10-5.光芒散らず


 紫雲緋は困惑している。

 北守軍の夜襲、予想はしていたが、まさかこれ程効果的だとは。

 あの賦族が狼狽し、恐慌に陥っている。無様ではあるが、彼女から見ても仕方の無い事だと思う。何せ

彼らはもう満足に動けないのだから。

 見張りを置いて警戒に当たらせていたのだが、それも初めから意味が無かったようだ。

 例え敵影を発見出来ても、動けなければ意味が無い。

 となれば、かえって敵軍の襲来を告げるだけ始末に悪かったのかも知れない。這いずるように蠢く自軍

を見ると、彼女は思わず一筋の涙を零れ落とした。

 兵達は良くやってくれたのだ。紫雲緋の無謀とも言える作戦に、今まで良く付いて来てくれたと自分か

ら見ても尊敬する程である。

 彼らは玄宗との一戦で手痛い被害を出しても文句一つ言わず、このような窮地に陥ろうとも、その信頼

が崩れる事は無かった。

 しかしその心に、もうその身体が応えてくれない。

 兵達の叫び声が聴こえる。おそらく不甲斐無い今の自分に、人目を憚る事も忘れ、ただただ嘆いている

のだろう。こうなれば賦族もただの肉塊に過ぎず、兵ですらない一般の民にすら劣る。

 のろのろと這いずり回るくらいが関の山で、敵としてこれほど楽な相手もいまい。

 おそらく彼らは抵抗らしい抵抗も出来ず、北守軍に無残に討ち取られてしまうだろう。

「何とか逃げる手段だけでも講じねば・・・」

 しかし流石の紫雲緋も、動けない兵では戦術の練り様も無く。また彼らと同じように疲れ切った身体で

は、抵抗のしようも無い。

 馬も疲労の極みに達し、あまりの辛さに人と共に倒れ込んでいる馬も居た。

 賦族の誇る速度も武力も潰えたのだ。

 援軍も無く、後詰の兵も居ない。孤軍の儚さ辛さである。正にどうしようもないこの事態に、彼女が言

える事は唯一つしかなかったろう。

「全てを捨てて、身一つで逃げよ!!」

 例え混乱しても、狂乱しても良い。まだ狂った方が気も楽だろう。ともかくこのままではすぐに滅ぼさ

れてしまう。投降も誇りが許さぬ以上、最早ここで死に絶えるか逃げるかしかあるまい。

 先の小一時間が限度だったのだ。それを深く思い知らされる。賦族も人間である、限界を超えるような

力は出せないのだと。

 紫雲緋はただただ己を恥じた。自分の玄侵攻からの行動が、その全ての失態が、今明確なまでに眼前に

広がっている。そしてそこから目を逸らす事も、逃れる術も無い。

 彼女は兵達からの深い信頼に、報いる事が出来なかったのだ。

 ならばこそ、身を賭してでも彼らに道を示さねば。一人二人でも良い。少しでも多くの兵を助けたい。

「もしこの中で動ける者が居るならば、どうか私に力を貸してくれまいか」

 彼女の率いる精鋭の中でも、屈指の者が僅かな数だけだが、まだ少しは動けるようである。多分百名に

も満たないだろうが、それでも少しは時間が稼げるかも知れない。

 幸も不幸も今は夜である。大軍での撤退は無謀だが、逆に個人の敗走ならば逃げ延びる可能性は高い。

 それは軍勢として考えても同じ。かえって少数の方が効果的に運用出来るだろう。

 兵のほとんどは当然ながら精鋭中の精鋭であり、将来の将軍候補達。その命を散らせる事は、賦の将来

に大きな影を落す事になりかねないが。それでもむざむざ数万の死傷者を出すよりはましである。

 ここで全滅でもしようものなら、将来以前に、今立ち枯れてしまう。

 それにこんな状況だからこそ、それに立ち向かうのが指揮官としての心得。それが無いようなら、初め

から将軍になる見込みも無いし。例え将軍に就いたとしても、おそらくは満足な働きは出来まい。

「すまない。皆の命、この紫雲緋が貰い受ける」

 紫雲緋に従い騎乗する兵の目に悲壮感は無く、大将軍と共に死地へ踏み入れる栄光と、更に仲間を救う

と言う使命感に輝いている。最後まで彼女らの目は曇る事は無いだろう。

 それを見る紫雲緋に出来る事と言えば、謝る事、彼女らのような者が配下に居た事を神に感謝する事だ

けである。そしてその死を誰よりも惜しむ事。

 騎馬兵は少ないが。幸いな事に、弩兵と弓兵も志願してくれた。

 自由に動く事が出来なくても、矢を射、援護する事は出来る。それにいつも後陣に居るのだから、こう

いう時くらい我々に前衛を任せて下さい、と言って。

 死を賭した彼らの目も恐ろしく澄んでいた。

 紫雲緋でなくとも、彼らのこの透明な程に澄み切った願いを、誰が退けられると言うのだろうか。

「私は皆を誇りに思う!」

 紫雲緋は気合を振り絞るべく一声を飛ばし、疲れ切った馬に最後の仕事を与えた。

 馬はその意を受け、ただ一声いなないたのだった。 


 紫雲緋は駆けて行く。

 目前に広がる敵の群、正に針の縫う隙間も無い。それに引換え彼女の手勢は、後ろに居る弩兵弓兵達を

合わせても、おそらく二千には届くまい。

 彼女が駆ける度、悔しそうにそれを見詰める兵達は多い。しかし動けないのである。身体が動かない以

上、例え付いて行っても足を引っ張る事しか出来まい。

 だから悔しさに身を焦がす以外に、彼らの道は無かった。そして動けない身体に鞭打って、這ってでも

転がってでも必死に撤退しなければならない。例え辛くても誇りが傷付いても、そうするしか大将軍の想

いに応える術が無いからである。

 だがそれでも彼らは、この世に紫雲緋が居る限り、その最後を知るまでは、決してその場から退こうと

はしなかっただろう。賦族が生ある大将軍を放って逃げる事は考えられない。

 狂乱に陥っていた者達も、彼女が通る度、まるで乱れを風に吹き散らされるかのように、正気に戻って

行く。そして曇りの晴れた目で、必死に彼女を追った。例え闇がその間を塞いでも、彼らは追う事を止め

なかったであろう。

 彼らには解る。手に取るように。紫雲緋がどう動き、今何を為そうとしているのか。いつも彼女の下知

を受け、彼女のやり方を身に染みて知っているが為に。

 だがそれを思う度、止め処無く涙が溢れるのを抑えられない。

 彼女が死ねば、いくらどれだけの人数が生き延びたとしても、最早賦に明日は無いだろう。

 偉大なる統率者を失えば集団としての力も失せる。そうなれば、如何に賦族が強靭だとは言え、個々の

力で勝るとは言え、道を見失い暴走した後に疲れ果て、今のように無残な姿で荒野に屍を晒す破目となる

に違いない。

 それ故に彼女さえ消えれば、後の賦兵達は見逃される可能性も高い。だがそれを喜ぶ者が居るはずが無

い。誰よりも愛すべき、敬うべき大将軍を、むざむざ眼前で殺されるなどと、これ以上の恥辱はあるまい。

 弓兵や弩兵はまだ良い。彼らは微小ながらも紫雲緋を手助けする事が出来る。

 しかし弓や弩を持たない者はどうすれば良いのだろう。この動かぬ身体で、黙って涙を流すしか出来ぬ

とは、恥や誇りを汚す以上に口惜しい。それはある意味、この世で最も残酷な仕打ちである。

 敵対する漢嵩も、そんな彼らを思うと、流石に同情の念を禁じ得ない。

 しかしだからと言って、この夜襲を止めてやる訳にはいかない。こちらもそれ相応の損害と死傷者を出

している。ここで止めては、死傷者とその家族に顔向けが出来まい。

「敵騎発見、こちらを迎え撃つ模様。先頭に立つのは大将軍と思われます!」

 漢嵩に斥候として先行していた騎兵から伝達が入った。

 大将軍の甲冑は華々しく、決して夜目にも見間違う事は無い。賦族は影武者を立てるなどと言う姑息な

手段を使う事も無いから、大将軍に間違いは無いだろう。

「やはりそう来たか」

 漢嵩は一人呟いた。

 予想通り、おそらく自分でもそうしただろう。彼女のような高潔な魂を宿す方が、全てを見捨てて逃げ

るはずが無い。そしてであるからこそ、漢嵩はこの方法を選んだ。最も確実に彼女を殺せる方法を。

 しかし思えば何と言う事だろうか。

 望岱にて必死に賦族の侵攻を食い止めていた時、あの時は想像も出来なかった光景が目の前にある。

 次将軍に続き、賦王、よもや大将軍まで打ち破る日が来ようとは・・・。

 これは天の意志なのだろう。天は漢嵩を選んだのだ。でなければ説明が付かない。

 漢嵩は今でも五分で戦えば、決して紫雲緋に勝てない事は骨身に染みて解っている。このような勝利を

掴めたのは、正に天運と呼ぶしかない僥倖が続いたからである。

 人は彼を英雄だと言うだろうが、決してそうではない。少なくとも彼自身はそう思えない。これは天の

導きに従った、当然の結果なのである。彼が偉大だったのでは、偉大だっただけでは、おそらくは無い。

 しかしだからこそ漢嵩は真の意味で英雄なのかも知れない。碧嶺、趙深、壬牙、紫雲竜。彼らの誰も、

決して自らを英雄などと思いはしなかっただろう。

 だが人は呼ぶ、賞賛する。言って見れば、それが英雄の正体かも知れない。中身などどうでも良いのだ

ろう。人々からそう望まれれば、人は誰でも英雄にされてしまうのだ。

 英雄とは自ら成る者では無く、誰かからそうされる者の事なのだろう。

「紫雲緋、本来なら彼女こそが英雄に相応しい器であろうに。せめて最後は華々しく迎え撃とうぞ」

 漢嵩は暫しの感傷の後、尊敬すべき大将軍殿の最後を飾るべく、手を上げ振り下ろし、全軍に命令しよ

うとした。しかし正にその時、その時である。何やら後方から騒がしいモノが来るでは無いか。

 漢嵩は不穏を覚え、条件反射のように手を止め、馬速を緩めた。

 背後を振り向くと、伝令兵が怖ろしい程必死な形相で現れるのが見えた。まるで馬上で格闘するかのよ

うに暴れる様を見れば、夜闇にもどれだけ大事な伝令かが解る。

 漢嵩は待ちきれず、苛立ちを込めて声をかけた。

「どうしたのだ! 今は大事な時である。無用な事であれば、お主を叩き斬るぞ!」

「ハッ、申し訳ありません、漢将軍。しかしどうかお耳にしていただきたく・・・。援軍であります、敵

増援が現れ、我が軍後方から攻勢を仕掛けているのであります」

「そんな馬鹿な事が・・・。最早賦には余分な兵は居ないはずだ!」

 あまりの事に今までの感傷も先ほどの苛立ちも吹き飛び、漢嵩はただただ驚き、そして無念だが紫雲緋

を討つ事を諦めざるを得なかった。こちらも無理に無理を重ねているのである。後々の事を考えても、こ

れ以上無理は出来無い。

 北守も薄氷を渡るようにして来ている。援軍が来たとなれば、悔しいがここは退くしかあるまい。

「全軍に要塞まで引き返すように告げよ! 敵増援を凌ぎつつ、一時要塞まで引くのだ!」

 今まで無理を通し、この機会を作った事が無意味になってしまったのは真に口惜しいが。漢嵩には何処

か紫雲緋の命を消さずに澄んだ事を喜ぶ気持があるのを、心から否定する事は出来なかった。

 そして天がまだ彼女を見捨ててはいないと言う事が、それ以上に重く不穏な事に漢嵩には感じられた。

「天も彼女を惜しむか・・・」

 しかし本当に何処から軍勢が現れたと言うのだろう。




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