10-4.対翼、粉刃に舞う


 紫雲緋対漢嵩、おそらく最後にして最大の決戦となるだろうこの戦いは、驚くべき事に日が落ち初め、

朱に染まる頃に始まった。

 夜となれば両軍矛を収めざるを得ず。その真夜となるまでに小一時間も無いような時に戦を開始するな

どと、本来は在り得るべからざる事である。しかし始まったのは確かにその刻限であった。これは夕焼け

と言う誰の目にも明らかな自然現象があるから、間違えようが無い。

 それは無謀なのか、それとも焦りなのだろうか。

 確かに賦軍には焦りがあった。この要塞までの道のりに設置されていた、漢嵩の執拗なまでの罠を考え

れば、その被害も少なくは無く。そして皆が一様に憤っているのは確かである。

 元々不安定な精神状態であったのだから、そこまで心が揺らいでしまうのも解らない事ではない。

 しかしそれだけでは紫雲緋はこんな事はしなかっただろう。この小一時間で漢嵩を倒せる自信があった

のならば、それはそれで良いのだが。残念ながら彼女にはそのような自信は無かった。

 では何故こんな事をしたのか。それはようするに余裕が無かったのである。

 つまり最終戦場となる要塞到着時の賦軍には、最早一晩休んだとしても、その後一日を戦う気力が残さ

れて無かったのだ。

 人間疲労が極まると、かえって休めば動けなくなる事がある。気を少しでも緩めれば、そのまま甘美な

諦めへと流されてしまうからである。

 そんな事をするくらいならば、力を奮い出せるこの少ない時間に賭け、敵側にも少しでも損害を与え、

劣勢を覆す一手を指しておいた方がいい。

 そう考えての紫雲緋の決断であった。

 それにこれならば途中で例え退いたとしても、夜が来るから敵味方共に撤退とは思い難く、追撃される

心配も無い。士気もある程度保てるだろう。そしてもし少しでも戦果を上げられたなら、それによって疲

れを高揚で少しは補えるかも知れない。

 何しろここに来るまでの道のりで、賦軍は戦果らしい戦果を上げていないのである。

 それもこれも漢嵩の周到な罠のおかげ。流石に防衛ともなれば、漢嵩に一日どころか百日の長があった。

被害を受けるのみで、反撃の手を封じられる事は、賦族にとってこれ以上無い屈辱であるだろう。

 だが戦果を多少なりとも出せれば、その鬱憤を晴らす事が出来るかも知れない。

 望岱に漢嵩が篭っていた頃は賦に揺るぎは無く、流石に無闇に賦領土側へ行く訳にもいかず、罠らしい

罠を仕掛ける事は出来なかった。しかし今は話が違う。あの華麗なる大将軍も、流石に一人では賦国の隆

盛を取り戻す事は叶わず、それどころか他国で孤立してしまっているのである。

 ここまで弱らせてしまえば、以前のように些細な事に怖がる事は無い。漢嵩は長年に渡り考え続けてい

た事を、今やっと全て実行出来たと言う事になる。

 漸く能力の全てを出しきって戦える。

 統率力、単純に武力においても、漢嵩は紫雲緋には敵うまい。しかし罠や敵軍を惑わせ、思うままに誘

導する技術にかけては、そう言う陰の技術では彼女を大きく上回る。考えて見れば、賦族はそう言う搦手

(からめて)に関しては、まるで赤子のようなものなのだ。

 純粋な戦闘であれば、とても敵うまいが。戦とはそう言う一方面が全てでは無い。

 今になって賦が尽く敗れている原因も、正にそこにあると言えるだろう。

 漢嵩も正直に言えば、こう言う手を使わずに、真っ向から賦族を破りたい。しかしそれは叶わぬ夢であ

り、大国を背負う身ともなれば、そのような些細な個人の感情に拘る事は出来ない。

 そしてどんな手を取ろうとも、それもまた力である。知恵とは物理的な力なのだ。

 流石に玄のやったような事は論外ではあるが。別段、この大陸の民は策謀を嫌ってはいない。それどこ

ろか趙深の存在が現すように、あまりにも鮮やかで凄みのある策ならば、英雄の手とすら謳われる。

 それは驚くべき事に、策嫌いの賦族でさえ変わらない。

「だが、出来うるならば、賦軍にも全力を出し切らせ、それを打ち破って見たかった。碧嶺のように、華

々しく勝利してみたかったものだ。何故こうも策謀とは後味の悪いものがあるのだろうか。敵を弱体化さ

せ、そこを付け込む事に罪悪感を持つからだろうか。そして策を使わねば勝てぬ自分に、例え様も無い敗

北感に似たモノを感じるからだろうか」

 解らない。解らないが、やはり何処か虚しさを覚えてしまう。

「いや、そんな無意味な問いは勝ってからの事よ」

 漢嵩は一つ頷き、再び強く賦族を睨み付けた。まるで視線で彼らを叩き伏せようとでもするかのように。

 優勢を創り上げたとは言え、勝敗の行方が決した訳では無い。


 漢嵩は迫る賦軍を嘲笑うかのように、要塞へと篭った。

 貧弱な要塞ではあるが、それでも今の賦軍にとってみれば、山よりも高い障壁に思える。何しろ時間が

無い。賦の圧倒的な攻撃力を示す時間が、真に少ない。

 それを知ってか知らずか、北守兵も王に習うかの如く、一様に慎重であった。

 どれほど賦が突撃をかけて揺さぶり、臆したかと誘って見ても。北守側は一向にそれに乗って来る気配

が無かった。

 しかし静して居るにも限界があろう。

 疲兵とは言え、士気が落ちているとは言え、腐っても賦族。その力は北守兵などとは比べ物にならない。

 それに賦の生み出した恐るべき新兵器、強弩、も今は紫雲緋の軍勢が預かって居るのである。

 機械に生み出された人外の弾道と速度は容易く鎧を貫き、貧弱な防壁など微塵と砕く勢いであった。千

五百程度の強弩兵に北守兵はばたばたと射ぬかれ、一時は恐慌を来たすかとすら思えた程である。

 しかし幸いにもその使い手に未熟な者が多く(先の戦いで熟練兵を失ったのかも知れない)、北守側は

何とか持ち堪える事が出来た。

 北守兵も青海波、賦正と二度も賦軍と渡り合ってきたツワモノ達。これが最後の一大決戦とばかりに仲

間の死骸を乗り越え盾にして、一歩も譲らず退く気配も無かった。

 たかが一m足らずの防壁とは言え、それでも多少の効果はある。それに賦軍の馬も今までの道中に仕掛

けられた罠のおかげで傷付き、最早五体満足の馬は皆無であった。

 傷付いた足では、如何に鍛えられた軍馬とは言っても、流石に鎧を来た兵を乗せて高く飛ぶ事は出来な

い。この高々一m足らずが、馬にとっても山より高く見えた事だろう。

 そこに固く兵に陣取られては、流石に賦軍も力だけでは押し切れない。

 馬速も鈍った今では、弓矢の格好の的になるだけだろう。

 漢嵩も後先を考えていないが如く、何度も兵を増強し、重厚な陣形を保っていた。この小一時間の重要

さを彼もまた少なからず理解していたのだろう。それが思考の末なのか、はたまた戦場の勘であるのかは

解らないが。それは正鵠(せいこく)を得ていた事は確かであった。

 こうして戦況は膠着(こうちゃく)状態となり、それでも賦軍は当初の予想を覆し、二時間程も戦い続

け。流石に最後はまともに動くのさえ儘ならぬ状態となっては居たが、その恐怖は北守側を戦慄させるに

充分であった。

 疲れ果てた賦軍はようやく諦めて撤退し、そのまま大して野営の準備もせぬまま、泥のように眠りに付

いたようである。彼らの疲労感も更に募ったであろう。

 それは勿論北守側も同じであったが、漢嵩はこの時の為に一万の兵を温存させておいた。自らが率いる

騎馬兵と槍兵の一軍である。更に何とか戦えそうな者達を五千ばかり加え、時は今とばかりにこの軍勢を

疾走させた。

 常の夜襲のように静寂を保つ必要も無い。敵は最早限界である。何を気にする事も無かった。後は自ら

が討ち入ればそれですべてが終わるのだ。

「皆良く耐えた! ここが最後の正念場である。決して退くな! 戦乱の元凶であるあの土竜共を今ここ

で滅ぼすのだ!!」

「ウォォォオオオオオオオオオッッ!!」

 声も届けとばかりに張り上げ、果断に兵達を叫び続けさせた。

 この声と共に一丸となり、賦族への本能的に焼き付けられた恐怖を消す為である。例え疲弊尽くして居

ても、彼らは容易く討ち取られはすまい。

 漢嵩は被害の多さも覚悟している。それでもこの機会を逃す訳にはいかない。

 確かにこのまま凌ぎ続ければ凌ぎ続ける程、賦軍は弱って行くだろう。補給も無く、ここまで無謀とも

言える速度で行軍した結果、最早あの恐るべき耐久力にも底が見えている。しかし相手は賦族、安穏と待

って居ては決して討ち破れまい。

 そしてそのような消極的な手では、決して彼らの心を打ち折る事も出来ない。

「今もまた、決断の時である」

 漢嵩はそう判断し、要塞を央斉に任せ、自ら出陣したのだ。

 そして今回も彼自身が決着を付ける必要がある。自らの手で為した者にこそ資格が与えられるのだから。

王の資格、英雄の資格、或いは皇としての資格。漢嵩は、後々の事までしっかり考える必要のある時期に

入っている。

 漢嵩自身が賦を滅ぼす事、それが一度投降したと言う汚点を晴らす事にもなるだろう。少なくとも漢嵩

はそう信じている。彼はこの事に関して、多少冷静さを欠くきらいも無いでは無いが、今はそれも良い方

へ作用しているように思えた。 




BACKEXITNEXT