2-5.漢嵩軍、来る


 西砦は適度な緊張を持った臨戦態勢にある。

 間諜の報告によれば、敵陣はすでに目と鼻の先にまで到着しつつあり、明日にも開戦せん距離だと言う。

 西砦の守将、司穂(シスイ)大長は守将室で二つの到着を待ち望んでいた。

 一つは援軍の到着、もう一つは敵軍の仔細な報告である。

「司穂大長、間諜が戻りましてございます」

 伝令の一人が待ち望んでいた報告を持って現れた。

「それで仔細は」

 司穂は珍しく興奮気味に伝令に問う。

「ハッ、あの方の仰る通り兵にも将にも煌びやかな鎧を纏った貴族が少なく、皆漢嵩次将に心服している様

子。ですがその割りに戦気はさほどでもなく軍内にも緊張が漲っている訳でも無く、やはりこの砦を抜こう

とする意識は少ないようです。食糧と水は豊富で、行軍も遅く、持久戦の構えを取っているのは間違い無い

との事。そして攻城兵器等の備えも薄いとの事でした」

「そうか、ご苦労であった。間諜に休息を与えよ」

「ハハッ」

 伝令は静かに、だが足早に退出して行った。戦争をするに当って一番忙しいのが伝令と間諜なのだろう。

それだけに彼らが忙しくしているほど、軍としての機能が高い事になる。その点で言えば、黒竜は優秀この

上ないであろう。

「しかし大した洞察力ね・・・」

 司穂はこれまた珍しく感嘆の息を吐いた。と言うのも数日前に現れた蒼愁(ソウシュウ)と言う青年の言

う事が見事に当っていたからである。

 まず兵力がさほどでもないのは本気で攻め落とすつもりが無い為と、おそらく漢嵩(カンスウ)次将が指

揮しやすいように貴族の子弟とその息のかかった者達を使わなかった為である事。そして敵は持久戦を考え

包囲の姿勢をとり、強行的な城攻めの姿勢はとらないだろう事。

 そして驚くべき事に賦(フ)国が漢嵩の投降に当って、不自然な事に人質の一切をとらなかったと言う話

もある。これは賦の油断なのか策なのかは解らないが。ともかく漢嵩次将はこれにより行動にある程度の自

由がある。何よりも賦国に対して信頼が無い事が大きい。おそらく漢嵩自身も未だ迷いがあり、それが行軍

を遅くしているのだろう、と。

 言わば漢嵩も何を信じ何をすべきか未だ手探りの状態なのである。

 故に交渉の余地もあり、そうすべきなのだと蒼愁は言った。

 そして今この推論を裏付ける報告がなされたのである。そうなると彼女としてもいよいよ蒼愁の意見を放

っておく訳にはいかない。しかし彼女はあくまで砦の一守将であり、軍位は大隊長でしかなく、この砦の防

備の一切を任されてはいても、この一戦の戦略方針まで決める権限は無い。

 だからこの一戦に対して全ての権限を与えられた、上将軍司譜(シフ)の到着を待っているのである。

 しかしその到着は早くても夜になるだろうとの別の間諜から報告があった。今はまだ太陽が天上に煌々と

輝いている。

「この時間を無駄にするのは得策ではないわね・・・」

 一つ頷いた司穂は兵を呼び、蒼愁青年を呼びに行かせた。本格的な軍儀は司譜上将が到着してからになる

が、それまでに細かい打ち合わせをやっておきたいと思ったのだ。

 なにしろ伯父の司譜上将はなかなかに気難しい所がある。姪の司穂には甘い所があると言っても、こと軍

事に関してはそれも通用しない。司譜を納得させるにはそれだけの材料が必要なのだ。

 蒼愁はあれから客将としてこの砦に詰めてもらっている。生真面目で人当たりの良い性格で兵とも上手く

やっているそうだ。司穂もあれから何度か会ったが、爽とした気持の良い青年だと感じている。

「司穂大長、蒼愁殿をお連れ致しました」

 程無くして戸外から声が聴こえた。

 司穂はゆっくりと入室を許可する旨を伝えた。



 その日の夜、西砦に援軍が到着した。数は少なく、司譜上将と共に先行した騎兵二千騎だけであったが、

それでも敵軍よりも先に到着した事は大いに兵達を安心させ、士気を増させた。

 残りの部隊も順次到着し、後二日もすれば全て揃うだろう。

 司譜は兵と馬に休むように命じ、自らは早速司穂に命じて軍儀を開かせ、それに参加した。この老将はま

ったくもって元気な人物らしい。気概が違うのだ、とは本人の弁である。

 そして慌しく主だった将兵が集められた。その中には客将扱いの蒼愁の姿もある。

「それではお前は敵将を降伏させよと言うのだな」

 司穂は早速蒼愁の述べた作戦を採用する旨、司譜へと願い出た。すでに彼女達も軍儀を重ね、これは西砦

の総意となっている。

 この方面の全権はこの老将にあるから、後は彼さえ頷けば王に認可されたと同じ事となる。一軍を任され

るとはそれほどに権限のあるものだが、勿論それだけ責任も重い。もし敗北すればその責を一人で背負わな

ければならないのだから。

「だが本当に上手くいくのか」

 司譜はぽつりとそう洩らした。それは誰しもが多少なりとは抱える不安であったろう。

 何しろ五国家と一まとめに言われているとは言え、壬と賦では国力と軍事力に天と地程の差がある。今ま

では賦の戦力が文字通り四散していたからこそ、何とか持ちこたえて来れたとも言えるのだ。まともに戦え

ば一国で賦国に勝てる国等、現在は一つとして存在しないのである。

 幾ら賦国に信頼がおけないとは言え、その強国の賦と手を切ってわざわざ弱国である壬と結ぼうとするだ

ろうか。そして何よりの不安要素として。

「敵将が降ったとして、その後はどうするつもりなのだ」

「それは・・・」

 司穂が口篭もる。

 三万の兵全てが投降するとも思えないが、どちらにしても万を越える兵を維持する為の物資は膨大な物に

なる。壬国の何処を探してもそんな当てがある訳が無かった。元々物資に余裕がある国では無いのだから。

 司穂は自らもそう思っていただけに、そこを突かれるともうそれ以上は言える言葉が思いつかず。ふと縋

るような気持で蒼愁の方を見た。何としても司譜を納得させなければならない。まともに防戦していては、

壬はゆっくりと滅亡を遂げる道しか選べないのだから。

「畏れながら申し上げます」

 蒼愁は彼女の気持を察したか察せずか、ともかく礼の姿勢をとりながら言葉を発した。 

「そなたは確か・・・」

「ハッ、趙庵の蒼愁と申します」

「うむ、申してみよ」

 司譜は鷹揚に返礼を返し、発言を許可した。

「ハッ。降軍の後の処遇ですが、彼らが駐屯していた東方の都市、北昇一帯を与えればよろしいかと存じます」

 北昇(ホクショウ)とは双と壬の境界一帯を治めるようにして造られた、双の東方の一大都市である。作

物は豊富に実り、交通の便も良い。城も建てられており、おそらく漢嵩軍もここを前線基地としたと思われる。

「む、北昇一帯と言っても・・・そこは壬の領土では無かろう」

「はい。ですが漢嵩次将がこちらに降ったとなれば簡単に落とす事が出来ます。彼の将軍は国民に絶大な人

気がありますし、賦に対する態度から見ても双には元から交戦する意志などありません。ですから停戦の代

償として東方の領土を要求しても拒まないでしょうし、北昇も異存なく迎えてくれるものと思われます。例

え後ろに賦がいるとは言え、これは単なる双の侵略戦争でしかありえません。大義もこちらにあります。そ

れに手間取っていますと、凱が腰をあげないとも解りませぬ故。何よりも早期決着を付ける事が肝要だと思

います。それに北昇ならば、賦と領地を接しておりませんから漢嵩次将も安心するでしょう」

「ふむ・・・」

 司譜はしばらく腕組みをして重厚な姿勢で考えた後、静かに一つ頷いた。

「なるほど、そなたの言う事も道理である。今回は早期降伏させる事以外に良い手は無かろう」

 司譜は蜀頼(ショクライ)の言った事も思い出しながら、蒼愁の策をとった。不安は不安として残ったま

ま消えていないが、それでも最前の策が無い以上次善の策で行くしか無いだろう。後の事はまた後の事だ。

 このまま鈍重に双と戦っていれば壬国自体が滅んでしまう。蒼愁の言う程簡単に事は運ばないだろうが、

最早これしか無い。

「では行こうか」

 そして司譜はゆっくりと立ち上がった。

「どちらへ行かれるのです」

 司穂が策を採用されてほっとしながらも、突如立ち上がった伯父に向かって驚き混じりにそう問う。

「早ければ早い方が良かろう。漢嵩殿の元へと行くのだよ」

「なッ!」

 その場に居た将兵はその言葉に一様に驚きの表情を浮かべた。それはそうだろう、一軍の総大将ともあろ

う者がのこのこと敵陣に赴くなどと、常軌を逸しているとしか思えない。

「お待ち下さい!」

 そして当然の事ながら将の暴挙を止めようと皆一様に声を張り上げた。

「静まらんか!」

 しかし司譜はそれを一喝して制し、静かに将兵へと語りかける。

「ならばわし以外に適任がおるか。降将というものは何もかも全てが不安で所在無いものだ。ただでさえそ

うであるのに、そこにまた寝返れと言わなければならん。並みの将兵を使わした所で果たして色よい返答が

聞けるであろうか。ここで危険を賭してわしが行ってこそ、初めて相手も信じようと思うものだ。それにわ

しと漢嵩殿とは多少なりとも面識が無い訳ではない」

 この老将にそう言われれば、もうそれ以上何も言う者はいなかった。

「うむ、皆は心安んじて吉報を待っておれば良い。ではそこの蒼いの、蒼愁と言ったな。お主がこの策の首

謀者であろう、ならばわしと共に付いて参れ。わしもお主の策に命を預けるのだ、お主もわしに命を預ける

が道理だろう」

「ハッ、不肖ながら共をさせていただきたく存じます。しかし・・・、私にはまだ黒竜衣が・・・」

 蒼愁は司譜の言葉に臆するどころか、むしろ進んで敵陣へ行こうとした。元から一緒に行くつもりだった

のかも知れない。ただ、正式な壬の使者となればやはり礼儀として軍の正装である黒竜衣が必要だろう、こ

こで言っているのはその事である。

「いや、お主は蒼いままで良い。それはそれで効果があるのだ」

 しかし司譜は以外にもその提言を簡素に伏した。そう言われれば、もう蒼愁には他に言う事も無い。

「後は司穂、お前も来い」

「ハッ、承知致しました」

 この場合は供の者に高官が居た方が良い。そして司譜は姪を敢えて死地に連れて行く事で、兵達の信頼を

得ようとも考えたのかも知れない。最後に物を言うのはやはり人間の心なのだ。

 他にも同行を願う者も居たが、司譜が多数で行くとそれもまた逆に警戒されるだろうと、丁重に辞し。と

もかくもこの三名で敵陣へと向かう事になったのである。

 司譜はすぐさま行こうとしたが、夜間に行っても警戒されるとの司穂の静止があり、衣服を整え旅塵を落

として明朝出かける事とした。

 そして一夜が明ける。 




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