10-10.衰退


 結果として賦軍は敗れた。完敗したと言っていい。

 白晴厳も善戦し、一度は前部隊と共に包囲を突破したかに見えたのだが。それも凱禅の意図する所であ

り、俊敏に動く凱軍によって即座に追撃を受け、後部隊と完全に分断されてしまった。

 勢い良く飛び出した軍勢が急に止まれるはずも無い。結局ずるずると後部隊より切り離され、待ち構え

ていた新手によって無残に潰されてしまったのだった。

 白晴厳以下ばらばらになって逃げたが、将兵の多くは捕殺され、栄覇も捨てるしかなかった。

 分断され、置き捨てられる形になった後部隊は更に酷い。勿論散々に抵抗し、凱軍へ少なくない被害を

与えたが、最早士気も秩序もあったものでは無く。個々が最後に散り花を咲かせようと奮闘したのみであ

り、意外に思える程あっけなく全滅した。

 死ぬ為に戦っているのだから、諦めが早くあっけないのも当然かも知れない。戦としての損害は少なく

は無かったが、賦相手の戦としては類を見ない程少ない損害となった。

 その功により、凱における凱禅の権勢は頂点に達した。

 そして事実上賦国は瓦解した事になるだろう。

 大兵力の源である大穀倉地帯の半分以上を奪われてしまったのだ。常に戦争を続けていたのだから、そ

の備蓄も多くは無く。兵数も半減したとは言え、まだまだ人口は多い。このまま常のように振舞えば、遠

からず飢餓に苦しむ事になろう。

 賦族は例え飲まず食わずでも戦う意志は衰えまい。しかしいくらなんでも、喰わねば人は動けない。精

神力だけで戦えるなどとは、妄想以外の何ものでも無いだろう。

 となれば、最早賦の脅威は過ぎ去った過去と見れなくもない。

 白晴厳は敗残兵を集められるだけ集め、牙深へ連れ戻した後、そのまま死のうとした。ここまでの敗北

をもたらしたとなれば、とても生きて居られるものでは無い。高潔な人間ほどその想いが強いものだ。

 しかし紫雲緋がそれを止めた。

 平素であれば、そのまま死ぬのも良いだろう。いや、むしろ褒めるべきかも知れない。その心構えを。

「ですが今は賦国滅亡の危機にあります。死して逃れるくらいならば、生涯の辱めに耐えなさい。そして

彼らの死を無にしない。それこそが生き残った者が責任を取ると言う事であるのです。私は父からそう教

わりました。だから今も私は生きて居るのです。貴方はそれでもまだ独りで死を望みますか? 容易い道

を選べる程、敗戦の責は軽くないはずです」

 紫雲緋も敗戦の将だけに、痛い程気持が解ったに違いない。それに白晴厳は慣れぬ総大将役を務めたの

だ。やるしか無かったとは言え、何やら気の毒にさえ思える。

 運が悪かった。それだけでは済まない問題ではあるが。それでも、何かしらの許しはあっても良いので

は無いだろうか。それに今回負けたのは彼だけの責任ではあるまい。

 勿論一番大きな責任は、彼自身が負うしか無いのだが。

 とにかく紫雲緋は監視役を付け、白晴厳の自刃を止めた。そして彼女に諭されれば、白晴厳ならずとも、

誰が一体何を言えると言うのだろう。安易な死への道は諦めるしか無かった。

 その言にも確かに大理がある。将軍級の人材が何人も倒されている今、彼までもがその任を放ったとす

れば、しかも望んでそんな事をしたとすれば、それこそ永遠の恥であろう。

 歴史が残る限り、彼は自分の責任から自己満足な死によって、困難な未来から逃げ出したのだと、永久

に蔑まれる事になると思われる。

「この身命在る限り、決して無為には致しませぬ」

 白晴厳は最後まで生き、最後までその任を全うする事を改めて誓った。

 こうして紫雲緋は有能な参謀を失わずに済んだのだが、難局はこれからである。

 これからは今まで以上に難題が押し寄せるに違いない。

 幸いな事に、戦は一時収まっている。おそらくここ一月や二月で北守も凱も攻めて来るような事は無い

だろう。何しろ両国とも、賦国よりはましだが余裕が無い。

 賦族が大陸人に従う事は決して無く、彼らは敗北したとなれば大人しくその土地を去る。であるから、

早急に民を移民させ、一から拠点を造り直さなければならない。

 城塞の修復も必要だろう。賦族はそう言う防御設備に頓着しないから、最低限の状態維持程度しか行っ

ていないのが常である。それらに金も時間も膨大にかかる。

 そして一番の理由として、それらを放って賦国を滅ぼせる程の戦力はどの国家にも無かった。

 だから賦にも少しの時間はある。

 北守はすでに限度を越える程に出兵を繰り返して来ているし、凱も単独で賦を滅ぼせるような兵力は無

い。この際一挙に滅ぼしてしまうのが理想なのだろうが、そんな意欲だけでは一国は滅ぼせない。無理は

あくまでも無理であり、人も国もやはり絶対的な限界と言うものがある。

 それに快勝を得た事で、国民達もまずまず満足している。ここで無理をさせるよりも、休ませて落ち着

きつつある戦争気分が再度高まるのを待つ方が得策かも知れない。今は勝利の余韻に浸る時だと、漢嵩も

凱禅も判断したようであった。

 とは言え、依然軍勢は賦領土境界線に集中されており、虎視眈々と賦国を狙っている。

 そう言う意味では、未だ戦は続いていると言えるかも知れない。

 多少の時間があるからどうにかなると言う事では無いのも、また確かな事であろう。


 壬国参謀府内にて、蒼愁(ソウシュウ)は参謀長、蜀頼(ショクライ)と共に、年明け早々からの矢継

ぎ早に激変していった情勢をまとめていた。

 これは壬国大陸史として後の世に残す為でもあるし、単純にこれからの国の方針を決める上で参考にし

たりもする。こういった情報をまとめると言う作業は地味ではあるが、それだけに非常に大事な作業であ

ろう。

 参謀とは本来、こう言った地味な作業をこそやるものだ。

 参謀と聞けば、戦時での戦略戦術に目が行きがちであるが。実は諜報や情報整理などの仕事が主なので

ある。こうして情報を事前にしっかり把握しているからこそ、非常時に重要な役割が出来るとも言えよう。

「しかしこう見ると。今までのゆったりした歴史が嘘のようだ」

 蜀頼が溜息のように呟いた。

 碧嶺から800年近く、国の興亡は絶える事無く、平穏無事とは無縁の歴史ではあったが。それでもこ

の一年余りの間ほど、急激に情勢が変化した時期も無いだろう。

 特に漢嵩と言う一個の武将の進退が目まぐるしい。ある意味、この期間は彼の歴史であったとも言える。

 降将から一躍大国の王である。これほどまで急激に成長した人間も居ないのでは無かろうか。あの碧嶺

と比べても、彼の飛躍は抜きん出ている。正に今、天は彼と共にあるのだろう。それを彼自身がどう考え

ているかは別として。

「はい、同時代に生きる私達から見ても、信じられない程です。おそらく後世の歴史家達に良い刺激を与

えるかと思います」

 この時代の人間は、何よりも後世と言うものを意識して生きている。こう言った思想は何も蒼愁だけの

モノでは無い。

「賦の成長は完全に止まりました。北守は限界まで膨らみ、暫くは身軽に動けないと思えます。凱はこの

二国よりは柔軟に動けますが、単独で何事を為す国力はまだありません。変らないのは我が国だけですが、

しかし壬もこのままでは居られないでしょうね。いずれにしても大きなうねりの中に巻き込まれざるを得

ません」

「うむ、わしもそう思う。我が国は依然最弱ではあるが、今はどの国も使える物は何でも使うだろう。さ

て、我らはどうすべきかな」

 それを聞いて蒼愁が半ば困ったように微笑した。

「どうするもこうするも、我々はここを護るので精一杯。とても何かを為す事は出来ないでしょうね」

「ふむ、そう言えばそうか」

 蜀頼も笑う。

 変らないと言う事は、つまりはそう言う事である。壬も遊んでいた訳ではなく、この機会に富国強兵と

頑張ってはいたが、所詮は焼け石に水であろう。数月頑張れば覆せる程度の国力差では無いのだ。

「とにかく従来通り防衛に徹しなければなりませんね。未だ北昇一帯には不安が残りますし、国内だけで

手一杯と言う状況です。あれだけ肥大した以上、北守も漢将軍だけの意志では動かせないでしょうから、

北守の動向にも今まで以上の注意が必要になります。急げ無くても、急がねば」

「幸か不幸か、壬の方針は変らぬ。防衛に徹するしかあるまいな・・・しかし、ふはははははッ」

 そこで何事を思ったのか、再び蜀頼が声を上げて笑った。

 蒼愁が小首を傾げる。

「いや、急げ無くても、急がねば、がな。それが何とも・・・」

 それ以上はおかしくて声にならないらしい。私室であれば、おそらく彼は転げ回って笑っただろう。

「確かに。言葉としてはおかしいですね」

「うむ、うむ。書記などが居る場所で無くて良かったわい」

 そうして不謹慎ながら、暫し二人は笑い合った。

 他の参謀も慣れたもので、そんな二人を無視しながら、懸命に働いている。また始まった、くらいにし

か思ってないのだろう。

「後は我々に矛が向く時が、せめてより遠い未来である事を祈るのみですね」

「となると、これからは外交府により働いて貰わねばなるまい。饅頭でも差入れておこうか」

 二人は頷きあい、席を立った。そして参謀府の意向を伝える為に、王達の下へと向う。

 これからが壬にとって、真の興亡史になるだろう。天の試練はここから始まるのだ。壬と言う国が、果

たしてこれからも必要なのか、その力と価値があるのか。それを量る為の試練が。

 いつでも人間達は天に試されている。その事を忘れた時、国も人も滅ぶのだろう。

 彼らは次なる歴史へ進む。望もうと望むまいと、時と言うものが、常に流れ続けているが故に。

   

                       第一部 五国家興亡異聞 夢幻の腕   了    




BACKEXITNEXT