10-3.覇者の轡


 賦に侵略されるまでは、玄の東方、つまりは対賦国の戦略拠点であった晴安(セイアン)。ここは現在、

紫雲緋の居城となっている。兵数は三万程度、増強も減少もしていない。

 何故ならば、漢嵩の軍勢に賦への交通路を遮断されているからである。

 対賦国の拠点であった都市であるから、今日明日の補給に困る事は無かったが。それもいつまで持つ

かは解らない。何しろすでに非戦闘員である晴安の民は追い出しており、働き手となる住民が居ないのだ。

 三万もの大軍ともなれば、恐るべき消費量であり、例えどれほどの備蓄があろうと、安穏と考えてはい

られない。

 それに誰もが精神的に深い傷を負ってしまっている。恐怖を覚えた程の玄宗率いる死兵との激戦もそう

であるし、それ以上に賦正の死が辛い。賦族全ての父とも言える、あの思慮深く愛情に満ちた王が亡くな

ったのだ。賦族にとって、これ以上の心痛は無いだろう。

 まして紫雲緋は王とは叔父と姪との間柄である。その辛さは余人に想像出来るものでは無かった。

 あの華麗なる大将軍が、事もあろうに軍を率いる事が出来なくなったのである。それ程の痛みが、一体

誰に解ると言うのだろう。

 紫雲緋もこのままでは漢嵩に時間を与えるだけであるのは重々承知していたが、それでも理屈だけで動

けないのが人間である。

 しかし事態はそうも言っていられない所まで来ているのも確かだ。

 事も在ろうに玄が北守に従属し、北守兵二万がこの晴安に睨みを効かそうと進軍していると言うではな

いか。そうなれば紫雲緋は完全に孤立、包囲されてしまい。この都市からまったく身動きが取れなくなる

可能性があった。

 確かに戦えば勝つ自信はある。晴安などに初めから未練は無く、いつ置き捨てても構わないのだから、

そう言う意味では賦軍に自由もある。

 しかし人は永遠に戦い続ける事などは出来ない。腹も減れば、疲れもする。如何に強靭な賦族とは言え、

人は人でしかない。幸い武具や糧食にはまだ暫くの余裕はあったが、それを全て持ち出し、多大な荷持つ

を背負って戦うわけにもいかない。

 即ち止まれば立ち枯れるのみであり、奮闘しても進めば進むほど力は薄れて行く。

 矢も馬も、水も食物も、その辺から次々に湧いて来る事は無いのだ。

 だからこそ兵を率いる者は、常に補給線に気を付ける事を第一とする。常時最善の行動が出来るように、

兵の体調を万全にしておく事も、重要な事なのだ。

 だがその補給線は見事に断ち切られ、それを回復する事も望めない。

 今までは賦正と言う優秀な後方支援者が居たから、賦族はこうも縦横無尽に戦う事が出来た。賦正が居

れば、万が一にも軍勢を孤立させるなどと言う事は無かっただろう。例え漢嵩が何をしようと、彼ならば

最善の対処が出来たに違いない。

 しかし彼の力は今は無い。賦族の和も乱れ、今牙深に居るだろう趙戒では、とても賦正の代役を務める

事はできまい。それどころか、不満の的にされるのが関の山だ。

 つまり紫雲緋が頼れるのは、もうこの晴安に残された物だけなのだ。

 しかし今の気落ちした軍勢と、それ以上に悲嘆に暮れる紫雲緋自身で、日の登る勢いの漢嵩を打ち破る

事が出来るだろうか。賦国内からの援軍も援助もまったく期待出来ない中、賦正すら破る程の英雄と渡り

合えるのだろうか。

 紫雲緋は己が力の衰えをひしひしと感じながら、ともすれば暗く覆われそうになる思考を必死に現実に

戻し、これからの道筋を必死に考え出そうとしていた。

 そして彼女は一つの結論に辿り着く。辿り着いてみれば、陽光が大地を照らすように、みるみる心が晴

れていくのを感じた。

 そう、似合わない絶望に取付かれている時は終わったのだ。

「迷う事は無かった・・・、そう、賦族の道は常に一つ。何を弱気になっていたのでしょう・・・、大将

軍が、賦の大将軍が国を離れ、こんな所にいつまでも篭っていて良い訳が無い・・。確かに漢将軍には何

度も阻まれている。でもそれはあの望岱があっての事、漢将軍も本心は怖れているに違いありません」

 彼女は一転して晴れやかに立ち上がった。そうだ、彼女に曇りなどは似合わない。戦場で死力を尽くし

て、それで破れたとあらば、賦正も本望であったはず。それを悲嘆にくれて、賦国の危機をこんな所でた

だ見て居るなどと、それこそ王たる彼が許す訳が無い。

 となれば、彼女の進むべき道はただ一つ。

「玄で得た領土を捨て、直ちに牙深へ引き返す。今ならまだ間に合うはず、例え漢将軍でも一月や二月で

は満足な防衛線を張る事も出来ないでしょう。一時でも早く、国へ戻らなければ」

 二万の兵を死なせた事、賦正の死、青海波の死、どれも完全に吹っ切れた訳では無かったが、それでも

ようやく彼女は行動する事が出来た。本来の大将軍らしく振舞えたのである。

 しかしそれも今度ばかりは遅過ぎたように思える。

 今も漢嵩は兵力を増強し、策を仕掛けながら、虎視眈々と彼女を待って居るはずである。しかも彼は、

例え圧倒的な兵数差だったとは言え、賦族を野戦で破ったと言う自信を得ていた。おそらく前よりも賦族

の姿が彼には小さく、真の姿に近しく見えているはずだ。

 恐怖は揺らぎ、確固とした自信が生来の畏怖心を打ち破ろうとしている。

 そして逆に紫雲緋率いる軍勢は賦でも最強の兵団だとは言え、先の戦いで身に染みる恐怖を知り、もう

半ば戦いに飽いているようにも思えた。紫雲緋の魔術のような統率力を持ってしても、拭いきれないモノ

はある。

 戦は防衛側が有利と言う事を考えれば、長引けば紫雲緋は援軍に後背を突かれてしまうとすれば、どう

考えても漢嵩が優勢なように思える。


 紫雲緋の動きは直ちに漢嵩へと伝わった。

 彼は賦正との決戦の後も休む事無く、晴安への、賦から玄への道を閉ざすべく、行軍路の交わる要所に

新たな要塞を築いていた。

 勿論一月や二月で出来るほど、要塞と言うのは容易い建造物では無い。

 未だ望岱のような第一級の要塞と比べれば、張子にすら思えない程度だろう。外観だけでも取り繕えれ

ば良かったのだが、その程度の時間も流石に紫雲緋は与えてくれなかったようだ。

 防壁は何とか四方を一周しては居たが、その高さは精々一m程度だろうか。本体となる城も骨組みが出

来た程度であり、遠めに見ても如何にも貧弱である。

 しかしそれでも、補給点としての役目や中継地点としての役目ぐらいは果たせるだろう。

 漢嵩は防衛力を補う為、この付近の地形を丹念に調べ上げ、要所々々に罠となる仕掛けを設置していた。

馬止めと言われる槍先を無数に並べた柵や、水を引かせて足場を悪くし、更にその柔らかい土の中に壷な

どを埋めてある場所もある。

 そこに馬が踏み入れれば、おそらくもんどりうって倒れるだろう。それに弓矢を合わせれば、上手くす

れば混乱を招く事も可能かも知れない。

 ともかく紫雲緋とその軍勢が悲嘆に暮れていた間、北守も玄の従属など大きな変化があったとは言え、

当面の最大の敵者である紫雲緋を第一として、打てるだけの手は打って来たのである。

 いざ戦いとなれば、この差は大きかろう。そしてその差がなければ、おそらく紫雲緋にはとても勝てな

いであろう事も、解りすぎる程に漢嵩は解っていた。

 北守は正に竜が天を翔る如き勢いだが、そんな天運を持ち得なくても、自力で勢いを生み出しかねない

のが賦族の怖ろしさである。

 思えば碧嶺(ヘキレイ)も怖ろしい置き土産を残してしまったものだ。もし彼が居なければ、そして趙

深が居なければ、賦族は今も大陸人の奴隷として生きていたかも知れない。

 少なくとも、誰かが賦族に道を教えなければ、彼らはああも組織立って動く事は無かっただろう。紫雲

竜や紫雲海、そして紫雲緋のような英雄を生み出す事も無かったに違いない。

 確かに奴隷とは仁に適わない悪しき風習だったかも知れないが、だからと言って大陸人が賦族に滅ぼさ

れる言われも無い。例え背後にどんな理由、どのような歴史があっても、それが全ての免罪符になる事は

無いはずだ。それに理由があるのはどの国家も、どの人間も同じである。

 誰も無意味と思って生きている訳では無く。誰にもそれぞれ違った理想があり、各々の考え方と言うも

のがある。むしろそれを統一させようと思う方が無理であるかも知れない。

 しかし仁も個人の感情も、現実の前には、大衆の前には不思議と無力である事も多い。理屈などは吹け

ば飛ぶ存在であり。大きな流れの中では、例えどれほどの真理であろうと、一個の力では抗えないモノな

のだろうか。

「いよいよ来たか」

 漢嵩は今の彼には無意味だろう思考を中断し、その残留を吐き出すかのように、短く強く呟いた。

 吐息では晴れないモノも、不思議と言葉にすると頭から抜けていく事がある。気のせいかも知れ無いが、

それでも確実に気分は良くなるのだから、物事の真理などは常に必要とも思えない。

 思い込みで良いのだろう。

「予想通りですな。ですが大将軍殿の心境まで予想通り、いや理想通りと言い換えましょうか、そのよう

に上手くはいかないでしょうな」

「うむ、あの方はわしの知る中でも、最も強靭な心を持つ一人である。それに賦族と言うのは、悲嘆に暮

れるよりも、それを打開すべく行動する方を尊ぶ。良くも悪くも純粋なのだ、彼ら自身の美意識に」

 傍らの央斉はそれを聞いて、それは貴方も同じでしょう、と言いたかったが。それを言うのは止めて置

いた。言っても不利益が起こるだけだからである。

 それに参謀たる者、多くの言葉を口にしない方が、何やらありがたく思える。

 議論は明節とだけで充分である。漢嵩と居る時まで余計な労を費やすのは、ご免こうむりたいものだ。

「将軍、おそらくこれが最後の正念場でしょうな。彼らも将軍に屠られるのならば、本望でしょう」

「かも知れぬ。そして華々しい戦いは、おそらくこれで最後だろう」

 漢嵩はそれから暫し彼方を黙して眺めた後、心中の不安を決して顔に見せる事無く、紫雲緋と雌雄を決

する為に、眼下の軍勢のもとへと向って行った。央斉も以後は黙ってその後に続く。

 そう、例えこの後何があろうとも、漢嵩が満ち足りる戦いなどは最早無いだろう。

 この大陸で漢嵩と互角に争えそうなのは、紫雲緋と、後は壬の楓仁(フウジン)竜将くらいしか残って

はいまい。漢嵩が大恩ある壬と事を起すとは思えないから、おそらく紫雲緋が最後の好敵手である。

 それは大望を思えば嬉しく無いではないが、何故か少し漢嵩の心に無色の風が吹くのを、否定する事は

出来なかった。




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