真か諦めか

2-4.蒼愁、秘策を齎さんとす

　趙庵（チョウアン）から街道沿いを双（ソウ）方面へ３，４キロ程進んだ所、整備された大路が途切れ、

山道の険しさが戻る境界線にこの砦は在った。

　砦から双方面への道幅は砦付近ならばまだ広く、そこから徐々に狭まって行く。丁度細長い三角形を置い

たように考えると良いかも知れない。とは言え、山道もそれなりに整備されているので、行商人等が通るの

ならば問題は無い。ようするに行軍するには難しいように造られていると言うだけの事。

　この砦には特に正式な名称がある訳ではなく。趙庵の砦とか対双砦とも呼ばれているが、最も一般的なの

は西砦だろう。これからはそれに従い、この砦を西砦と記す事とする。

　西砦はまるで水の中で燃えるが如く、緩やかに沸騰していた。

　西砦に駐屯する守備兵は常時四千。国境を固める兵数とすれば他国から見れば少ないとは言え、個々の武

勇は賦（フ）国を除けば圧倒的に抜きん出ている。三千は熟練の兵であり、久々の大会戦に大いに勇を奮い。

残り千の新参の兵も虎出身の者や腕に覚えがある者ばかりで士気は高い。

　ただそれでいて皆整然としており、守将の指揮能力の高さが窺える。緩やかに沸騰す、とは正に兵の理想

的な状態を指すのであろう。

　指揮をとる守将室は西砦の最上に在り、双方面が広く見渡せるようになっている。

「状況はどうか」

「ハッ、間諜の報告によりますとここ数日の内には敵軍が到着するとの事。司譜上将の援軍一万もすでに衛

塞を立ち、こちらも数日の後には到着するでありましょう。付近の住民の避難はすでに完了致しましてござ

います」

「ご苦労、避難誘導させた者達には明朝まで休息を与えるよう伝えよ。他の者は戦準備と敵間諜への警戒を

怠るな」

「ハハッ」

　高音の声が室内に凛々しく響き、報告した兵が静かに出て行く。

「援軍一万・・・・賦国を警戒したのね」

　後に残ったのは背の高い甲冑に身を固めた女、この砦を預かる司賦（シフ）上将下の大隊長であり名を司

穂（シスイ）と言う。黒竜でも多くない女兵の一人であり、話によると司譜上将の姪にあたるらしい。年の

頃は２４、未だ未婚であり司譜上将等は引退してさっさと結婚しろと嘆いているようだ。

　勿論上将の伝手で出世したのでは無く、その実力も万人が認めている所であり。特に同じ女兵からは崇拝

にも似た尊敬を受けている。凛々しく朗らかな性格と容姿は兵達の人気も高い。次期将軍との噂もある、そ

んな女性である。

「ま、取り合えず一段落ついたようね」

　司穂は簡素な守将室で一つ息を洩らした。守将の責務は楽ではない。自分にも兵にも常に適度な緊張を強

いる事は想像以上に難しく、彼女の心身をも常に疲労させる。しかも彼女が居るのは華々しさとは無縁の無

骨な砦。誰でも気が滅入るだろう。

　ただ、司穂はこの雰囲気が嫌いでは無かった。この素朴とも言える雰囲気と、戦時にしか使いようも無い

この武辺一辺倒の砦と言う物に、おかしみにも似た安らぎを覚える。何よりその不器用さが伯父の司譜上将

を思わせて、不思議な親近感をも感じてしまうのだ。

「私も一休みさせてもらおう」

　敵軍に新しい動きでもない限り、今はこれ以上する事も無いだろう。

　そして普段は括ってある長い栗色の髪を解き、ようやく簡素な寝台で横になろうとしたその時。無粋にも

俄かに戸を叩く音が響いた。

「何事ですか？」

　司穂は気だるそうに身を起こす。

「ハッ、実は大長殿に面会したいと申す者が参りまして」

　この砦の兵は司穂に敬意を表し、軍事等の機密事項以外は戸外で報告する事にしているようだ。司穂が命

じた事ではなく、特にそう言う決まりがある訳でも無く、あくまでも兵達が自主的にやりだした事だが。当

の司穂が構わないと言っても一向に直さないので、ありがたくそれを受け取り彼女も今ではこれを公認して

いた。

　司穂はせめて話易いようにと戸の側へと寄る。

「面会ですか、こんな時に」

「ハッ、我等もそう言ったのですが。どうやらその者、参謀府の者のようで・・・・」

「参謀府の方が・・・・・」

　司穂は暫く考えた後、この部屋へ通すようにその兵へと命じた。兵が訝しがっていた所を見ると、衛塞（エ

イサイ）よりの使者でも無さそうだったが。わざわざ尋ねて来たのを例え戦時とは言え、無下に追い返すの

は忍びないと思ったのだ。

「ええと・・・・まあ、このままでいいわね」

　今更髪を括り直すのは気が引けたので、せめて櫛で髪を梳いておく事にした。

　そして司穂は簡素な鏡台の前へと座ったのだった。　

　暫くして守将室に再び戸を叩く音が響いた。

「入りなさい」

　司穂の声に応じ、静かに無骨な戸が開かれる。

「司穂大長、お連れ致しました」

「ご苦労、貴方は持ち場へ戻りなさい」

「ハッ」　　

　案内の兵が礼の姿勢をとってから退出していく。

　後に残されたのは見た事の無い美しい蒼を纏った青年だった。その顔に司穂は見覚えが無い。参謀府の人

数はさほど多く無く、しかも毎年入隊する者も驚く程少数なので、例え砦詰めの彼女でもある程度は顔を知

っているはずなのだが。

「突然の来訪、失礼致しました。そしてお会いしていただけた事に感謝致します。私は趙庵の蒼愁と申します」

　青年は丁寧に礼の姿勢を取った。それは堂に入ったものであり、何処か気品と風格を感じさせる。もしや

高貴な出の方なのだろうか。しかしやはりその顔に見覚えは無い。

　司穂はゆっくりと頷き返礼とする。そしてゆっくりとその口を開いた。

「蒼愁殿、失礼ですが黒竜衣は如何されましたか」

　前述したが、黒竜には黒竜の証とも言える正装がある。その正装を壬では黒竜衣と言い、公的な場やこう

した上官に面会を求める時にはきちんとその正装を纏う事が、まず第一の礼儀なのである。

「はい、実は私は先程試験を受けたばかりでして、まだ黒竜衣を拝領していないのです。ですから失礼とは

思いながらも、この姿で参上させていただきました。何卒ご無礼をお許し下さい」

　そして青年は再度深々と礼の姿勢を取った。

　司穂はようやくそれで納得がいき、こちらも返礼をする事でその無礼を許した。

「それで私に何の御用でありましょう」

「はい、私は未だ正式な黒竜とは言えませんが。それでも参謀府の人間の端くれとして、微力ながら尽力さ

せていただきたいと思い、この砦へと来させていただきました」

　青年は律儀にも入室以来ずっと礼の姿勢を取り続けている。その真摯な姿勢には司穂は心地良いモノを感

じた。しかしそれはそれ、これはこれである。使えない半人前ならばすぐに追い出さねば、かえって戦の邪

魔になる。

　そこで司穂はこの青年に取り合えずその意見を言わせてみる事にした。何を思い、そして何をしたいのか、

士を知る上でそれを知る事が一番手っ取り早いだろう。

「では僭越ながら」

　青年はゆっくりと顔を上げた。涼やかな落ち着いた眼をしている。

「まずこの戦、戦う事は得策ではありません」

　司穂はその言葉に眉を顰（しか）める。今正に敵の軍勢が迫って来ていると言うのに、これと戦ってはな

らないとはどういう了見であろう。

「それは何故ですか」

「はい。一つに双軍にここを突破する意思が感じられません」

「何故です」

「本気でこの砦を抜くつもりならば、賦国の脅威が無い以上双国はその総兵力かそれに近い兵数を向けてく

るはずです。ところが実際に率いられた兵は三万。確かに大軍ですが、これしきの兵力では突破する事が危

ういのは双軍率いる漢嵩次将ならば百も承知のはず」

　この青年の提言とは司穂も同じ考えだった。現に心成しか双軍の軍速も遅いように感じられる。

「では敵将の意図はどこにあるのでしょう」

「はい、賦と・・そしておそらくは凱との多方面作戦だと思われます。この双軍はその為の布石、言わば兵

を惹き付ける為の囮でありましょう」

「なるほど・・・。しかし凱・・ですか？」

　大陸西南に位置し、壬国と南に接する凱（がい）国が壬に侵略する意図が解らない。特に壬国と仲が悪い

訳では無く、争う理由も無いはずだ。まあ、仲が良いわけでも無いのだが。

「確かに凱は私の予測でしかありません。しかし賦国はこれまでと違い、調略や威圧などの外交手段も使い

始めたのです。双に続き、凱も動かされないとは限りません」

「・・・もっともです。それではまともに戦っている訳にはいきませんね・・」

　壬国がいかに堅固だとはいえ、三方面から攻撃されては一気に疲弊して見る間に立ち枯れてしまう。まだ

賦と双の二ヶ国ならば何とか戦えるかも知れないのだが。

「では、貴方はどうせよと言うのですか」

　司穂は不思議ともうこの時にはこの青年が自然に信頼出来、ひどく頼もしげに見えたのだ。この痩せっぽ

ちの青年がと、自分の事ながら少し可笑しくもあったが。それも悪い気はしなかった。

「はい、こちらが戦えないのならばあちらも戦わないようにするしかありません」

「つまりは・・・」

「はい、敵将漢嵩を説き、こちらへ降らせるのです」

　しかし期待の青年から出た言葉は、あまりにも突拍子も無い事だったのである。

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