8-9.滅びの道標


 青海波は行軍速度を落とした。

 如何に心構えをしているとは言え、罠へ全速で飛び込むのは得策では無い。それにここで速度を落とし

たとしても、場所が場所だけに警戒するのも当然と言え、特に不自然と言う事でも無かった。

 それにもしこちらが見破った事が敵側に知れたとしても、賦軍としては痛くも痒くも無い。伏兵を解い

て出てこられれば真正面からの決戦となり、むしろ望む所ですらあった。

 ようするにどちらになっても賦にとって利になるのである。

「そろそろ来る頃か・・。各隊長への指示は行ってあるな」

「ハッ、すでに全軍に知らせてあります。周囲に動きがあれば、すぐに対応出来るでしょう」

 軍の陣形も左右へ瞬時に対応出来るようにしてある。後は漢嵩の出方を待つだけであった。

 そしてその時が漢嵩に今までの借りを返す瞬間でもある。紫雲緋も喜んでくれるに違いない。その後は

北守へと侵攻する事も或いは考えられよう。漢嵩さえいなければ、北守など簡単に滅ぼせる。

 賦軍は悠々と進軍した。

 周囲は次第に山深くなり、木々も多く、兵を伏すに格好の場所である。兵法を少しでも学んだ者ならば、

必ず仕掛けるだろう場所であり、実際効果的な手段でもあるだろう。

 しかしそれが故に解り易い。

「・・・来たか。全軍迎撃せよ!!」

 突如喊声が響き渡り、正にそこに伏すべきと言った所から、紫色の甲冑を身に纏った北守兵が群がり出

て来た。その時期も正に妙であり、流石は漢嵩だと言える。

 しかし今はそれすら哀れでしかない。伏兵の為にわざと土で汚した紫甲冑が、やけに物悲しく陽光を鈍

く照り返していた。

「漢嵩だ!漢嵩が居るぞ!!」

 そんな叫び声が聴こえる。

「なんと、大将自ら伏兵に混じっておるのか。よほど北守には人がいないらしいな」

 青海波は破顔し、そして一笑した。これで漢嵩の命運も決まった。呆れるほどに自分は運が良いらしい。

これほど幸運な形で借りを返せるとは、これも碧嶺の、大聖真君の御導きであるだろう。

 やはり賦こそが碧嶺の志を受け継ぐに相応しいのだ。彼の後継は漢嵩などでは無い。

「狙うは敵将漢嵩の首一つ!後は斬り捨てよ!!」

 そして青海波も雄叫びを上げ、漢嵩の居る場所へと馬を走らせた。

 出来うるならば、彼自身の手で決着を付けたい。



「漢将軍、やはり悟られておりましたな」

「うむ、後はどれほどそれを信じているかが問題だ。なるべく驕ってもらえれば良いのだが・・」

 北守の参謀長央斉(オウサイ)も漢嵩と共に居た。

 彼は勿論漢嵩自らが伏兵の指揮を取るなどとは、火を吹くように反対したのだが。この漢嵩と言う存在

はこういう場合は頑固極まりない。それに確かに漢嵩でなければ出来ない事でもあったろう。

 だから仕方なく自分も伏兵に入れてもらった。遺憾以外の何者でも無かったが、漢嵩だけを死地へと立

たせる訳にはいくまい。彼もつくづく苦労人の運命であるらしい。

「それは蓋を開けて見なければ解りませんな」

 央斉は猛撃し来る賦軍を見て、疲れたように呟いた。

 これでは味方の被害も大きなものになる。勝つ為とは言え、なるべくならば死なせたく無いものだ。人

情としても、国の将来を考えても。

 賦への投降の汚名を晴らしたい気持ちは解るが、しかし玄なんぞの為にここまでしてやる事は無いと、

王斉は思う。どうも漢嵩は北守王となってからは特に、その強迫観念に自ら望んで縛られているような気

がしてならない。

 このままではいずれその為に大きな間違いをしでかしてしまうのではないか。

 そんな風に彼を見る度、央斉は不安になるのである。賦への投降など、民達はまるで気にしておらず。

それどころかそうなる過程に対して、皆概ね同情的でさえあると言うのに。

 他者が気にしてないのに、それを勝手に自らが気にすると言うこの状況は一体どうであろうか。こんな

おかしな話が古来あっだろうか。しかも今や大陸一の声望を誇る漢嵩その人がである。

 皮肉を越えて、いっそ哀れである。央斉も無責任な大多数の一員となって、彼を哀れめれば、それはど

れ程気が楽な事であっただろうか。

「ともかく天運を祈りましょうか」

 だが今彼に出来るのは、そうして武運を祈る事だけであった。戦略家であって戦術家ではない王斉にと

って、戦が始まれば最早やる事はほとんど無い。後は漢嵩に従うのみである。



 思惑通り、北守兵達は混乱をきたしている。

「この分では、遠からず壊乱するに違いない」

 青海波は細く笑み、手にした槍で群がる北守兵達を振り払う。本気に突進する彼を、一介の兵卒などが

止められるはずもない。あっけなく斬り落とされ、彼の通り道には屍が累々と積まれていった。

「漢嵩!!我が名は青海波!!先の戦の借りを返しに参ったぞ!!」

 すでに漢嵩の姿も視界に捉えていた。漢嵩は当然のように前線部に居る為に、容易に見つける事が出来

たのだ。最早その喉本に槍先を突き付けているに等しい。

「漢将軍!」

 央斉が不安そうに漢嵩を見た。漢嵩は将としては偉大な器であるが、しかし個人戦となれば話は変わっ

てくる。しかも相手が一騎当千の賦族の将軍である。まともに相手が出来るのは、おそらくは壬の楓仁(フ

ウジン)竜将ぐらいであろう。

 漢嵩も武勇に自信が無い訳では無いが、如何せん相手が相手である。

「しかし受けぬ訳にはいくまい」

 漢嵩は素直に青海波の前へと馬を歩かせた。名指しで呼ばれている以上、そこから逃げたとあっては士

気に、そして彼の尊厳に関わる。形勢が敗北へと傾いている今、それは尚更であろう。

「しかしもし将軍が敗れたとなれば、そこで勝機は完全に消えてしまいますぞ」

「解っている。しかしまだ時期が早い。もう少し引き付けなければ・・・・。何とか時を稼いでみる、後の指揮は

お主に任せた」

「承知致しました・・・、仕方ありますまい」

 央斉は馬の腹を蹴り、別方向へ駆けて行く。しかし漢嵩が眼前に居る今、青海波や他の賦兵にとっても、

そんな事はどうでも良い事であった。この漢嵩の首を取れば、例え誰が何をしようとも、賦の勝利は揺る

ぎ無いものになるからだ。

 今の血気逸る賦軍には、そのような思慮は無かったかも知れないのだが。

「参る!!」

 初めに打ちかかったのは漢嵩の方であった。青海波の虚を付き、ゆっくりと近付いておいて、そこから

いきなり突撃を試みたのである。

「小癪な!!」

 激しい撃音が辺りに響いた。乱戦時でもはっきりと解る音で、誇張だろうが、それは遠く望岱城内にま

で鳴り響く程であったと言う。

 しかし全霊を込めた漢嵩の突撃も、何と言う事か、簡単に真正面から受け止められてしまった。おそる

べきは賦族の膂力である。

「くッ」

「ふはは、流石に名高い漢嵩だ・・・。しかし惜しいかな、貴様は所詮は大陸人でしかない」

 槍を弾いたかと思うと、その弾かれた槍を追うように、青海波は無数の突きを繰り出す。

「流石に武勇では敵わぬかッ」

 漢嵩はそれでも懸命に防いだが、次第に畳み掛けられ、押し切られるようにして左腕を貫かれてしまっ

た。血が噴出し、力が抜けた手からは槍を地面に落としてしまう。

 辛うじて叫び声をあげる事だけは堪えたが、深手であるに違いない。最早勝負あったと言うべきだろう。

後十年若ければ、まだ解らなかったかも知れないが。漢嵩も若くはない。これだけ打ち合えただけでも上

等と言えるだろう。

「貴様との因縁もこれまでよ。冥府で同胞に悔いるが良い!!」

 しかし青海波が止めを刺そうとした、正にその時であった。

「ウォオオオオオオオオオオッ!!!」

 大地を多い尽くすような喊声と共に、北守兵が望岱側より突如現れ、賦軍の横腹を突いたのだ。

「馬鹿な、何処から現れたのだ!!? いかん、下がれ、中央へ戻るのだ!!」

 慌てて青海波は分散した兵力を中央へ、つまりは行軍路の上へと戻そうとした。口惜しいが、これ以上

漢嵩に関わっている暇は無い。

 賦兵も同じであった。伏兵を破ったと言う慢心が更にその混乱を煽り、もう指揮も何もあったものでは

無い。状況が把握出来ず、誰が誰なのかも解らない有様である

「青海次将、あちらにも敵影が!!」

「何だと!!」

 それどころか、確かに賦領土方面にも新たな騎影が見える。

「謀ったな、漢嵩!!!」

 賦軍は左に右に追い立てられ、今まで猛撃を加えていたはずの漢嵩率いる兵達からも前後から逆襲を受

け、散々な目にあってしまった。

 北守軍は包囲殲滅するつもりらしい。何処を見ても敵影がある。

 しかし一箇所だけ。そう、一箇所だけ不思議にも無防備に近い区画があった。

「退け、退くのだ!!また敗れると言うのか・・・・、何と言う事だッ!!」

 青海波は絶叫にも似た言葉を吐き出すと、その箇所目掛けて一心に、彼の持ち味である風のような撤退

を始めた。この進退の迅速さは彼に並ぶ者はいまい。

 そして将軍の行動を見て、ようやく目が覚めたように賦兵も青海波の後に続き始めたのであった。

「追撃に移る!!」

 漢嵩は傷も落ちた槍も無視し、自由になる右手で馬を制すると、一心に青海波を追い始めた。北守兵も

当然のようにその後に続く。   




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