紫雲緋の窮地を救った、有り得ないはずの賦の援軍。 その正体はなんと、牙深からの趙戒率いる義勇兵団であった。 趙戒とはあの大軍師趙深の正統な血を受け継ぐとされている者である。 しかしその血によって賦族から敬せられては居ても、賦族の感情を逆なでするような策を弄し、その性 倣岸不遜と見なされ、賦族からの信頼は甚だ低い男でもある。 確かに賦正から後を頼むと託されたが、その後ろ盾となってくれていた賦正自身を失なってしまえば、 彼自身に従う者は少ない。とてもの事、軍勢を組織したり、国内をまとめたりと、そう言う事の出来る男 では無かった。 だから漢嵩も半分彼を無視し、紫雲緋が援軍も無く孤立した軍勢だとし、多少思いきりの良い作戦を立 てられたのである。 では何故、この趙戒と言う若者が軍勢を編成し、それを率いてここまで来れたのだろうか。 種は紫雲緋にあった。 確かに趙戒自体に信は無く、賦正を失っては彼一個など誰も顧ないだろう。だが知っての通り、紫雲緋 は賦族から女神のように慕われ、半分信仰に等しい感情を持たれている女傑である。 その紫雲緋の窮地を救うとなれば、例え統率者が趙戒だろうと誰だろうと関係無い。全土から喜んで、 いくらでも勇んでやって来ると言う訳だ。 それに賦正から後事を託された事は、半ば遺言になってしまっている。 賦族から父のように慕われる王の遺言となれば、ある程度は認めざるを得ない。義勇兵達も彼を推戴す る事を割りと素直に認めてくれた。兵を率いる将軍が今賦国に居ない以上、つまり他に頼れる者が居ない 以上、趙深の血を受け継ぐと言う彼の出自も大きく作用したと言える。 そう言う諸々の事情も手伝って、趙戒は短期間に二万近い軍勢を組織する事が出来たのである。 勿論正規兵では無い為、その実は歳若い少年少女兵や、すでに軍を引退した年寄りが半数程。多少使え るだろう後方支援をする為に置かれた者達も、全て集めても千人程度であろう。後は労働者達が大半を占 める。 それでも募集に応じ名乗り出た、十万近くの中から選んだ者達である(これはほぼ牙深周辺の総数に等 しい数である。それだけ紫雲緋が慕われていると言う事だろう)。行軍速度とその士気には自信が持てた。 しかし困ったのは武具と馬である。 引退した者達や都市内から何とか使える物をかき集めたが、どこをどう見ても貧弱としか思えない。あ の天兵の如く煌びやかな黄竜とはとても似つかなかった。 馬も足らない。 騎馬のほとんどは紫雲緋が使い。残った馬も賦正が使い果たした。 残った馬と言えば、農牧用の老いた引退馬と子馬だけである。流石に馬は諦めるしか無いだろう。 とにかく寄せ集めだとは言え、二万の軍勢を持った趙戒は、一路北西へと向ったのである。
実はこの援軍は紫雲緋が漢嵩の要塞に辿り着くまでに、その近辺までとうに着いていた。 雑兵と言っても賦族は強靭であり、馬の力を借り無くともその足は速かった。だから紫雲緋の窮地に合 わせるように現れた事も、それほど天運が作用したとは言い難い。 勿論、それだけ早く辿り着け、間に合ったと言う事自体が、天運と言えば天運とも言える。 しかし趙戒は逸る兵達を抑え、紫雲緋が来たと知ってもまだ兵を抑えていた。 賦の軍律は碧嶺から引き継いだ厳格極まり無いものである。将に考えがあると言われれば、兵はそれに 従うしか無い。もしその軍律を破れば、千年先まで汚名を負う事になる。 趙戒が策があるのだ、と自信満面に伝えた事も効果があった。趙深への崇拝の心が、今趙戒の武略への 信頼に転化し、素直に彼らを従わせたのである。 実際策もあった。 それに趙戒としては今出る訳には行かなかったのである。何しろこの軍容だ。日のある内に出てしまえ ば、一目で雑軍である事は見抜かれ、賦の内情をしっかと悟らせる事になる。 賦にはもうこの程度の兵力しか無いのだと思えば、最早漢嵩の躊躇は消え、援軍としての効果は薄くな るだろう。未だ漢嵩に賦への恐怖心が残っているからこそ、彼は慎重すぎる程に事を進めているのである。 そして例えこの雑軍二万を紫雲緋軍に加えても、この要塞を夜までに落せるとも思えない。 だから待った。 静かに漢嵩の出方を見、最も効果的に二万の兵を運用出来る瞬間を待ったのである。 その結果は誰もが知る通り。夜ならば兵のみすぼらしく古ぼけた鎧を見られる事無く、大軍の長所だけ を上手く使う事が出来る。 全兵の両手に松明を持たせ、如何にも大軍が現れたと演出する事も忘れなかった。 趙戒の考えでは、まともに戦えばおそらく一蹴される。北守兵の勢いは凄まじい。例え疲れていたとは 言え、あの紫雲緋率いる軍勢でも落せなかったのだ。趙戒率いる雑兵軍では時間を稼ぐくらいが関の山で あろう。 それに漢嵩の事だ。ある程度の兵力を温存させ、後の追撃に使う事も初めから考えていたに違いない。 更に今の紫雲緋軍の状態を見れば、いくら時間稼ぎをしても意味が無いと言える。 それならば兵力では無く、唯一誇れる兵数で勝負するしか無いだろう。 これから察すれば、趙戒の能力自体は趙深の子孫足ると言えるかも知れない。 時を見、現状を把握しつつ一番効果的な手段を創作出来る。この能力は正に名将に相応しいと言えるの ではないだろうか。 だが常に趙戒には不思議な暗さが伴う。凱の凱禅にも似た、小憎らしいまでの冷静さ、冷たさが何処か 彼の言動を暗く染めている。それ故に賦族が嫌うのだろうが、趙戒がそこに思い当たる事はあるまい。 そう思えば、賦族が生来陽気であり、陽を尊ぶ事が、趙戒にとっての最大の不幸だったのだろうか。 ともかく紫雲緋を救ったのだから、趙戒の評判は上がるだろう。勿論それが彼の狙いの一つでもあるに 違いない(この計算高さもまた暗さであろう)。 しかし賦の状況は変わるまい。雑兵二万が増えた程度で、今の劣勢を覆す事は出来ないだろう。 それに北守だけでなく、凱も虎視眈々と領土を狙っているのだ。 時勢は賦が滅ぶ方向へ、着実に向っているように思える。 良くも悪くも。多かれ少なかれ。
紫雲緋は辛くも牙深へと逃れた。 趙戒の援軍の助けを借り、彼らに背負われるようにしてその軍兵の多くも逃れ得たのである。 しかし勿論歓喜している余裕は無い。うかうかしていれば漢嵩が援軍の実情を知り、怒りに燃えて追撃 して来るかも知れない。 言わば漢嵩を騙して紫雲緋を奪ったのだ。それを知れば彼の怒りがどれ程に膨れ上がるか、容易に想像 出来るだろう。大将軍を倒せる絶好の機会、これを失った事は大きな損失である。 彼女の率いる兵も休めば息を吹き返す。まともに戦えば、まだまだ北守には遅れを取る事は無い。また 一戦見(まみ)える事も可能だろう。 逃れ得た事こそ、単なる幸運である。漢嵩が国内情勢を見て、結局は慎重に帰した。だから追撃されず に逃げ切る事が出来た。実情はそれだけに過ぎない。 援軍の実体もおそらくすでに知られ、漢嵩は安堵しているだろう。そして彼に二番煎じは通じまい。 単純に数だけ揃えても、それだけではどうにもならない事は、皮肉な事にこの賦族が何度も証明してい る。義勇兵の中から多少使えそうな者は即座に黄竜に編成され、今も訓練が続けられているが。やはり何 処か不安が残る。 兵数は三万程度にまで膨らみ、いざとなれば全国民で迎え撃つ事も出来るのだが、それでも賦族の心は どうにも晴れない。どうしても曇りが残る。 だがとにかくも紫雲緋は牙深へと戻った。 趙戒の声望も大きく上がり、未だ嫌悪の情は残っているものの、彼個人に対しても賦族は威を感じるよ うになったようだ。 この大陸は実力主義である。その力を示せば、上に立つ事を阻む者はいない。 紫雲緋が正式に彼を軍師に任命した事もあって、大将軍の次位に就く事を反対する者もいなかった。よ うやく彼は自立出来たと言っていい。 だが賦の劣勢の本となる、玄への大規模な侵攻が、他でも無いこの趙戒の献言に寄る事を知らない者も いない。それに元来の不人気も手伝って、内心釈然としない者も多く居ると思われる。 自立したと言っても、か細い糸の上に立って居るようなものであり、甚だ心許無かった。 今は大将軍が賦正の言を重しとし、彼を立てているから皆素直に従っているが。賦族の力の一つである、 あの強固な信頼関係に微妙な圧力を加えている事は確かだろう。 それを彼当人が自覚しているかはどうかとして、多少目のある者はそれについての危惧を抱かない者は いなかった。 その一人が賦の南部拠点、栄覇(エイハ)を預かる白晴厳(ハクセイゲン)である。 栄覇では依然緊張状態が続いていた。 賦正からの援軍一万を得、ようやく息を付けたのではあるが。形振り構わぬ凱のやり方には恐怖すら覚 える。 恐怖、思えばそれを知った事が一番の痛手なのかも知れない。 紫雲緋の軍勢も然り、今預かっている紅瀬蔚(コウライウツ)の軍勢も然り、どちらの兵も他国者に恐 怖を抱いた。これは彼らの勇猛心に、例え微小ではあるが、確実に影を差す。 当然それは賦の勢いを弱める事に繋がる。 つまり賦族は今、その力の根本である勇気と信頼に翳りが見え始めたと言う事になるのだ。そう考えれ ば、今の衰えも納得出来よう。 力が衰えれば、自然の流れとして衰退して行くものである。 盛者必衰、そんな言葉が白晴厳の脳裏を過った。 そして更に深刻な事は、その翳りと言うモノは伝染すると言う事である。 「このまま行けば、賦族は滅んでしまうのではないのか・・・」 白晴厳は溜息を吐く。 黒双が落ち、北部一帯を抑えられてしまった今。この栄覇までを失えば、両翼をもがれるに等しい。 賦族の勢威を支えていた豊富な食料と資源。それは当然のように大地から来る。即ち領土である。 それを大きく削がれてしまえば、大軍を抱えるが故に、食糧不足は深刻だ。古来より飢えた国が天を掴 んだ例は無く。また飢えが国家の滅亡の、一番多くの要因を占める。 飢えれば暮らして行けず、それでも生きる為に盗賊や強盗の類が増え、結果法も秩序も崩壊し、自然の 流れとして国は滅ぶ。 栄覇が落ちれば、南部一帯を手放すに等しく。そうなれば益々兵を養う事も出来ず、多くは流民となり 迷走し、賦と言う国自体が崩壊してしまうのではないか。 そうなれば再び大陸人の奴隷として生きる事になるかも知れない。 いや、ここぞの機会とばかり、根絶やしにされてしまう可能性もある。 どちらにしても賦族は大きく減少し、最早二度と自らで立ち上がる事は出来なくなるだろう。力を失っ た誇りだけの賦族など、最早賦族とは言えない。 力無き誇りなど、文字通り無力でしかない。 「大将軍閣下が御無事なのはこれ以上無き至福ですが。紅瀬上将も重症で、他の将軍も居ない今。私とあ の趙戒だけで他国に抗し得るものだろうか。賦国は柱石となる人物を三人も無力化された。そして何より 重大な事に、私は将の器では無い」 白晴厳は良く兵を統御し、凱への威圧を忘れず良く警戒してもいるが。とてもの事、歴代の将軍のよう に単騎戦場を駆けるような真似は出来ない。 賦の軍勢に必要なのは猛将である。猛々しく力強い指揮官が居てこそ、初めて賦族の力を発揮出来る。 しかし彼は馬の扱いは巧みだが、個人的な武勇においてはさほどでも無い。ようするに苦手なのだ。 だがやらざるを得まい。白晴厳がやらなければ、他にやれる者がいない。ならばやるしかない。 悪い事に再び凱に大きな動きが見えるのである。 むしろ今まで時を稼げたのが不思議かも知れない。それだけ凱国内も揺らいでいたと言う事だが、逆に 言えば、王凱禅が今それだけの力を持つに至ったと言う事でもある。 最早やるしかないのだが、困った事におそらく賦族で一番不安を覚えているのが自分なのだ。 白晴厳の胸中は安定する事が無かった。 |