9-1.遅速流動


 凱が動く。

 それはようやく凱王、凱禅(ガイゼン)が思考から行動へとその重い腰を上げたと言う事である。

 北守宰相、明節(ミョウセツ)に伝えられたように、この動きは本当であった。凱としてもこの好機を

逃す事は百計に劣ると考えたようである。つまりこの機会を逃せば、例え以後百計を費やしたとしても、

それを取り戻す事は出来ないだろうと言う事だ。

 凱の正規兵青竜の総数は三、四万程度だろうか。それほど多くは無いが、これに虎を合わせれば、充分

な兵力を得る事が出来る。農耕よりもむしろ商業に重点を置いて来たきらいもあり、資金面は他の国家よ

りも安定感があり、その純益も大きい。

 しかしその反面、軍部よりも主に政部に力を入れて来た為、さほど正規兵団青竜は強くはない。更に将

軍にも大陸に名のある人物もいないが、その代わり忠実に任務を遂行するように鍛えられて来た。その為、

青竜は他国から王の私兵とまで言われる事もある。

 北守兵の侵攻を聞くや否や、凱禅は青竜二万に虎一万五千と言う大軍を擁し、賦国への侵攻を命じた。

 それを率いるのは竜将軍、是招(ゼショウ)。王に最も忠実な軍人であるが、別段凱禅に心服している

訳では無い。単に彼が王だから従っているのみである。その事からも解るように、上下関係力関係に鋭く、

そして自他共に対してその関係を守らせる事厳しい。

 特に武門を志して軍人になった訳でも無く、単純にそれしか能が無かったからなっただけであり。特に

軍と言う物に何か情熱がある訳でも無いようだ。

 正に凱の代表的な高級官僚と言った所か。

 彼を見れば、凱禅以下の官僚達がどういった風であるかが解るであろう。一応この国も実力主義を謳っ

ているが、単純にそのような純粋な思想を望んでいる訳では無く。多分に便利だから、使えるからそうし

ているだけであって、その思想にも怠惰な印象が少なくはない。

 だがその筆頭である是招も、そして凱の民にも、一つだけ他国に勝るモノがある。それは賦への憎しみ

である。そして現在の賦の領土は、ほとんどが自分達の物であると、そう思ってもいたのである。

 それは強(あなが)ち間違いでは無く、実際に凱が一番賦に領土を奪われて来たのだ。

 だから是招も常に無い気迫が篭った表情で、軍列を組む数多の将兵達を見下ろしている。彼は高き所を

好み、人を見下す事に安心感を覚える方であり。騎乗馬もその能力如何よりも、如何に大きいか、雄々し

く見えるかで選ぶ。

 その為、是招の乗馬は常に他の馬よりも大きく、自然、是招は常に人よりも高い目線で居た。心理的や

能力的にでは無く、実際に高い目線で居たのだ。

 そして手にした重々しい槍を掲げ。

「今こそ、今こそ長年の雪辱を雪(そそ)ぐ時である。賦の賊徒に、我らが正義の大槍を喰らわせてやる

のだ! そして我らの生まれし地を、祖先が我らに残した地を、今こそ取り戻すのだ! 全軍、出撃!!」

 大声を発し、馬を進めさせて行く。無用な巨体の為にその馬速は御世辞にも速いとは言え無いが、それ

でも人が走るよりは良い。

 長い馬脚を暴れさせるようにゆったりと歩み出し、徐々にその速度を増してゆく。

 巨体だけにどうにも加速力だけは劣ってしまうが、率いられる将兵達は是招より前に出ないように巧み

に馬を扱っていた。是招よりも先に立とうなどとすれば、後で手痛い罰を与えられるからである。だから

そんな無用な手綱捌きだけが青竜達は上手くなっている。

 是招はそう言う事にはとにかく煩い男だ。

 その性格から将兵や虎に好かれている訳では無いが、充分に恐れられてはいる。凱国は青竜を見ても解

るように、流石に双程では無いが、上下関係には厳しい国柄である。他国程に兵は自由に恵まれていない

のだ。そして王もそれを望んでいる。

 是招が軍律を乱したと個人の裁量で処罰しても、多少の事は許されるだろう。そしてそれくらいでなけ

れば、戦場での忠誠心を(例え上辺だけだとしても)繋ぎ止めておく事は出来まい。

 彼らが目指すは賦国南部の戦略拠点、栄覇(エイハ)。その仰々しい名からも解る通り、元々は凱が建

設した小都市である。

 凱が主人だった頃は、河川と水堀に囲まれ、まるで湖に浮かぶ船のような景観をしていた。跳ね橋を上

げれば、容易くは攻め落せない堅固な城塞である。

 しかし現在は賦に攻め落された時のまま、即ち水掘や邪魔な河川は全て埋め立てられ、半分裸のように

なったままであった。賦は防衛などは考えないから、修復して使おうなどとは思わなかったようだ。

 それも自らのやり方を全否定されたようで、凱としては口惜しい限りだが。しかし攻める側になれば好

都合である。

「兵力の四散した賦など恐るるに足らず。これでわしの名もよほど高くなると言うものだ」

 是招は自らの勝利を疑わず、すでに勝利した後の論功行賞の事を考えていた。

 軍速は速くは無いが、遅くも無い。凱らしい無難な速度である。



 賦国南部を現在護っているのは、上将軍、紅瀬蔚(コウライウツ)である。

 次将軍、青海波(セイカイハ)が討ち死にした今、賦国内に居る唯一の将軍であり(ここまでまだ北部

からの報は入っていないから、彼自身はその事を知らないが)、そう言う意味でも建国以来の危機である

と言えた。

 紅瀬蔚は栄覇に篭りながら、他ならぬ強弩の研究に全力を注いでいる。虎の子の強弩兵達は紫雲緋(シ

ウンヒ)が玄侵攻に連れて言った為に、兵の訓練は出来無いのだが。それで時間を遊ばせておくようでは

賦族とは言えない。

 彼の創作能力は、その武人然とした体躯からは想像も出来ないが、賦族内でも群を抜いており。手先も

生れ付きよほど器用に出来ている。もし平和な時代に生まれていれば、研究者として、或いは芸術家とし

て名を馳せていたかも知れない。

 攻城塔などの攻城兵器も皆彼の着想によるものであったし、前から理想としてあった強弩を具体的に形

にしたのも彼であった。

 勿論軍人としても優秀で、紫雲緋のいない黄竜を上手く統率して来た。

 その声望と能力共に、紫雲緋に次ぐ存在と言って良い。しかしその彼ですら、未だ紫雲緋には遠く及ば

ない(少なくとも彼自身はそう思っている)。だから紫雲緋と比べれば、知名度と言うか勇名においては、

その能力差以上に甚だ劣ってはいた。

 それは彼が地味と言うよりは、紫雲緋が華々しすぎる為だが、その事も別に苦にしてはいない。

 紅瀬蔚はそう言う賦族らしい真面目な男であった。

 彼はその性格からも解るように、諜報や索敵を疎かにする事は無い。むしろそんな地道な作業も好み、

そして地味に隠れる重要さも充分に知っていた。青海波のように一々気を焦らせる事も無い。

 そんな男であるから、当然是招率いる凱軍の侵攻もとうに耳に入っていた。彼は即座に迎撃の判断を下

し、軍の編成に取りかかっている。賦族にはまず篭城と言う考えは無い。

「皆、急げよ!賦の黄竜に恥じぬ働きをするのだ!!」

 大喝するような大声で叫んではいるが、その声音に歪みは無かった。至って平静そのものの声に、浮き

足立ちつつあった将兵達も落ち着きを取り戻す。彼らが紅瀬蔚に寄せる信頼は篤い。

 現在動員できる総数は二万には届かない。かき集めてもせいぜい一万八千と言った所か。ほとんどの兵

は紫雲緋が持ち去ってしまった為だ。

「この機会を突くとは、凱の悪謀家のやりそうな事よ。同じ大陸人でもこうも違うものか、壬ならばこの

ような盗人のような真似はすまい」

 紅瀬蔚は馬上に座り、静かに目を閉じた。

 以前戦い好敵手と認めた、壬の竜将軍、楓仁(フウジン)を思いだしてでもいるのだろうか。あれから

楓仁と真っ向から対決する機会は無かったが、一騎討ちでの奮えが来る程の喜びは、今も澄み通る程に鮮

明に思いだせる。紅瀬蔚に勝てるのは、おそらくこの男以外には紫雲緋くらいのものだろう。

 そしてあの自ら死地へ赴く潔さ。正に武人と呼ぶに相応しい。黒き修羅の名に恥じぬ男だ。

 紅瀬蔚は楓仁が黄竜におらぬ事を心から悔い、また心から感謝した。敵者でなければ、ああも命がけで

戦う事は出来なかったからだ。

 それに引換え、凱と言うのはどうしたものか。

 同じ大陸人にすら信用されず、大した力も無い。あるのは余計な夢想と不快な策謀だけ。

「このような国に価値は無い。我が槍の下に朽ち捨てて進ぜよう。二倍の兵力差程度で、我らが賦の黄竜

と真っ向から戦えると思うその浅墓さ。死命と共に死処までも持って行くが良い」

 編成は整った。後は出発するだけである。

「厳よ、お主も来るか」

「はい、このまま残っても、ここでやる事はありますまい」

「うむ、お主が居れば心強い。今回は容赦せぬ、凱などは早々に打ち砕くべきなのだ」

 副官である白晴厳(ハクセイゲン)も隣に並んだ。兵も出せる者は全て出す。即ち総力戦であった。

 紅瀬蔚はすでに凱軍の動きを掴んでいる。しかし凱はまだこちらの様子を解ってはいないだろう。これ

も青海波の時とは違う。彼はより戦に長けているのだ。

「全軍、わしに遅れるな!!」

 大声と共に紅瀬蔚が雷発する。

 さて、武運はどちらの軍勢に傾くのだろうか。




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