8-10.猛勇、策謀に散る


 青海波は取り乱していた。そして賦兵もそれは同様である。

 皆狂乱に近く、一斉に同じ方向へ向っていたものの。それも統率力によるものでは無く、単に一方向し

か逃げ道がなかったからである。

 これほど賦族が取り乱してしまうのは、古来珍しいかも知れない。

 何せ自分達の走っている方角が、他ならぬ望岱への道である事すら、彼らは気付かなかったのだから。

「こんな馬鹿な目にあうとは・・・・、賦の将たる我が一度ならず二度もこのような無様な目にあおうと

は。口惜しや、口押しや」

 青海波は一心に馬を駆けさせていた。それ以外に考える事と言えば、この汚名をどう晴らすか。少しで

もこの失態を償うにはどのようにすれば良いのか。そのような事をのみで、今自分の進む道こそが、自ら

の滅亡への道である事に気付かない。

 このように一方向だけ逃げ道を作っておく事は、兵法としては常道手段であり、何も漢嵩が甘いと言う

訳では無い。逃げ道を残す事で生への執着を残し、敗兵を死兵へと変える事を防ぐのである。

 例え包囲し、味方の優位は揺らがぬとは言え、死を決した兵ほど怖ろしい者は無く。そんな兵を相手に

すれば多大な損害を受けてしまう事は避けようが無い。それは紫雲緋と玄の一見を見ても解るだろう。そ

れに名将であればあるほど、敵への損害よりも、味方の損害を考えるものだ。

 つまりは先々までの事をどれほど考える事が出来るか、それが即ち将の器と言う事になろう。

 そのような事があるから、青海波もこれが誘いの道であるとまでは考えなかった。漢嵩も賦軍を殲滅し

ようなどと思わず、この追撃によって少しでも損害を与えようとしているのだろうと、そのような甘い事

を今になっても考えていたのだ。

 これは青海波が賦の絶対的な優位性を妄信し、そしてその妄信が半ば真実でもあった事によるだろう。

 だから新たな北守兵が前から襲い来る光景を眼にした時、不覚にも彼は茫然自失してしまった。信じた

くないのでは無く、信じられないのである。

「馬鹿な!漢嵩は妖術でも使ったと言うのか!?」

 青海波はそれが望岱から後続していた北守軍とは思わず、先程の漢嵩軍が先回りしているのだと思った。

何か北守人しか知らない近道か、それとも不可思議な力を使ったのだと。

 冷静に考えれば真におかしな話であるが、冷静になれないのが戦場、特に負け戦と言うものであろう。

こんな時にまで冷静でいられるのならば、初めから敗れたりはしない。

「くッ、こんな所で、こんな所で終るのか!!!」

 青海波は天へ向けてそう叫んだ。

 それは怒り以外の何者でもなく、その怒りを向ける場所と言えば、もう天以外に無かったのであろう。

彼はこの最後の時になって、愚かしくも虚しくも天へと叫び続ける事以外に、彼の怒りを少しでも抑える

方法を見つけられなかった。

 そして漢嵩軍と後続軍によって今日何度目かの挟撃を受け、冷静さを完全に失った青海波と賦軍は無残

な程に無抵抗なまま打ち破られ、敗兵達は全てを投げ捨てて四散した。

「最早我の居る所無し。ならば見るが良い、これが賦国次将軍、青海波の最後である。そしてこの首、末

代までの手柄とせよ!!」

 青海波はそれを見て避けられぬ死を悟り。それならば自らの手でと、すらりと腰の太刀を抜き放つと、

それを自らの首に当て、気合と共に刎ね飛ばした。

 血飛沫と共に飛び上がった首は数メートル先に落ち、その眼は怖ろしい程に全てを睨み尽くしていたと

言う。彼が日頃蔑んでいる北守兵などに自らの首を斬られる事などは、敗北する以上に耐えられない事で

あったのだろう。

 賦兵は青海波の死によって最後に残った誇りまで吹き飛び、混乱を更に極め。山へと分け入る者あり、

森林に消える者あり、潔く青海波の後を追って討ち死にする者もあり、皆哀れな程にうろたえたまま、軍

としての機能を完全に失った。

 そして漢嵩は大いに勝鬨の声を上げたのだった。紛れもなき北守の完勝である。



 漢嵩が用いた策は後世から十面埋伏の計と呼ばれる事になる。

 兵を分け、あらゆる箇所に伏兵させ。通りがかる敵兵の左右から襲いかかり、次に前、そして後ろから

挟撃し、最後には包囲殲滅すると言う、言わば伏兵の高等技術である。多段伏兵と言うべきか。

 これは元々大軍師趙深が生み出し、碧嶺と共に完成させた策であり。使い所が限られ、扱いも難しいが、

使えば史上類を無い程の戦果を出したと言う、畏怖すべき術であった。

 だがおそらく漢嵩はこの策がある事を知って利用したのでは無く。彼がこの場で咄嗟に思いついた策で

あったろう。本来の十面埋伏とはこのように大雑把なものでは無く、緻密に計算と準備を行った上で可能

な策であり、今回のものとは少し違うのだ。

 十面埋伏は趙深の鬼謀の全てが記されている軍讖(ぐんしん)と言う兵法書にあるとされているが、し

かし現在に一般に残っているのはその基本的な部分のみであり、最奥とも言える十面埋伏までを知る者は

まずいない。

 それをして今漢嵩にこれに似た策を閃かせたのは、天運と時勢の成せる業としか思えない。この瞬間、

漢嵩はあの趙深、碧嶺に或いは匹敵したのであろう。これもまた天の才と言わねばなるまい。

 勿論そんな事は当の漢嵩には知る良しも無い。

 ともかくもこの策が見事に当たり、漢嵩は賦軍に完勝すると言う離れ業をやってのけたのであった。

 北守兵の喜びようも想像が付くと言うものだ。

「これより賦領土へと進軍する!」

 そして残敵をほぼ掃討した後、北守軍は賦領土へと侵攻する。凱からも侵攻していれば、こちらに回す

人数は自然足らず、領土拡張も夢では無いと思われたからだ。

 北守軍は青海波が拠点として使っていた、黒双(コクソウ)にまで進軍した。ここは防衛拠点よりはむ

しろ良質の黒曜鉄の産地として有名で、賦の武具の製造に大きな恩恵をもたらしたと言われる。

 黒曜鉄とは黒緑色をした鉄で、一般の鉄よりも強靭で重い。加工は難しいが、巧く鍛えれば鋼以上の強

度や切れ味を持った武具となる。その分使用者に筋力を強いるのだが。

 黒双と言う名は、黒曜鉄の二つと無い産地である。と言う程度の意味から来ていると思われる。

 平素は軍勢で賑わっているこの都市も、今は見る影も無く、がらんどうと言った風である。軍勢のほぼ

全ては青海波が連れている為に当然の事だろう。

 黒双の民も当然青海波が帰ってきたのだろうと思っていたから、北守軍だと知るやいなや騒然とした。

そしてさしたる抵抗も出来ぬままに、あっという間に漢嵩に制圧されてしまった。

 軍隊のように専門的な訓練を受けていないとは言え、農民から職人に至るまで当然ながら全てが賦族で

あり、決して弱くは無かったのだが。流石に武具も不足し、更には混乱を突かれたとなれば、満足に抵抗

も出来なかったと言う事もある。

「青海次将は討ち取り、彼の軍勢も瓦解し霧散した。となればそなたらも敗軍に属す者として、大人しく

我に服すなり、この地を去るなりするのが当然である」

 そして漢嵩がこう宣言した効果も大きい。

 賦族は誰であれ実力のある者を尊敬すると言う美徳があり、それは例え敵者であっても変わらない。だ

から一見無茶に思えるこの漢嵩の理屈も、賦族から考えれば当然の理なのであった。勝者には全てが与え

られ、敗者は素直に従うか去るのが彼らの風なのである。

 それが実力主義と言うものだ。そして賦族は例え軍属でなくとも、各々が戦士であると言う気概が強い

と言う事でもある。

 その点、賦族は子供のように純粋で素直であると言って良い。

 勿論、軍勢を整えれば、一変したように猛撃をかけてくるに違いない。凱が時間を稼いでくれていなけ

れば、すぐにこの拠点も放棄しなければならない羽目になるだろう。

 しかし未だここまで凱側からの情報は届いていない。漢嵩は不安に思いながらも、防衛準備を整えつつ、

間諜の報告を待ったのだった。凱からの道のりは遠い。



                                    第八章  了




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