8-8.獅子心石砕


 漢嵩はすでに青海波率いる防衛軍を掴んでいる。

 よほど慌てたのか、賦軍は情報について無関心に近くなっているらしく。諜報活動は驚くほど簡単に実

行出来た。それはまるで何処かに穴が空いてしまったかのように、最早漏れている所では無く、筒抜けと

言った状態であった。

 賦も情報の重要さを知っているはずなのだが、それがこうも疎漏になっているとは、仕掛けた漢嵩の方

が逆に驚いてしまった程だ。

 ともかく、そのおかげで青海波の動きは手にとるように解る。

 漢嵩からは冷静さは失われていない。この辺はやはり彼は生粋の武人であったと見てやるべきだろう。

決して玄の窮地に同情していない訳では無い。その事は彼の行動に現れてもいる。

 しかしそれ以上に彼は軍事に対して慣れてしまっていたのだ。そしていざ戦となれば、機械のように彼

の頭は働く。それを行っている間は他の何事も考えてはいない。

 ただただ、彼は敵軍を撃退、殲滅する事だけを考えるようになっているのである。

 それが彼の強さの秘密、とまではいかなくても。その統率力の一端を担っていると言えよう。

 当然漢嵩は、このまま賦軍とまともにぶつかれば敗北の二文字しかない事も、解りすぎるくらいに解っ

ていた。

 賦軍一万五千。その力は北守兵三万にも、或いは及ぶであろう。特に野外戦となれば彼らは無敵を誇る。

賦族の騎馬兵の突進力、攻撃力は凄まじく、北守兵などは路傍に落ちた枯れ枝のように蹴散らされてしま

うに違いない。

 漢嵩が建国から鍛えに鍛えているのだが、それも一年余りの時間では、とてもの事兵の深い所までは鍛

えきれない。現段階では指令を行き届かせるだけで精一杯と言った所だ。

「さて、どうすべきか」

 漢嵩は思案した。力で敵わぬとなれば、策を講じるしかあるまい。幸いにも、この望岱(ボウダイ)周

辺の地形はある程度遠方まで把握している。

 この辺りはほぼ平原が広がっているのだが、丘等高低差の目立つ場所も多く、自ずと進軍路は限られて

くる。と言うよりも、古来から大陸に生まれたどの国家も、自分の領土をそうであるように、長年をかけ

て造り変えてきたのである。

 そこかしこにやたら木々が目立つのもそのせいで、こういう物は全て進軍路を減らし矢を防ぎ、それに

よって防衛を容易にする為の戦略の一つだったと考えて差し支えない。

 これは碧嶺よりもずっと過去の時代から、延々と受け継がれてきた知恵なのである。

「全軍停止せよ!!」

 漢嵩はある程度進んだ後、突如軍勢を止めさせた。

 この辺りは望岱への進入路に入る地点であり、丁度道が賦領土側に比べて不自然に狭まり始める辺りで

ある。周りは小高い丘と言うよりは、もう山に覆われており。草木も鬱蒼と生え茂っていた。

「兵を伏す!皆、急げ!!」

 漢嵩はこの地点に伏兵する事を決めたようだ。

 確かに兵を隠すには絶好の地であり、その効果も成功すれば絶大に違いない。高所からしかも左右を弓

矢で襲われては、流石の賦族も平静としていられないだろう。

 それにすでに賦国へと北守が進軍した事が伝わった以上、危険を侵してまで深入りする必要も無かった。

すでに当初の意図は充分に果たしている。

 後は賦からの迎撃軍にどう対処するか。玄の滅亡もある程度この一戦にかかっているだろう。

 ここで派手に賦軍を一蹴でも出来れば、賦国の動揺は激しく。玄への侵攻を食い止めるだけでなく、或

いは北守の領土を広げる事も出来るかも知れない。

 勿論それをしても、次の攻勢であっけなく取り返されてしまうだろう事もまた、明白過ぎる以上に誰で

も理解出来るのだが。もし明節の言ったように、凱に動きがあるとすれば、この希望に万が一にでも可能

性は出てくる。

「玄の滅亡もこの一戦にかかっている。皆の者、命をあると思うな。命は捨て、とうに自分はこの山間に

晒された骸であると思え!」

 兵を鼓舞し、漢嵩も自ら伏兵へと混じった。失敗すればまずこの伏兵から死ぬだろう。これは自分をわ

ざと危険に棲まわす事によって士気を上げ、そして自らも死中に活を見出す為でもあった。

 ようするに勝たねば死す、そう自分に言い聞かせているのである。

 凱は油断ならぬ国である。そんな国に期待するよりも、まずは目先の敵勢を考える方が重要であった。



「青海次将、そろそろ望岱の支配域に入りますぞ」

 近衛兵の一人が青海波にそう告げる。

 賦の戦略拠点より望岱へ向うのには、さほど時間はかからない。言わば目と鼻の先にあると言って良く、

だからこそ漢嵩は長年望岱を一歩として離れる事は出来なかった。

 壬ほどでは無いが、賦国も速度の妙を巧みに利用している。

 元々賦の軍律の祖である碧嶺の軍も、正に疾風迅雷の如くと呼ばれたように、その驚くべき速度によっ

てこの大陸を統一したとも言えるのだ。

 彼が現れる以前は、軍隊と言えば鈍重極まりなく。その兵も職業軍人ですら無く、各地の各々の土地へ

分散していた為に、いざ軍隊を編成するだけでも馬鹿げた程の時間がかかった。

 そこへ兵を常に兵として置き、しかも軍用路と言う物に着目し、或いは膨大な時間と資材を使って造り

上げ、この大陸で初めて本当の意味での軍隊を持ったのが碧嶺である。それを考えれば、彼がこの大陸を

統一したのは自然の流れであったように思える。

 大陸統一などの偉業を成す為には、旧来の全てを無力化させる程の新たな力が必要なのだろう。古来戦

争で事を成した存在は、大抵そのような新たな力を生み出している事からも、それが解ると言うものだ。

 そう考えれば、その新たな力に現在一番近いのは他ならぬ賦族であり。彼らの言わば科学力は、大陸で

群を抜いている。

 その代表が弩であり、その発展系としての強弩なのだ。

 そう言う自負心があるかどうかは解らないが、賦族は大陸人のほとんどを自らに匹敵するなどとは思っ

てはいない。

 しかし漢嵩はその数少ない例外であるから、青海波としても常よりも多少は慎重にならざるを得なかっ

た。負けるとは思ってはいないが、一蹴出来るとまでは思っていない。

「おかしい。予定戦場はこの辺りと見たが、敵兵の動きすら見えぬ」

 だから青海波はこの静けさに疑問を抱いた。すでに望岱を進発しているとあれば、いくら何でもすでに

敵影が見えているはずだからである。

「さては小賢しい策を用いるか・・・。まったくこの青海波も甘く見られたものだ」

 彼はおそらくこの望岱への唯一の大軍の進入路へ、何か罠を仕掛けているのだと直感した。そして時間

の無さを考えれば、漢嵩がやれるのは伏兵以外には無いとも悟った。他の策を練る程の準備期間が無い事

は明白であったからだ。

 伏兵は戦術の常套手段であり、実際効果的でもある。しかしある程度の経験があれば、伏した場所を特

定するのは困難な事では無い。

 大抵が一目見て怪しい(伏すのに効果的な)と思う場所に仕掛けられているもので、そう言う場所は不

思議と万人が一致するものなのであった。

 だから青海波もこの地形を見て、一目でそれを看破した。もし自分が漢嵩の立場であれば、必ずそうし

たであろうからである。

 伏兵は突如現れ、それによって敵兵を動揺させる事で、初めてその策としての真価を発揮する。それが

見破られているとなれば、その効果は半減以下になるであろう。それどころか、かえって自らの軍勢を動

揺させ、下手をすれば壊乱する事にもなりかねない。

 策とは賭けであり、常に仕掛けた側が勝者となるとも決まっていない危険な代物なのだ。

 まあ、正確な位置までは流石に解らないのだが、大体の位置が解れば対処する事は易しい。

「如何致しましょう。怪しい箇所に弩を撃ち込んでやりましょうか」

「いや、それには及ばぬ。このような児戯にも等しい事をやる自体、奴の腹が透けて見えていると言うも

の。全軍に左右からの侠撃に備える旨を伝え、このまま前進する」

「それでは危険ではありますまいか・・・」

「フン、そのような深慮は無用ぞ。策が成ったと思わせ、逆に我等がその油断を突くのだ」

「ハッ!」

 近衛兵はあの漢嵩がそれほど愚かだろうかとは一瞬考えたが、彼としてもほぼ青海波と同じ気持ちがあ

り。場の雰囲気に流されるように、やはり漢嵩は逸っているのだと湧き出た不安を強引に納得させた。

 所詮は漢嵩も愚かしい大陸人の一人でしかなかったのだと。

 そして賦軍は進む。ようするに賦こそ油断し、そして逸ってもいたのだろう。




BACKEXITNEXT