8-6.他者の絶望こそ好機なり


 場所は一時北守へと移る。

 この国まで賦の進軍の報が齎されたのは、丁度玄で晴安が陥落した頃であった。

 北守は建国から一年も経っていないとは言え、その結びつきは強く、漢嵩を慕う者が大多数であった為

に、驚く程急速に組織として完成していた。その諜報網も壬に習い、強固としか言い様が無いものである。

 大陸人は元々情報と言うモノを重視してきた。

 それは古来から多国間の貿易が盛んだった事と、そして現在では賦と言う恐るべき国家がある事にも由

来しているのだろう。

 この大陸では日々戦乱と共に時間が過ぎ、生きる為には今現在大陸がどうなっているか、それを緻密に

知る事が必要であり。壬ほどではないが、交通路にどの国も重点を置いている。

 そして無論、情報を如何に早く自国へ届けるかと言う技術の発展も著しい。

 しかしそれで尚、一都市が陥落するまで賦の進軍の報が届かなかったと言う事が、今回の賦軍の速度を

思わせ、また賦軍が常ならぬ覚悟を持っている事も解るであろう。

 北守王、漢嵩もこの報を受けた時、その時に玄は最早終ったと、そう直感した。

 おそらく程無く玄からの援軍要請が来るであろうが、今から急ぎ軍を編成し、そして騎馬兵を持って一

心に急進したとしても、間に合う事は無いだろう。その時はすでに玄の王城が落ちた後である。

 彼としては如何に玄とのいざこざが多く、彼自身も玄に少なからず恨みに似た感情を持っている事は否

めないが。しかし人情としてはどうしても助けたい。漢嵩とはそう言う人間なのである。特に今の彼は。

「軍の編成を急げ、あるだけの馬を出し、兵も何よりも馬の達者を選べ!!」

 だから間に合うまいとは思ったが、それでも一縷(いちる)の望みに縋(すが)る思いで編成を急がせ

た。平素からいつでも軍発出来るようにしている為、軍を揃える自体はそう時間はかかるまいが。騎馬兵

の編成に少し手こずるかも知れない。

 だがどの道糧食などの運搬準備に時間もかかり、将官の招集を考えれば無為な時間でもない。

 漢嵩自身も飛び回るように駆け、急ぎ準備を始めた。各府に伝令を雷発する。

「一時無駄にすれば、一万の命が散ると思え!何よりも急ぐのだ!!」

 流石に物慣れた風で、すぐに将官達は現れ次々に持ち場へと着いて行く。

 漢嵩はそれを見て初めて満足気に頷いた。

 この将官達は長年漢嵩の下で働いていた中から、北守の建国と同時に新たに選び出した精鋭中の精鋭で

ある。その名は国内や軍内ではそこそこに有名で、その類の無い昇進にも異論が出る事は無かった。

 御互い気心も知れており、戦いとなれば彼ら以上に心強い存在はいない。勿論その中には参謀長、央斉

(オウサイ)の姿もあった。しかし。

「よし、者共、我に」

 続け、と出撃しようとした正にその時。

「将軍、漢将軍!!」

 宰相である明節(ミョウセツ)が珍しく形振り構わず駆け寄ってくるのが見えた。それを見てしまった

からには、出撃を一時でも止めるしかない。

 漢嵩は陛下と呼ばれるのを嫌い。臣下からも従来通り将軍と呼ばせている。他国と後世に対して遠慮し

たのだろう。彼は英雄扱いされているが、それでも漢嵩自身は二度の投降、それも一度は賦に降った事に

酷く自尊心を曇らせており。その点にのみ、子供のように拘るようになっている。

「明節殿、如何致されたか知らぬが。今は時間が惜しい、手短にお願いする」

 漢嵩は部下にも丁重な態度を崩さない。特にこの明節に対しては。

「将軍、残念ながら最早玄に救いはありませぬ。それよりも、今は賦へと進軍すべきです。総兵力の半数

が出払っている今こそ好機です」

 それを聞いて漢嵩は睨み付けるようにして明節の顔を見た。この男は何を言っているのか。

「しかし一個の武人として、みすみす死ぬ行く者達を黙って見過ごす訳には参らぬ。それに我等が援軍と

して発しているのを知らせれば、間に合わぬまでも賦を牽制する事も可能であろう」

 確かに北守から援軍が来る事を知れば、賦軍に何らかの衝撃を与える事が出来るかも知れない。それは

正に万に一つの可能性ではあったが。

「いえ、将軍。牽制するのであれば、尚更賦へ進軍するのが道理です。それにこれは私個人だけの言では

ありません。凱も動くと言っております」

「なんと、凱が!?」

 これには流石の漢嵩も驚いた。いつの間にそのような事になっていたのだろうか。しかし凱が動くとな

れば、北守とで賦国を挟撃する事が可能である。確かにそれならば賦に打撃を加える事が出来よう。

 打撃を与えられれば、現在玄国に出払っている軍勢も、賦へと戻らずを得まい。

「なるほど、了解した。我らはこれより賦へと向う。賦軍の後背を震わし、奴らの肝を潰してやれ。それ

こそが今玄を救う道でもある。全軍、我に続けい!!」

 漢嵩は決すれば速い男である。明節の動向に疑問を抱くも、今はそれに素直に従う事とした。何しろ時

間が無い。それに彼の言う方が確かに玄を救う可能性もあった。

 そして北守軍は賦へと雷発した。

 どちらにしても今出撃している玄軍は滅びざるを得ない事も、漢嵩は誰よりも解ってはいたのだが。



 北守軍の出撃より少し後になるだろうか。玄の国では激しい戦いが繰り広げられていた。

 玄兵は玄宗を筆頭にして、馬鹿げた事だが真っ向から賦の軍勢へと突進している。

 両軍とも向かい合うように進軍している以上、それがぶつかれば当然反発力が生じる。その結果どちら

が勝つかと言えば、自然の法則としてより勢いのある方に決まっていた。その勢いは重さと言い換えても

良い。

 そしてこの場合それに当てはまるのは、高所から駆け下りてきた玄の方である。

 つまりは驚くべき事だが、玄は緒戦で賦よりも優位に立ったのだ。これは賦と玄の歴史を垣間見ても、

稀有の現象であったと言って良い。奇跡があるとすれば、それに並ぶ確立であったであろう。

「静まれ!!」

 先頭にて率いる紫雲緋が大声で叱咤せざるを得ない程、賦の先陣は荒れに荒れた。

 先陣に配置されるのは当然賦の中でも最も馬の扱いが巧い精鋭中の精鋭なのだが。それをして落馬する

者が少なくなかった程に、この玄の言って見れば無鉄砲な一撃は賦に打撃を与えたのである。

 如何に賦兵が強靭と雖も、この猛進の圧倒的な力には勝てず、それも人よりもまず馬が耐えられなかっ

た。屈強を誇る賦兵が次々に押し倒され、そのまま乱戦へと突入して行く。

「いざとなれば馬は捨てよ!騒ぐな、貴殿らの気概とはその程度のものであったのか!!我を見よ!!」

 だが流石に紫雲緋はうろたえない。迫り来る玄騎兵を巧みにかわし、時には受け流し、玄の猛撃に逆ら

う事無く、合間をすり抜くように突き進んで行く。

 そして威勢の良い言葉を常に叫び続けた。彼女の戦場での言葉遣いは雄々しく、時に男を凌いだ。

「賦兵はいつのまにそのように軟弱になったのか!!」

 紫雲緋のその勇ましい姿を見て奮わない者がいるはずがない。

 賦兵はようやく己を取り戻し、常のように剛勇を振るい始めた。その力は流石に凄まじく、そうなれば

勢いだけの玄兵など、物の数では無い。

 すぐさま戦況は逆転し、兵力の差もあってすぐに、まるで弾かれるかの様に玄軍は後退し始めた。

 他の軍勢であれば、あの緒戦の一撃で勝敗は決まっていただろう。あのように気を先されれば、人心は

恐慌を来し、後は崩れ行くのみでしかない。

 しかし不幸にも、この軍勢は賦族である。しかもそれを率いるのは稀代の女傑、紫雲緋なのだ。単純に

機先を制したからといって、そのまま勝てる訳が無かった。

 更に兵力の差も甚大である。各地に命じた援軍も未だ来る訳も無い。

「まだだ、まだである!せめてもう一矢、一矢だけでも奴らに目に物見せてやろうぞ!!」

 玄宗の身体もすでに傷だらけ血塗れの姿であったが、しかし彼は迫り来る賦族を前に、更に吠えた。

 それはまるでその一声で賦軍を押し返さんとでもする勢いであり、喉が張り裂け、側で聞く者の鼓膜ま

で引き裂く程の大音量で。驚くべき事に、戦場全土まで響き渡った。

 これ以後玄宗の声が聞こえなくなった事を考えれば、おそらくこの一声で喉を潰したのだろう。

「ウォオオオォオオォオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」

 そしてそれを聞く玄兵の心気も只事では無かった。

 目の輝きが一転して増し、彼らはここで完全なる死兵と変わった。その直後玄宗は討ち取られたが、し

かしそれも彼らの気勢を上げるだけである。

「大将に続け!大将に続け!!」

「死ね、皆死ぬのだ!!大将に遅れるな!!」

 等と口々に叫び。一斉に賦軍へと襲いかかった。まさに襲いかかると言う言葉が相応しい。それはもう

戦では無かったのかも知れない。

 槍が折れては剣を取り、剣が折れれば拳を振るい、それすら出来なくなれば躊躇無くその口を開き、誰

彼構わず賦兵を見れば噛み付いた。

 或いは彼らは人ですら無かった。まるで獣であり、死兵の賦軍ですら空恐ろしさを覚える程に、醜悪な

までに怖ろしかったのである。

「怯むな!!所詮は最後の足掻き!それとも貴殿らは恐れるか、敵を恐れるのか!!」

 しかしそれすらも紫雲緋の心を乱す事は無かったようだ。

 彼女は冷静に槍を振るい、次々と敵兵の首を落として行った。鮮やかで、まるで幻想の中を古代の英雄

が舞っているようであり。碧嶺、そして紫雲竜はかくの如し、とでも言わんばかりである。

 結局この後戦史に類の無い程の時間を昼夜問わず戦い続け。玄兵は一兵残らず討ち取られてしまった。

 だが玄と同じく賦軍の被害も甚大で、こちらも二万の兵を失っており。まるで玄兵が冥土へ道ずれにし

たかのようであった。

 当然の如く疲労も極限を超え、全員がその場に崩れ落ちるかのように倒れ伏した。

 流石の紫雲緋ですら立つ事も出来ず、武具を全て脱ぎ捨てて、ようやく座り込む事が出来たような有様

であった。

 彼らはおそらく、生まれて初めて、賦族以外の人間に恐怖したのだろう。

 時間の感覚もすでに無く、後は全員が無防備に眠り果てた。飢える事も忘れ、死人のように眠ったのだ。

 こうして紫雲緋の最後の大戦は、賦の歴史の中で最大の戦果と最大の犠牲を出したのである。

 彼女は生涯この戦を悔いた。 




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