10-2.玄の決断


 賦国の衰え、それをまざまざと見せられるこの情勢下でも、今尚玄国は不安と共にあった。

 紫雲緋との戦いでほぼ全ての動員兵力を失い、残るのは一万足らずの全土に散らばった守備兵しかおら

ず。税はこちらに治められるものの、新領土を全て北守に渡した為、田畑も拓く事は出来ず、貿易線も拡

大する事も出来無い。

 当たり前だが兵力も一年や二年で回復出来るモノでは無く、人口も変わらないので、動員兵力も増加し

ていない。

 紫雲緋率いる軍勢にいくら損害を与えたとは言え、例えその不可能とも言えた進軍を止めると言う快挙

を為したとは言っても、それで何が変わる訳では無かった。

 ただ滅びへの時間を少しばかり延ばせただけであろう。勿論その時間は貴重な物ではあるのだが。

 あの時は熱狂と高揚によって後先の事は考えずに済んだが、今いざ少しばかりの時間を得、冷静になっ

てみると、まるで救いの道が無い事に気付く。

 依然紫雲緋は晴安におり、それを打ち破るどころか、阻む軍勢さえ最早この国には無い。

 身を守る力すらないとなれば、最早国として終わっているのではないだろうか。そうとさえ思える程、

玄首脳部は悲嘆に溢れていた。

 現王である玄高は、亡き玄宗の役割を充分に果たし、ともすれば絶望に全てを投げ出そうとする家臣を

叱咤しつつ。そして国民に少しでも希望の灯を与えるよう、考えられる限りの善政を布いて来たが。それ

にもやはり限界があるようである。

 例えどれ程の魅力があり、統率力があろうとも。虎の前に裸で居るようなこの状況では、人はただ震え

ているしかないだろう。いくらその虎が手負いであれ、いや手負いであるからこそ余計に危険とも言える。

 このような危機感しかない状況では、人は仁者よりも強者を望む。民を心配する心優しき主君よりも、

例え強引にでも事態を上手く収める事の出来る英雄の方を。

 晴安に居る軍勢は、いずれは怒りにその身を包み、玄国中をその憤怒と復讐の炎で蹂躙(じゅうりん)

して行くに違いないのだ。そしてその日はきっとそう遠くは無い。

 正規軍が頼りにならない今、なんとしても傭兵団である虎を雇い入れたい所であるが。流安(リュウア

ン)での焼き討ちの一件により、玄は虎達からの信望も甚だしく失っている。流石の虎でも、そんな横暴

な事をする国に、その身を任せようなどとは思うまい。

 彼らも命は惜しく、出来れば自分を知ってくれる者の為に働きたいものだ。或いは何か意味ある事の為

に、歴史に名を残せるような事の為に。

 それでも多額の金銭を積めば、彼らも渋々でも折れてくれるのかも知れない。しかし今の玄にはそんな

余裕は無かった。

 相次ぐ戦乱の為に、産業も停滞しており、全体的に国民の気力も無く、日々喘ぐように生きている。税

金を抑える事で何とか皆が食えているが、もう何をする程の資材も資金も残ってはいないのである。

 蓄えていた資金もいつまで持つ事か。玄はやつれ果て、盛時の面影も無い。

 戦時では逆に多額の利益が見込めるはずの軍馬の輸出も、その生産自体が衰えてしまっているので、国

内に配備するだけで精一杯の有様。需要があっても、軍馬自体が無ければ、輸出しようにも出来ないのだ。

馬も一日二日で生まれ育つような事は無いのだから。

 そのせいで軍馬の価格はどの国家でも上昇の一途であるようだ。

 ともかく目と鼻の先に賦の大軍が居ると言うのに、誰が懸命に働けると言うのか。心に浮ぶのはいつ賦

軍が動くか、その為に玄はいつ滅ぶのか、そう言う不安だけであろう。

 一つだけ希望があるとすれば、玄宗と赤竜の命を賭した働きと武勇だけは正当以上に評価されており、

国への国民の信頼は薄れてはいないと言う事だろうか。

 これも玄高の善政が強く働いているのかも知れない。国民は確かに王に感謝しているのである。

 しかし惜しいかな、やはり力が無ければどうしようも無い。無力とは虚しいモノだ。これで紫雲緋の軍

勢を追い返すような事でも出来れば、機運は一気に玄へと傾くのかも知れないのだが。

「最早、この国は一つの国家としては運営出来ない・・・」

 玄高は重臣達と雑多無数の議論と政策を交わしながら、痛切にそれを感じていた。

 今正に、この国は限界に来ているのである。

 彼の片腕として辣腕を振るう参謀長、奏尽(ソウジン)も疲れ果てて居るように思える。その顔もはっ

きりと解る程にやつれて見えた。この参謀長の顔が、今の玄の状況をそのまま映し出しているかの如くに。

 おそらく王平(オウヘイ)と玄宗の死がその表情の翳りに大きく関わっているのだろう。彼が死んでか

ら、奏尽はまるで張りの無くなったような顔をしている。意見は常に相反するとは言っても、王平とは何

度も窮地を乗り越え、玄宗と共に国を治めて来た仲なのだ。

 王平、更に玄宗までも失ったとあれば、彼としては置いてかれたような、生きる場所を失ったような、

そのような虚無感に取り付かれても不思議ではあるまい。

「陛下、やはりここは屈せねばなりますまい。少なくとも、最早我が国だけでは生き抜けるとは思えませ

ん。国民の事を考えれば、誇りも意地も今は捨てなければ・・・」

「奏尽、解っている。私もそれを考えていた。決して父や王平と同じ事をしてはいけない。となれば、方

法は一つしかないだろう・・・。いや、もしかすればそれをしても意味が無いかも知れないが。今となっ

ては、それくらいしなければこの国を、この国の民を守る事は出来まい・・」

 玄高は溜息をもらした。彼は決断しなければならない、今は亡き玄宗の代わりに。今父が生きていれば

するであろう決断を、彼がしなければならないのだ。

 例えそれでどれほど膝を屈し、誇りを傷付ける事になろうとも。


 大きな騒乱の発端となった東暦、碧嶺752年から明けて753年。正月祝いの余裕も無く、その早々

からまたしても大きな事変が行われる事となった。

 玄王、玄高の英断、或いは迷断によって、玄の国が北守に臣従を誓ったのだ。

 それは即ち、玄が北守の属国になるという事である。そして今の玄の状態を考えれば、これはもう全面

降伏してしまったと言っても良い。

 玄はあれだけ北守といざこざを起して来た国であるが。先王は亡くなり、いざこざの原因とも言えた竜

将軍、王平も討ち死にし、その影響を濃く受ける兵達もほとんどがその後を追った。

 更に、玄高は先のような強硬手段は好まず、只管に善政を布いており。父以上に穏健で思慮深い人物だ

と専らの評判である。

 北守王、漢嵩はああ言う漢であるから、膝を屈し庇護を求めてきた者を追い返す事などは出来ない。

 快くこの申し出を受け入れたそうだ。

 しかしこれによって北守は今まで以上に困難を強いられる事にもなろう。何しろ玄はすでに半壊してい

るとすら言える状況で、その喉元にはあの紫雲緋が居るのだ。

 俄かに勃興した北守に、余分な兵力があるはずもなく。自国だけでも手一杯の所を、玄まで気を回して

いる余裕が無いのは明らかだった。

 とは言え、臣従を受け入れたとなれば、盟主として北守側もそれに見合うだけの誠意を見せなければな

らない。つまりそれは玄領土内に居る賦軍の脅威を拭い去る事を示している。

 だがそれさえ出来たとしたならば、例え玄国民に今回の属国化に少なくない不満があったとしても、強

く言えなくなるであろう。彼らは一生漢嵩に頭が上がるまい。

 そこまでされておいて、それで窮地が去ったからはいさよならでは、その人間性すら疑われる事になる。

誇りや道徳以前の問題であり、恩を仇で返すような者は、未来永劫子々孫々までも完全にその恥を拭う事

は出来ないのだ。

 一生どころか永遠に苛まれるような事を、大陸人が出来る訳が無い。

 もし全てが上手く行けば漢嵩の名声も益々高まるだろうし、玄も将来的には完全に北守に併合されてし

まわざるを得なくなる可能性もあった。

 逆に言えば、それ程の事を覚悟しなければならない、大きな困難を受け入れたと言う事になるのだが。

玄を飲み込めれば、最早北守は大陸の半分近くを制圧する大国家となってしまう。それは碧嶺に次ぐ快挙

と言えるだろう。

 碧嶺以後、そのような大領土を治めた者などいないのだ。

 それどころか順調に行けば。紫雲緋のいない、力の費えた賦族も恐るるに足りず。いずれは賦、凱、壬

までも飲み込み、史上二人目の統一皇が誕生してしまうかも知れない。

 現実はそのように簡単には行かないだろうが、これによって漢嵩の力が増した事は明々白々であろう。

北守に取っても悪いだけの話では無いのだ。

 現に北守民も属国化と勢力拡大を喜び、志願兵も増し、北守の活気は更に増大しているように見える。

 漢嵩は手始めに、元玄の新領土となった北守西方へ、玄からの入植者を広く募り。宰相、明節(ミョウ

セツ)が何とかかき集められた二万の軍勢を玄国へと送った。

 これにより国内の守備兵を多いに減少させる事になったが。若者を中心として各都市村々で自衛隊など

も民間から結成されており、戦力の減少は免れぬまでも、その統治力と防衛力はさほど衰える事は無いと

思える。

 北守国内も明節の下、元々穏やかに統治されていたから、盗賊団や双兵残党なども続々と討伐されてお

り、その点ではさほど心配は要らなかった。

 今漢嵩が注意すべきは、黒双周辺にあるだろう。

 賦と紫雲緋を分断したいが、それに兵力を割き過ぎれば黒双が手薄になり。それを狙われ、黒双が落と

されでもしようものなら、逆に北守軍が敵地で孤立してしまう。

 北守は、玄に暫く紫雲緋を引き受けてもらうと言う目論見、を見事にかわされ、新たなる戦略を早々に

練る必要があった。漢嵩と参謀長、央斉の苦悩は続く。




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