10-9.最終宣告


 賦軍は敵先鋒を容易く破った。

 それを目にし、白晴厳が訝ったのは当然の事であったろう。先鋒に弱兵を当て、しかもこのような少数

で攻め寄せるなどと、軍令違反とでも思わなければ納得出来るものでは無い。

 凱禅は愚かでは無い。おそらくこれにも必ず理由があるはずだ。

 白晴厳は悩み、警戒して速度を緩めた。

「何を仕掛けてくるか解らぬ。警戒を強めよ!」

 そして罠を警戒するように全軍に告げる。

 ずっと賦軍が駐屯して居たのだから、この栄覇近辺に大掛かりな罠など仕掛ける事が出来ないのは瞭然

なのだが。何しろ賦族の頭の中には、先の火計の事がある。当然、警戒心は強くなるものだ。

 本来ならば、勝ちに乗じて襲いかかるべきなのだが、警戒心から今の彼らにはそう言った思い切りの良

さが欠けてしまっている。

 慎重なのも悪くは無いが。かといって、このような緩慢な動きでは、敵軍の格好の的であろう。

 鈍重な軍隊などは、まともに機能しているとは言い難い。

 しかしそう思ってはいても、賦軍は無闇には動けない。当初の白晴厳の思いと裏腹に、まったく軍隊と

して精彩を欠く事となってしまった。そして将に迷いがあれば、それは兵にまで伝染する。しかも賦族は

上下左右、どちらの繋がりも強い。それがこう言う場合には裏目に出るとも思える。

 ようするに感染速度が速いのである。

「フハハ、あれが我らが恐れていた賦族とは」

 凱禅はそんな賦軍を見、その顔に自信が満ちる。

 こうも上手くかかってくれるとは、流石の彼も想像していなかった。やはり賦族と言うのは、こう言っ

た謀略的な心理戦では赤子のようなものであるらしい。笑いを通り越して、哀れさえ満ちてくる。

 これでは如何に賦族と言えども、普段の半分の力も無いだろう。場を圧する程の恐怖感も、今は微塵も

感じない。まるで賦族が小人になったかの如く、自分から見てあまりにも無力な存在に思えた。

「これが常は奴らが見ていた光景なのであろうな。だが、最早この眺めは我がものだ」

 凱禅は今すぐ突撃を命じたい衝動を抑えながら、あくまでもじっくりと軍勢を動かした。ここで焦って

は元の木阿弥になってしまうだろう。こちらが焦ってはいけない。相手が焦れて焦れて、もう居ても立っ

てもいられなくなるのを待つのだ。

 そうすれば、勝利はあちらから転がり込んで来る。

 もしこのまま動きが無いとしても、それはそれで良い。

 野戦で敵軍から攻められるのは、賦族にとってさぞ口惜しい事であろう。どちらにしても賦軍の理性は

失われる。冷静さを欠いた軍隊相手の戦など、赤子の手を捻るようなものだ。

 どちらになっても利があるように。それが生まれ出でた時からの、凱禅の基本思考である。いや、絶対

的思考と言っても良いかも知れない。彼のやり方は、とにかくその言葉に尽きる。

「焦るな! 焦らず機を待つのだ」

 凱軍の動きは、速くも無いが遅くも無い。兵が逸る事も鈍る事も無いだろう。

 それにあの賦の軍勢が、天兵と見紛うた黄竜が、自らの眼前で老馬のようによたよたと、常のように軽

快な動きを見せず、ただ無様に迷って居るのだ。凱の民は他国よりも賦国への恨みが深い。その積もりに

積もった恨みを成就するこれ以上無い機会なのだから、これで奮わない訳は無かった。

「白晴副将、このままでは良い的になってしまいます。兵達も戸惑いを隠し切れません。何卒、今は何よ

りも迅速な御判断を!」

 焦れた大長が寄越したのだろう。伝令の一人が、彼自身焦れた顔でそう告げた。

 確かにこのままでは不味い。弩兵の戦果は少なく無いが、それだけでは牽制程度にしかならない。やは

り賦族とすれば、正面決戦こそが戦であり、己の見せ場でもある。それをこうも鈍重な進軍速度では、流

石に不安を拭い切れまい。敵は目前なのだ。

 白晴厳もそれは重々解っており、むしろその不安に侵されているのは彼自身の方だったが。それ以上の

警戒心が進む事を許さないのである。怖いのだ。迷うのだ。どうしても納得の行く道が見付けられない。

これ程の苦痛は他に無いだろう。

「全軍、進め! 中央突破せよ!!」

 しかし流石にいつまでもこのままで居る訳にはいかない。白晴厳は喘ぐように命を下した。

 ようやく手綱を放された賦軍は雄叫びを上げ、夢中で駆けて行くが、その光景さえ、今は悲壮にしか見

えなかった。


 賦軍が総攻撃を駆けて来る。

 流石に世に恐れられた賦の突撃。見ていると背筋を走るモノがあった。しかしそれも一時の気の迷い程

度の事である。人の心とは不思議なモノ、同じモノを眺めているのに、こうも違うものだろうか。

 賦軍からは勢いと言うモノが感じられない。

 勢いの無い軍勢など、有名無実な存在であろう。如何に猛々しく、如何に美々しく思えても、何処か滑

稽に、そして無様にすら見える。

 そして凱禅は確信する。賦の命運は終わったのだと。

「中央は下がり、左翼右翼は現状を維持するのだ!」

 凱軍はなだらかなへの字を逆にしたような陣形に変える。所謂、鶴翼(かくよく)の陣。鶴が翼を広げ

るように、相手を包みこむように、広く横に布陣する陣形である。これは敵を包囲する時や、場を広く守

る時に使われる守りの構え。

 だがあまり広く浅く構えず兵力を密集させ、個々の陣を厚くさせているから、への文字線が分厚くなっ

ている。

 おそらくあまり層が薄いと、そのまま賦軍に突破されてしまいかねないからだろう。

 時を失いつつあるとは言え、彼らの突撃は苛烈極まりない。軍律を厳しくしていても、その姿を見れば

兵が逃げ出す可能性もある。厚くしているのは、それだけ個々の身動きを圧し、逃げ場を無くし覚悟させ

ると言う意味合いもあるのかも知れない。

 逃げ場を失い覚悟すれば、人間誰でも自然に奮起すると言うものだ。

 そして凱禅ならば、上手くそう言う形に持って行けるだろう。そう言う自信があるから、こう言ったあ

る種威圧的な兵法も取れる。

 凱兵の動きも悪くない。彼らの働き如何では、明日の命が無く。逆に手柄を立てれば無制限の報酬が待

っているのだ。是も否も無く、文字通り必死に動くしかないのだろう。欲望と恐怖に追い立てられながら。

 それに密告も奨励されているから、常にお互いがお互いを監視し合っているようなもので、一瞬足りと

も気が抜けない。凄まじい緊張感の中、凱兵は機敏に動いた。以前の凱兵からは、とても想像の付かない

働きぶりである。

「初めからこうすれば良かったのだ」

 凱禅はそれを見て深く笑みを漏らした。

 自分の思惑通りに事が運ぶ。これ以上喜悦に満ちる事は無いのではないか。全てを己がままに、それこ

そが人間の最も深い欲求の一つなのかも知れない。

 しかしそれこそが破滅の道であると、万人がいずれは理解する。

「来るぞ! 今こそ積年の恨みを晴らすのだッ!!」

 凱禅の声が届くか届かぬかの内に、賦と凱の軍勢が真っ向からぶつかった。これだけ見れば、正に賦の

望む戦の在るべき姿。しかし内情は欠片も一致していない。

「ウォオオオオオオオオオオオッ!!!」

 賦軍は怒声を発しながら、常と同じように凱軍を押しに圧した。しかしどうもおかしい。

 一体自分は何処で何をしているのだろう。自分のしていた事は、こんな事では無かったはずだ。こうな

るはずが無い、例えるならそんな方向に望む事無く向いつつあった。

 それは何かに吸い込まれているようでもあった。自らの足で進んでいるはずが、いつの間にか何処とも

知れぬ場所に誘い込まれている。そんな感じであろうか。

 そんな賦軍を嘲笑うかのように、凱軍は機敏に動く。

 逆への字の先がするすると動き、賦軍を包囲する。次いで左右から挟撃を烈火の如く浴びせられ、賦の

軍勢は中央から見事に分断されてしまった。そして大将と引き離された後部隊に対し、将を中心に攻撃をしか

け、指揮系統をずたずたに引き裂いた。

 半月を二つ重ねたような姿に窮屈に押し込められ、指揮官の指令も間に合わず(または殺されてすでに

指揮は無く)、賦兵は進むべき道を見失った。

 突撃は組織的に大量の兵が一つの方向へ向うからこそ、あれ程の威力があるのである。個々がばらばら

の方向を目指しては、その力は霧のように溶けてしまう。

「ええい、そのまま抜けよ!! 我に続け!」

 前部隊と共に居る白晴厳もこれこそ敵の思う壺だと勿論理解していたが、それでも他に方法は無く。こ

こに至っては、最早力に任せて突破するしか無かった。

 一方向を槍先で指し、大声で指令を飛ばす。

 例え半数が無力化されようとも、これしか無いのだ。他に方法は無い。

 遅かれ早かれ、賦はこうなる破目になったのだろう。中央突破して敵陣を粉砕する。それだけが賦の必

殺の戦法なのだから。

 逆に言えば、結局それ以外に方法は無いのである。賦族は力押しに攻める事だけを、ただ一念にして何

年も何年も飽きる事無く鍛錬を積むのだ。そして一つしか選ばなかったからこそ、彼らの突撃は鬼神も恐

れる程の力を発揮したに違いない。

 それは偶発的に出来たものでは無く。意図的に作り上げられたものなのだ。

 しかしそれももう時代遅れと化したのだろう。碧嶺、紫雲竜より早八百年近い歳月が流れている。どれ

だけ素晴らしいモノであれ、それだけの年月が経てば、流石に化石染みて来る。

 もうあの時とは時代が違うのだ。例え紫雲海が今に適応させて、多少改良したとしても、騎兵だけで勝

てる時代では無い。碧嶺軍の必殺の戦法も、最早時代遅れと化した。

 この戦法も一般化してしまった以上、どれだけ優れていても、必殺の力とはなれないのかも知れない。

個人だけが、或いはただ一国家だけが独占する力だからこそ、それは有用であったのだろう。

 そして賦族は今まで最強足らしめていた固有の力も失った。即ち大陸人からの恐怖心を。

 専一の力を失った今、賦が敗北を喫するのは当然の事かも知れない。

 賦族は強弩など武具の開発だけで無く、もっと根本的な変化を、いや進化をするべきだったのだ。古き

力に頼るのも良い。だがそれだけではいずれ通用しなくなる。それは自然の理である。

 白晴厳は無駄と思いつつも必死に叫びながら、いつの頃からか静かに涙を流していた。     




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