9-2.軽挙妄動恐れるに如かず


 凱の軍勢は順調に進んでいる。士気も低くは無い。

 何しろ憎みに憎んでいるあの賦に一泡吹かせられる機会が来たのだ。これで士気が高まらなければ、永

遠に高まる時はあるまい。

 賦への恐怖心はあるが、それを有り余る程の憎しみで覆っている彼らは、一目で猛っているのが解る。

しかしよくよく見れば、その気概が荒く、どうも威風堂々と言うよりは居丈高と言った風に感じる事が出

来るだろう。

 いくら覆い隠したとしても、そんなモノは一度その下の恐怖心を刺激されれば、瞬時に剥がされてしま

うに違いない。恨みや憎しみも時には強い力に転化する事もある。しかしそれもそのような負の心に負け

ぬ、心の強さがあってこその事であろう。

 彼らのような打算的な人間に、そのような一筋も曲がる事の無い強さなどは、とてもの事求めようも無

かった。

 だからこそ武人は心をこそ鍛え、平常心を常に揺るがす事が無いように、自らを鍛え上げるものだ。し

かし単なる職業軍人と成り下がった彼らに、そのような心根を求めるのも所詮は無理であるだろう。

 だがその職業軍人の最たる者である以上、凱軍を率いる是招(ゼショウ)にはそう言う戦場での心構え、

心得は解らなかったに違いない。もし解っていたなら、もっと真剣に軍事訓練に取り組み、この青竜達の

心まで芯から鍛え直していただろう。

 そうであれば、凱と言う国はもっと違う国家となっていたかも知れない。

 今更そのような事を言っても、詮無き事であろうが。

「よし、そろそろ斥候を出しておけ」

 彼の向う栄覇(エイハ)へは目と鼻の先と言っても良い距離である。それを今更偵察隊を出すなどと、

彼の心の弛みと油断が垣間見えるようだ。

 そしていざ急襲するかと思えばそれもせず、遅くも早くも無い依然とした無難な速度で進む。

 最もすでに賦側には察知されているから、例え今急襲したとしても、さほどの効果も得られなかっただ

ろう。ただ、それでも勢いを付ければ意気も上がるし、戦と言うモノはそう言う勢いも尊ばなければなら

ない。それをただゆるゆるとやっていては、折角の張り詰めた気も損なわれると言うものだ。

 だがそう言う不手際もある程度は仕方の無い部分もある。

 何しろ凱も賦が現れてからと言うもの、防衛のみに努め、自ら攻めると言う事を極端に避けて来た。そ

して是招もこういう人物であるから、小規模な防衛戦で自ら兵を率いると言う事はせず、直接指揮を部下

と主に虎長達に任せていた部分も大きいのである。

 それ故是招は事務仕事であればもっと活躍出来たかも知れないが、攻め戦では素人同然と言って良い。

 確かに無能では無く、中隊長、大隊長等の時は当然前線で戦った経験があったものの。それももう昔の

話となってしまった。彼は多分に運良く竜将軍にまで上り詰めた、そう言う珍しい男なのである。

 十把一からげの軍人達の中から、凱禅にその忠誠心(多分に勘違いながら)を見込まれたに過ぎない。

「我が軍を見た賦族共の恐怖に怯える顔が目に浮かぶようだわい。我らが大軍を阻む河川も奴らが自分で

埋め立てたのだ、これ以上の皮肉も無いわ!」

 是招は馬上にて高らかに笑った。

 彼は戦は軍勢のみで勝てると思っているようである。今までどれだけ賦軍に苦しめられ、敗北を味わわ

されたのか忘れた訳では無いだろうに。

 現に不安要素もすでに目に見えて出来つつある。彼の今までの言動を見て、虎達の間に動揺が走ってい

たのだ。

 虎のように戦に戦を重ねた歴戦の兵から見れば、この怠惰な行軍が如何に愚かか、そして是招が如何に

不手際かが嫌になるほど解るのである。それ故、彼らの間にはこのような将に付けば、むざむざ殺されて

しまうのでは無いかと、そのような不安が当然出て来ている。

 いくら多額の報酬を約束されているとは言え、金も名声も冥土までは持って行けない。

 更に彼らには凱に尽くす義理も無かった。

 今まで凱と言う国が、虎達に対して多少なりとも敬意を払っていれば、このような事にはならなかった

だろう。だが今まで凱と言う国は当然のように虎を前面に出し、危険な仕事を選んで担当させて来た。

 虎達も金の為、そして防衛拠点と言う盾があればこそ不満を押し殺し、何とか我慢してやって来たのだ。

 しかしこれが野戦で戦うとなれば、盾となる物も無く。恐ろしい程の死者が出、しかもそれはほとんど

虎から出るに決まっていた。それに野戦こそが賦族の最も得意とする所。こんな戦いを本気でやろうなど

と考える方がどうかしている。

 虎達の中にはすでに是招を見離している者も出、密かに逃げる機会を窺っている者も少なくは無いよ

うだ。それに気付かぬのは、ただ気楽に考えている青竜のみである。



 

 凱軍内の虎の不穏な動きも紅瀬蔚は正確に掴んでいた。勿論軍勢の位置も、凱軍に関する事はほぼ全て

彼は理解している。そこでここは一つ奇襲をかけてやる事にしたのだった。

 本来ならば正面きって進軍する事こそが誇りであり、それでこそ賦族と言えるのだが、今は満足感より

も被害の最小な手を選ぶ事にしている。

 敵将の無能さ加減にも気付いているものの、だからと言って侮る訳にはいかない。青竜は賦から見れば

脆弱とまで言える程度の力量だが、それに付属している虎が怖い。彼らは歴戦の猛者も多く、純粋な戦闘

者である分、戦闘の駆け引きにも秀でている。

 彼らまでを侮ってしまえば、賦族であれ手痛い一撃を加えられてしまうだろう。

 だがだからと言って、紅瀬蔚自身が姑息な手段に身を任せたなどと言われては、甚だ心外である。実際

彼は五千の軍勢を率い、正面から堂々と凱軍へと打ちかかっているのだから。

 いかに戦術を使うと言っても、危険な役を他者に与えず、自ら買って出るのが賦族の風なのだ。

「敵は小勢である。敵将もろとも討ち取ってしまえ!!」

 予想通り是招は賦族は愚かとばかりに、全軍を正面に向わせ始めた。包囲する事も、他方を気にする事

も無く。単に全軍を前進させたのである。

 虎達は賦族ならばもし正面決戦をするにしても、今使える全兵力で出てくるはずだとそう不審に思いな

がらも、小勢であれば功名の立て時とばかりに、是招に何を言うでも無く彼の下知に従った。虎もその職

業柄、眼前にある利には弱い。

「ふ、こうも容易くかかってくれるとは。あの策謀好きの部下にしては、如何にも頼りない事よ」

 紅瀬蔚は浅く笑った。いや、侮蔑したと言って良いかも知れない。心底その浅はかさに呆れ、怒りすら

覚えたのだ。

 予測通りとは言え、これほど的中すれば逆にその不甲斐無さに腹が立つとは、それはおかしな事に思え

るかも知れないが。本来策などを嫌う賦族としてみれば、それは自然な感情であり。上手く使えば使える

程、そんな自分にも腹が立つのであった。

 だが賦族としても戦術を使う事は、必ずしも侮蔑される行為では無い。その術が巧みであれば、そして

同胞を犠牲にするような腹黒い策でなければ、むしろ感嘆されるのである。

 この点紅瀬蔚はよほど生粋の武人であるらしい。彼は本当は集団戦などと余計な被害や手間をかける手

段を使わずに、出来れば自らと好敵手とだけで、一騎討ちをして決着を付けたいのであろう。以前壬の楓

仁(フウジン)と闘った時のように。

 国の思惑や感情などの面倒な物を全て捨て、純粋に闘う事だけを追求したいのだ。どうせ殺し合うので

あれば、自らが自らの理想の為に命をかける。その方が自然では無いかと。国や権力者の為に国民を犠牲

にするのは本来おかしい事なのだと。

 しかし彼も一介の軍人である以上、そんな理想も夢想に過ぎまい。現実に目の前の戦を見、そして勝利

を得ねばならないのだ。

「敵兵をこちらへ引き付けるのだ!!」

 賦軍と凱軍はそのまま真正面からぶつかり、平原に激しく戟音を響かせ始めた。流石の賦軍も、七倍の

兵力差となれば返し難い。しかし凱軍の足を止めるだけなら、それで充分である。

「頃は良し、厳に報せよ。狼煙を上げ、横腹を突かせるのだ」

 紅瀬蔚の指示に従い、伝令兵は即座に合図を送り、用意して置いた狼煙を上げさせた。

 からっと晴れた青空に、一筋の白煙が良く映える。

「む、何だあの煙は・・・」

 それを見て是招が呟いたその時であった。  

「是竜将、敵の増援です。我が軍の左方から突如賦の軍勢が!!」

「何だと、そんな馬鹿な事があるはずがない!」

 だが左方には確かに敵影が見える。騎馬兵の土埃が乾いた風に舞い上がり、凱の軍勢には動揺も手伝っ

て、よほどの大軍に見えた。

「馬鹿な!まさかもう玄から引き返して来たのか・・」

 常識的に考えれば、玄に進軍した大軍が今こんな所に居る訳はないのだが。今の是招にはそう考える以

外に辻褄を合わせる事が出来なかったのだ。混乱してしまっている。

「大変です!虎共が一斉に撤退を始めました!!」

「何だと、あの恩知らず共が!!!退け、退けい!!」

 是招の苦難は混乱程度では終わらなかった。

 最早敗勢濃厚であると見た虎達が、ここが潮時と一斉に青竜を見捨て、一目散に逃げ始めたのである。

誰もが是招を見限り、ひいては凱の前途に見切りを付けたのであろう。

 戦場での撤退などをすれば凱禅から手酷い報復を受けるに違いないが、このまま凱を見捨てるとあれば、

それも気にする必要は無い。それに単なる雇われ者であるからには、自ら認めた相手でも無い一時の雇い

主に、そこまでの忠誠を見せる義理も無かった。

 こうして凱軍は大混乱を来たし、賦軍に散々に打ち破られ、大きな被害を出しつつ凱都の方へと、その

まま無秩序に敗走を始めたのだった。勿論賦側に大した被害は無い。もう損害は無かったと言っても良い

くらいである。

 紅瀬蔚の読み通り、一度震わせてやれば脆いモノで、あれだけの大軍があっと言う間に崩れ去った。結

束の弱さがこれほど見事に出た戦も古今そうはあるまい。

「つまらぬ戦よ・・・・。追撃戦に移る、功名の立て時ぞ、奮え奮えい!!」

 そして紅瀬蔚は侮蔑に顔を不快そうに歪め、容赦無く追撃戦に移ったのだった。凱は早々に滅ぼすべき

国であり、何の遠慮もいらない。




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