職務を全うせよ

2-3.蒼愁、立つ

　宿場街趙庵（チョウアン）は騒々としている。

　家財道具を牽いて逃げ出す者、槍一本持って志願兵として駆け出す者、種々様々だが黒竜の指示の元、そ

れなりの組織性を持って動いているのは、住民達が未だ理性を保っている証拠だろう。その一つの要因とし

て、大陸最強を自負する黒竜の名に安堵する所も多いと考えられる。黒竜がいれば安心だと、そう壬国民は

誰しもが思っているはずだ。建国王、壬臥（ジンガ）の政略はここでも生きていると言える。

　そしてそんな沸騰した街並みを場違いにもゆらりゆるりと歩いている者が一人。目の覚めるような蒼を纏

った青年、蒼愁（ソウシュウ）である。

　前述したが、黒竜試験に受かってもすぐに出仕する訳では無い。武官には黒鎧、文官には黒装束を揃える

必要があり。その他にも刀剣類から部屋割りまで雑務は無数にある。それを準備するのに大抵一月かかり、

それまでに合格者は実家や友人知人に合格報告をしたり、祝宴を開いたり、一人前と言う事で婚礼を行った

りもするのである。

　この一月が国にとっても合格者にとっても大事な準備期間であり、ある種の儀式でもあると言える。

　この蒼愁も例外では無く、黒竜から呼ばれる日を心待ちに、一時この趙庵に戻って来ているのだ。

　凱旋当初は偉い騒ぎで、あの蒼愁が合格した、あの蒼愁が合格したのだと、言わば街中が驚き返り。連日

知り合いやら親戚等の相手と祝宴で流石の蒼愁もてんてこ舞いだったのだが、今はそれも落ち着き一人で外

を出歩けるまでになっている。一張羅の蒼衣を着たままなのはその名残でもあるかも知れない。

　そして家族の反応はと言えば。父、蒼明（ソウメイ）は合格を聞いて何とも言えない顔をし。母、蒼瞬

（ソウシュン）はあらあらまあまあと腕によりをかけてご馳走を作ってくれたのだった。つまりはいつもと

そう変わりは無かったのである。

　しかしそんな風に順風満帆に過ごし、ようやく落ち着いたと思った矢先にこの騒動。どうやら蒼愁ののん

びりとした日々は出仕前から終ってしまったようだ。

「蒼愁君、何をのんびり歩いているんだい。敵襲だよ、敵襲！」

　出店をせっせと畳みながら、店主らしき小太りの男が蒼愁に話し掛けてきた。

「あッ、厳高さん」

「あッ、厳高さん。じゃないよ、まったく。君は相変わらずだなあ、ほんとに」

　厳高（ゲンコウ）と呼ばれた男は苦笑とも呆れともつかない表情を浮かべる。それから、見てみなさい、

とでも言わんばかりに周りをぐると片手で指し示し。

「皆がこう慌てふためいているんだ。たまには君も一緒になって少しは慌ててみたらどうだい」

　そう言って大口を開けて笑った。

「でも、本当なんですか。双の大軍が攻めてくるなんて」

「ああ、黒竜自ら避難誘導に来ている事もあるし、聞いた話ではどうやら確からしい。何でも数万と言う大

軍だそうだ。そして率いているのはどうもあの漢嵩次将だと」

　この厳高、どこで仕入れてくるのか民間人ながら不思議とこういう情報にも詳しい。商売をしている者は、

自然情報通になるものだが。しかしここまでは普通知らない。

「数万・・・それはそれは・・」

　蒼愁はそれを聞いて何事か思う事があるらしく、腕組みをして眉根を寄せた。

「ああ、と言う訳だから君も早く家に戻った方がいい。もう蒼明さんも戻っているはずだ」

「父が？」

「そりゃ家族の一大事だからね。おっとわしも急がないと。じゃあな、蒼愁君」

　厳高はふと思い出したように、再びあくせくと避難準備を始めた。もうこれ以上は邪魔をしない方が良い

だろう。

「しかし数万とは・・・そして漢嵩次将・・・・うーん」

　蒼愁は道端でそのまま暫く考えていたが、やがて意を決したように家路を急ぎ始めた。この青年、決断す

れば行動は速いようだ。

　蒼愁の実家は街の喧騒とはまるで無縁なように落ち着き払っていた。一つにはここが元々街の中心より離

れた静かな場所だと言う事もあるのだろうが。

　厳高の言ったように両親ともに在宅していたのだが、まるで慌てるでもなく。父は本を読み、母は食事の

支度に勤しんでいるようだった。こちらもまるでいつもと変わらない。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい」

「うむ」

　母と父の返事もいつも通りであった。父、蒼明が双の来襲を知らない訳は無いのだが。

　ともかく蒼愁もまた、いつものように食卓の前へと座した。食卓に並べてある料理は野菜煮込みに米を入

れたようなモノで、野菜粥といった感じの物だった。野菜の持つ独特の香りがする。これも蒼家の定番料理

であり、消化に良く食べ易い。

「それではいただこう」

　いつの間にか父も母も同じように座しており、三人はいつも通りにゆったりと食事を済ませた。食事と睡

眠はゆったり摂ると言うのが蒼家の家風である。

　そして暫し料理に舌鼓を打ち、母が後片付けを終えた後、ふと思い出したように父が立ち上がり。

「さて逃げるとするか」

　それだけを無造作に言うと、そのまま身一つでささと外へ向かって歩き始めた。

　母も微笑みながらするするとそれに従う。

「父上、お待ち下さい」

　それを蒼愁は慌てて引きとめた。

「私はこれから国境の砦へと参りたいと思います。一人行く事をお許し下さい」

　礼の姿勢をとり、それから決意を込めて蒼明を見詰める。

「そうか、仔細無きように」

　しかし父はあっさりと認め、母を伴ってまたささと歩み始めた。

　蒼愁は肩透かしを食らわされたように、暫し呆然とそれを見送るのみである。

　それを知ってか知らずか、蒼明は玄関を出る直前で一度立ち止まり。

「仮にも仕事を持ったのだ。愁よ、お前がどうであれ世間はもう一人前の大人だと見る。これからは自らの

思うままに生き、その全ては自らが背負え。自由を是としその責任を担うのだ、それが蒼家の家訓である」

　蒼明はそれだけを言うと最早一顧だにせず、玄関からささと歩み去って行ってしまった。

　それを見送った後、今度は母、蒼瞬が振り返り。　

「愁、貴方はすでに独り立ちしたのです。もう私達には何も言う事はありません。蒼家の男として恥じない

生き方をなさい」

　そしてにっこりと微笑み。

「でも辛くなったらいつでも帰って来て心を休めなさい。仕事で困った事があれば、蜀頼様を頼られるとよ

ろしいでしょう」

　と言った。その声音は慈愛に満ちており、蒼愁は知らず知らずの間に静かに頭を垂れていた。

　ただふと疑問に思っていた事を思い出し。

「母上、蜀頼様とはどういう・・・」

　ここぞとばかりに母に尋ねてみた。

「私の父や祖父と入魂（じっこん）にさせていただいた方で、私も幼い頃からよくしていただきました。あ

の人との縁も蜀頼様が取り持って下されたのですよ」

　蒼瞬があの人と呼ぶのは、この世に蒼明ただ一人しかいない。

「ですから言って見れば、貴方にとっても親同然の方なのです。頼るのも程々に、そしてくれぐれも粗相の

無いようにしないといけませんよ」

「はい、解りました。では母上、どうかお気を付けて」

「はい、貴方も無理なきように」

　そう微笑みを残し、蒼瞬も父の後を追うようにゆったりと去って行った。

　蒼愁はそれを見送り、その後も暫く礼の姿勢をとり続けた。

　そして一つ息を吐き、表情を改めると。外に出、家に向かって一礼をしてから今度は砦へと急ぎ始めた。

遠く聴こえていた喧騒もいつの間にか消えている。蒼愁は珍しく駆けに駆けた。

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