8-7.一矢、貫かん


玄国にて賦と玄の死闘が続けられていた頃、賦国の都牙深(ガシン)には予想外の一つの報が齎(もたら)

されていた。

 つまりは北守の進軍である。

 すでに紫雲緋率いる軍勢が晴安を落とした旨伝えられており、そこまで進軍したからには引き返させる訳

にもいかず、賦領内の軍勢を持って迎撃に当たらせなければならない。

 いや、早と北守近辺の兵は迎撃に向っているだろう。だが報に寄れば北守の軍勢はかなりの数になり、更

には後から続々と軍勢も出立しているらしい。北守もこの一戦に何事かを決しているようである。

 しかしそもそもここで北守から侵攻してくるなどと、一体誰が想像出来たであろうか。

 賦の建国以来、賦はほとんど防衛に回った事は無い。常に攻め、そして五国家として落ち着くまでは戦う

度にその領土も広げてきた。その強さは他を凌駕し、並ぶもの無しと呼ばれた程で、その頃には賦国を攻め

ようなどとする者は皆無であった。

 戦えば常に敗北を喫し、それであるから賦との戦いはどの国家も病的な程に避け続けていたのだ。防衛を

固め、それによって賦の遠征の回数が減る事を願うくらいしか対処法は無い。

 であるから例え遠征によって賦国内の兵力が半減しているとは言え、賦を攻めるなどとは常識人から見れ

ば気が狂っているとしか思えない。賦族とまともにやりあって勝てる訳が無いのだから。

 それがどうだろうか。周到に計画されたのならともかく、あろう事か北守は慌しく、準備もそこそこにと

にかく出軍している状態であると言う。

「甘く見られたものよ」

 賦正は腹立たしさを通り越して、この報を聞いた時、漢嵩は狂ったかと逆に危惧した程だ。

 例え精鋭達は紫雲緋がほぼ全て率いて行ったとは言っても、それで残った賦兵が弱いと言う事にはならな

い。それどころか他国の兵と比べれば格段に上である。条件が五分の野外戦であれば、万が一にも他国兵に

負けるはずが無かった。

 しかも総兵力は半減して尚、六万とも七万とも言われる大軍を内包する国である。兵の総合力で計算すれ

ば、半減してようやく北守が何とか戦えるかと言った力関係である。それを慌しく出立した軍勢などで、こ

の賦を突こうなどとは片腹痛い。

 だがこの報によって賦国内が多少動揺した事も否定は出来ないだろう。

 それに漢嵩の意図がまったく見えない事は、賦としても多少は不気味に思える。

「あの漢嵩が勝算も無く軍勢を動かすとは考えられぬ」

 これが何も考えずに遮二無二玄へと向ったと言うのならまだ解る。漢嵩は助けを乞われれば無下に断る事

の出来る男ではないからだ。それを思えば、例え間に合わないと解っても、玄へ救援に向ったのならば賦正

も納得している。

 しかしこの場合彼が向った先は、あろう事かこの賦国であった。

 これは一体どう言う事だろうか。狂ったと言えばそれが一番すっきり収まる気もするが、そう言う楽観論

が一番始末に悪い事も賦正は知っている。

「まあしばらく様子を見るとしようか。青海波ならば野外戦で遅れを取る事はまずあるまい」

 次将軍青海波(セイカイハ)は防衛には向かず、結果として望岱(ボウダイ)をみすみす漢嵩に明け渡し

てしまった男だが、その武勇は決して漢嵩に劣る事は無い。賦族の得意な野外での戦いともなれば尚更であ

ろう。

 元々常時二万近い兵力は持たせてある。漢嵩が何を考えていようと、一朝一夕に敗れる相手ではない。そ

の間に援軍を編成し、そのまま漢嵩の首をとってしまえば良いのだ。

 これはむしろ好都合である。望岱に篭られれば容易に落とせないが、野外でならば誰が率いようと容易に

破る自信を、賦族ならば誰もが持っている。

 そしてそれこそが彼の嫌う楽観論であることを、不幸にも賦正も賦族であるが故に気付けない。

「漢嵩も軽挙したものよ」

 賦正は高を括ってしまった。



 賦国北方を預かる青海波は、当然ながら北守の侵攻に対して迎撃の意を示した。

 彼には生来篭城して守ると言う考えが希薄である。常に攻め、攻める事こそが自らの道であると固く信じ、

そして実際にそうして来た。

 各国とも国境付近は常に臨戦体勢にあるが、この賦と言う国はその中でも特にそれが強く、昨今は暫く戦

を起こしていない為に、尚更将兵の気も荒くなっていた。

 その為、報を聞くやいなや北守の侵攻に驚く前にもう兵を纏めて出兵し、馬上で青海波は北守の行動に始

めて不審を覚えた程である。

「一度敗北を喫したとは言え、漢嵩は我等を舐めているのか!!」

 しかしその不審もおかしいと思うまでは至らず、気の荒い男だけに逆上してしまった。

 ようするに漢嵩は自分を侮っているのだと、彼はそう理解したのだ。

 これほど青海波にとって侮辱たるものは無い。確かに漢嵩は強く、その統率力と将としての器の大きさは

賦族にも劣らない。それは戦った彼が一番よく解っている。

 だがあれだけで漢嵩よりも劣るなどと思ってもらっては困る。あの時は玄の援軍があったおかげと、そし

て双と言う国に何ら価値を見出していないから、敢えて撤退して譲ってやったのだ。

 勝てないまでも漢嵩に一泡吹かせるくらいは可能であったし、玄の援軍が来なければ十二分に勝つ自信も

あった。

 それをあろう事か、自分を低く見るなどと、こんな事が許されて良い訳が無い。誇りを特に重んじる賦族

において、敵者に侮られるなどとは、決してあってはいけない事なのである。

 だから青海波としてはその汚名を早々に拭う必要があった。つまりは今回の北守の出兵は彼にとって、正

に願ったりの状況なのだ。

 例え賦の猛者を集ったとしても、あの望岱に篭る漢嵩を破るのは難しい。それはあの紫雲緋ですら退けら

れてきたと言う事実でも解る。元双兵である北守の兵は、漢嵩に率いられ、望岱と言う絶対的な防御壁内に

篭る時に限り、驚異的な程の力を発揮するのだ。

 だからそれが野外に出て来たとなれば、飛んで火に入る夏の虫、これ以上に相応しい言葉も無かろう。

「皆の者、今こそ先の一戦の恥辱を雪ぐ時ぞ!!篭るだけが能の身の程知らずの臆病者どもを、我等の手で

早々に打ち砕いてやるのだ!!それこそが紫雲緋様への我等の心を示す手段でもある。皆、奮え、奮え、漢

嵩などは一撃にて粉砕してくれよう!」

 青海波は馬を只管に飛ばしつつ、何度も喚声を上げた。

 彼に従う兵はおよそ一万五千。近辺の町や都市をほとんど空にして出てきたような軍勢である。北守軍は

二万と言う大軍で数では劣るが、しかし個々の戦闘力では遥かに賦が上である。この数でもまったく問題は

無いだろう。

 しかも皆ようやく戦となって奮いに奮っていた。

 戦が無くて沸々としていた上、紫雲緋の軍勢に参加出来なかった事で、彼らの鬱憤はこれ以上なく溜まっ

ており。そして今ようやくその全てが暴発したような形で、戦意は常以上に高い。

 だがしかし、その意気の高さ故の疎漏さも目立つ事となった。

 何しろとにかく鉄砲玉のようにありたけの数を引き出して迎撃に当たっているのだ。本来は賦も意気盛ん

で荒々しいとは言え、戦争準備だけは怠る事は無いのだが。今はやはり色んな面でうっかり忘れていたり、

思慮が足らなかった部分が往々に存在する。

 彼らは否定するだろうが、やはり予想外の敵兵の侵攻に、何処か皆逸って浮き足立ってしまっているのか

も知れない。

 戦は猛るだけでは勝てず、むしろ沈着冷静に進める事こそが勝機を掴む道であると、そのような基本を忘

れている風があった。

 そして相手が百戦錬磨の漢嵩であると言う事実も忘れている。

 確かに突進力、攻撃性などなど攻めの部分では青海波は漢嵩を上回るであろう。しかしそうでは無く、漢

嵩の防の部分にこそ常に賦は撤退するしかなかった事を、攻めるだけでは勝てないと言う現実を、この時彼

は思い出すべきであったろう。

 だがそう言う事を差し引いたとして尚、北守が賦と互角以上に戦える望みは無さそうに思える。

 果たして漢嵩に打開策はあるのだろうか。目論見どおり、少なからず賦を動揺させた事は確かだが、それ

によって賦軍から壊滅的な打撃を与えられては意味が無いだろう。

 それでは一時凌ぎにもなりはせず、玄に対して何も恩恵は与えられまい。




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