向わせた。伝令には馬の達者が

選ばれている。彼らならば、何とか追い付けるかも知れない。

 だが彼の追う紅瀬蔚こそ、馬の達者中の達者である。ふと白晴厳は考えを変え、集められるだけの兵を

集め始めた。例え何事が起きたとしても、事前に対処準備さえ整えておけば、それほど間違った事にはな

るまいと思ったのである。

 紅瀬蔚に追い付くのが困難である以上、そして例え追い付けたとしても伝令の静止を振り切る可能性も

ある以上、今は最悪の事態を想定しておく方が遥かに賢明であると思えた。

 そして今出来る事と言えば、軍勢を編成し直しておく事だろう。ようするに獣のように追撃している将

兵の心を、我にかえさせるのである。難局に打ち勝つには平常心しか無い。

「確かに勝った。これ程に鮮やかな勝利もそうは無いだろう。しかしあの凱の策謀家も、自らの兵だけに

青竜が頼むに足りぬ事は重々承知しているはず。虎の信頼も計算には入れておるまい・・・。それでここ

まで何事も無いとは、如何にも不審極まりない。何事も無ければ良いのだが」

 白晴厳も副官として、長年紅瀬蔚の軍師を勤めてきた。その彼なればこそ、この大勝が尚の事不審に思

えるのである。悪名は高けれど、凱禅の策謀家、戦略家としての能力は決して低くは無い。それどころか

賦族の純粋さが愚かに見える程、彼は頭が回るに違いない。

 その凱禅が、単純にこれだけで終わらせるだろうか。

 勿論見誤ってこの好機に逆上せ上がり、平常心を失っていたとも充分に考えられた。大体が凱から攻め

て来る事からして、狂ったとしか思えないのである。

 だがそう単純に楽観出来る相手では無いと、白晴厳は常々考えていただけに思うのである。

 それに紅瀬蔚も少々頭に血が上りすぎているようにも思えたのだ。

 人はそう言う時にこそ、足元を見事に掬われるものだと。

 不安は消える事が無かった。



 凱都偉世にもすでに是招軍が破れ、賦軍が勢いに乗じて攻め寄せて来ている事が伝わっていた。

 城内は騒がしくなり、皆が不安に慄いている。まだ二万近い兵が残っているのだが、是招には三万五千

もの大軍を任せていたのだ。それが呆気なく破れた今、二万の軍勢も砂上の楼閣にしか思えない。

 しかしそんな中にあって、王である凱禅(ガイゼン)だけは尚も平然としている。そして淡々と軍勢を

整え始めたのだった。

 どうやら彼自らが軍勢を率いるようだ。彼も王となる器の人物である。軍事能力もそれだけのモノがあ

り、その点は誰も心配していない。それどころか是招などよりはよほどその将才を買われていた。

 その政治能力と謀略の才から、彼の軍事能力は目立た無いのだが。意外にも彼は参謀出身では無く、元

は将軍だったのである。しかもその能力は虎からも恐れられる程で、昔から虎との繋がりも強く、それ故

に簡単に虎を集める事も出来たと言う訳だ。

 凱禅からすれば、参謀などよりも将軍の方が遥かに勲功と名声を稼ぎ易く、王へ最も近道だと思ったの

であろう。そして正規軍の青竜を犠牲にするよりも、雇われ兵である虎を犠牲にする方が遥かに良いに決

まっている。

 だからこそ将軍になる以前から虎と接触し、気前良く報酬を払ってきたのだ。それだけに、繋がりは双

方共に打算的なモノであり、今回はあっさりと前線から逃げ出された訳だが、それも彼は気にしてはいな

い。予想通りであり、自然に当然の結果になったのみなのである。

 是招の軍事能力も、虎の信頼も、端から彼は頼りになどしていなかった。

 流石にここまで脆いとは思わなかったが、それでも取り乱す程では無い。どちらにしても必勝の策に揺

らぎは無いのである。

 つまりは三万五千の軍勢すら、単なる囮に過ぎなかったと言う訳だ。万が一勝てれば文句は無し、負け

ても当然でそれもまた良し。どちらにしても凱禅の望むがままに、それが今の凱のやり方である。

 すでに都市の周りには罠が仕掛けられ、てぐすね引いて待っていたのである。そして是招に渡した兵も、

言って見れば雑軍であって、精鋭達はほぼ全てを偉世に残してある。

 例え是招の軍勢がどれだけ死のうと、是招自身が仮に討ち取られたとしても、彼としては痛くも痒くも

無い。役立たずが死んだだけの事であり、かえって自分で始末する手間が省けたと言うものだ。どの道盾

にするくらいしか使え無い連中である。

 凱禅は数の力と言うものを信じておらず、それよりも個人の能力をこそ尊ぶ。如何に大軍が居ようと、

烏合の衆では足手まといになるだけであるし。それ以前にいくら兵数がいても、指揮する大将に能力が無

ければまったく力にならない。

 すぐに混乱する軍勢などは、かえって害になるだけであろう。

 皮肉にも、あの賦国こそがそれを明確に代言しているのだ。

 四国家、五国家を相手にしても身動ぎもしなかったあの強大さ。それこそがつまり真実であり、現実で

あるのだろう。即ち、量よりも質であると。

 賦は数だけで言えば倍以上の軍勢を前に、まったく身動ぎもしなかったのである。それどころか、次々

と撃ち破り領土を広げてきた。これ以上の実証もそうはあるまい。

 だから勿論凱禅も、青竜の精鋭でさえ賦兵から見れば赤子同然である事は解っていた。それ故、最後の

最後まで出陣するつもりは無い。そして敵を全滅させるつもりも無かった。ただ一人、そう敵将一人を

倒せば良いのである。

 それだけならば凱禅にも勝機が充分に出てくる。賦の将軍は最前線に居るのが常だからだ。

 後は敵将が退けぬ状況を作り出せば、あちらから死にに来てくれる。華々しく最後を飾るという、或い

は責任を取って一番に死ぬという、そんな凱禅からすれば馬鹿馬鹿しい美意識の為に。

「そして待っていれば、玄と漢嵩の働き次第で賦も一度に滅ぶだろう。紅瀬蔚とか言ったか、あの敵将は。

あやつも解るまい、今どれだけ賦と言う国が窮地にあるかを。それを賦族であるが故に解るまい。あれだ

けの力を誇りながら、まったく愚かしいものだ」

 凱禅は賦族に対して憐憫の情を持つ程優しくは無かったが、それでもやはりあの力は惜しいと思う。

 彼にあれだけの軍事力があれば、いやその半分でもあれば、この大陸の覇権を握る自信があるというも

のを・・・。

「それを我が国が誇る青竜は、囮程度にしかなれぬのだ。愚かといえばこれ程愚かしい事があろうか。愚

者に力は要らぬ。私のような知恵者にこそそれは相応しい。何故に神は我をこの地に遣わせたのか。神は

私を怖れたに違いない。碧嶺は自らを越える私を怖れたのだ!!」

 賦にあるのは大陸制覇などと言う望みでは無く、愚直に大陸人に対する憎しみだけで兵を仕掛けている。

それどころか、戦自体を楽しむ風すらあると言う。

 凱禅から見れば、これほど愚かな事は無かった。

 もし自分にその力が与えられるならば、例え賦族に生まれても構わなかったと言うのに。

「だが諦めぬぞ。我が智謀の前に、神さえ平伏させて見せよう」

 彼は碧嶺が妬ましい。彼がもしその時代に生まれていれば、碧嶺以上の英雄になれた自信もある。

 しかしそれも夢想に過ぎず。今となっては大陸最強の賦族の力を得る事は決して叶わぬのだ。

 賦族は愚かだからこそ、裏切らせる事も出来無い。それに彼らも大陸人と同じく、同族外の敵に対して

は驚く程結束が強い。仮に投降しろなどと言おうものなら、その使者の首だけ帰って来るのが落ちだろう。

 それがまた凱禅を苛立たせる。彼のような合理的思考から考えれば、忠誠だの800年も前に受けた恩

義など、そのような化石のようなモノを後生大事にしている賦族が、腹立たしく理解出来なくて仕方ない

のである。

「碧嶺などと言う、何処の馬の骨だか解らぬ男の威光に、いつまで奴らは縋っているのだ!!」

 手に入れられぬ以上は、最早二度と立ち上がれぬよう、粉微塵に叩き潰してくれる。

 凱禅の眼光は半ば狂気に彩られているようだった。  




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