2-6.漢嵩、大いに悩む


 漢嵩(カンスウ)軍は山路をさほど急がず行軍し、ようやっと敵砦が遠目に見える所まで到着した。遠路

と山路が祟り、流石に将兵も疲弊していたが。それでも動けない程では無いようだ。

 今は休息の最中であり、軍は狭い道を埋めるように思い思いの場所で休んでいる。戦争の為、壬国側への

街道は閉鎖され、付近には街商の者達が引き返していく姿が見受けられた。戦時とは言え、商人とはよほど

肝が据わっているらしい。

「まあ、商人だけでは無かろうが」

 漢嵩はそんな街商達を通行の度に一々調べるような事はせず、簡単に言えば放置していた。

 普通に考えれば街商に混じって敵の間諜がいるであろう事は明白であり、こういった者達は捕らえて詳し

く調べるのが軍としては当たり前であったが。漢嵩は今はそんな事はどうでも良くなっていた。今更間諜を

どうこうした所で何が変わろうか、そんな風にも思えるのである。

 とは言え、流石に火でも付けられたらたまらないので、警備だけはしっかりさせている。簡単に陣内を通

してやるが、しかし常に兵が付き添い見張り、きっちりと陣外まで送り届けさせていた。

 そして漢嵩の側からは物見は出しても、間諜は出させていない。

 これは敵軍が封鎖されている以上、諜報が困難だと言う理由があったからでもある。街道が封鎖されてい

る以上、敵側には誰も侵入できず、逆に引き返してくる街商達のおかげでこちらは人の出入りが容易になる。

情報戦においては状況ですでに負けていた。

 確かに無理を徹して、敵砦に忍ばせる事も出来ないではないが。元々漢嵩にはそこまでするつもりは無か

った。今どれほど戦果を上げても、ただ賦国を利するのみなのである。彼や双国にとって良い事は一つも無

い。むしろ百害あって一利無しの状況なのだ。

「わしは何をやっておるのだろう・・・」

 ふと漢嵩は溜息を吐く。

 幼少の頃から双へ忠誠を誓い、そして多大な貢献をしてきたはずだった。望岱(ボウダイ)と言う堅固な

要塞があったおかげもあるが、長年に渡り賦の侵略を防いでいた功績は疑いようも無く。それは他国でさえ

認めるほどであったのだ。

 しかしそれも民の出であると言う事柄だけで正統に評価されず、異例の将軍位とは言え最下位の次将軍に

抑えられ。宮廷でも軍儀でもさほど重用されず、言わば名前だけの将として甘んじて来た。

 宮廷はすでに腐敗の一途を辿り、幼き頃から憧れていた双国正規軍、白竜すらも侵蝕され、彼の入隊当時

にはすでに一国家を守る正規軍としての機能は無いに等しかった。それを必至になって正し、鍛え上げて来

たのはなんだったのであろうか。

 結局は何も変わらず、上も横も能の無い位だけの貴族ばかり。自分一人と決して優遇される事の無い、民

出の兵だけが懸命に賦の侵略を防いでいたのではないか。それなのに苦しむのはその民ばかり。

 最早この国に愛想も何も尽き果てた所へ意外にも賦からの誘い、揺れる心を甘言に呑まれるままに寝返り

はしたものの。だからと言って何が改善された訳でも無かった。

 何しろあの賦国の事だ。双を自分に与え任せると言う約定までを交わしたが、それもどれほど信用出来る

だろう。事が済めば刃を返し、部下もろとも一挙に滅ぼされてしまうのではなかろうか。望岱を賦に抑えら

れた今、果たしてその侵略を防ぐ事が出来るのだろうか。そう考えれば、実質すでに双と言う国は滅ぼされ

てしまったのかも知れない。

 そして自分は後世まで、双国を滅ぼした裏切り者として汚名が残るのであろうか。一時の迷いで一国を滅

ぼした不義の将として・・・。そうとすれば未だ自分を信じ、そうする事が国の、引いては家族の為と付い

て来てくれる部下と国民にどう謝すれば良いのだろう。

 こんな事をする為に寝返ったのでは無かった。そう、こんな事をするべきでは無かった。例え辛くとも報

われなくとも、一生望岱で賦の侵略を防いでおればよかったのだ。そうしていれば、少なくとも双が滅ぼさ

れる事は無かった。結局は自分の為にそこから逃げたのだ。そうだ・・・・私は逃げたのだ・・・。

「なんと言う愚かな男だ・・・・」

 漢嵩は深く頭を垂れた。ここが軍中でなければ、彼は号泣したかも知れない。彼の選んだ道は、結局は国

民を火の海に叩き込む結果に終るのだろう。

「ああ、守神白竜よ私をお許し下さい・・・・・。そして軍神大聖真君よ、願わくば私に力を与え給え。こ

の愚かな男に国民を救う力をどうか今一度お貸し下さい」

 そして漢嵩は国の守護神と不可能を可能とする神へと一心に祈りを捧げた。彼には最早祈る事くらいしか

他に無かったのである。

 そんな時である。慌しく予期せぬ伝令が現れ。

「し、司譜上将が参られております」

 そう報告したのは。

「なんと!?」

 漢嵩からは先程までの心もすでに吹き飛び。ただただ驚きだけが彼を支配していた。

「すぐにお通しせよ!」

「ハハッ」

 伝令はそれを聞くと鸚鵡返しに慌しく去って行った。

 そして漢嵩は将軍の顔へと戻り、幕僚達を集め、急ぎ敵将と談する為の準備を始めた。

 しかし彼の心までは変わらず、今も不安に象られている。



 

 

 軍儀の時にも使っている漢嵩次将の天幕を急ぎ会見場所として整理させ、使者をもてなす準備も合わせて

行われた。

 敵側の使者だとしても、手厚くもてなす事が礼に適うとされており。賦国以外の国々は天下に自国の信を

示す為にもこの習慣を丁重に守ってきた。だがそうと言っても、交渉が決裂、或いは将の機嫌によって使者が

斬首される事も少なくは無く。敵陣へ乗り込む使者は常に死と隣り合わせである事実は古今変わらない。

 だから歴戦の猛者である漢嵩としても、将軍が自ら使者として出向いてくるなどと言う経験は皆無であっ

た。それどころかそんな話は聞いた事が無い。遥か昔、碧嶺(ヘキレイ)や趙深(チョウシン)がそのよう

な事をやったらしい事を聞いた記憶がある気もするが。そうとしても昔の話。おそらく作り事だろう。

「一体何を考えているのか・・」

 漢嵩とその幕僚はすでに座についており、後は使者の来訪を待つだけとなっている。

「次将軍」

「どうした」

「こんな機会は二度とありますまい。ここで首を捕ってしまいなされ」

 幕僚の一人、漢嵩の懐刀であり謀臣と言われる央斉(オウサイ)が漢嵩にひっそりと近付き、こそと耳打

ちをした。

「なんと」

 漢嵩は大げさに驚いて見せた。いや、実際驚いてしまっていた。それは彼も少なからず考えていた事なの

だが、こうして他者に言われると不思議な生々しさを伴って聴こえたのだ。

 そして漢嵩は迷った。

「漢嵩次将、例え賦国の要請通り、ままと壬軍を分散させこの地へ繋ぎ止めたとして。しかしここで敵将を

みすみす逃すような事をすれば、それは以後賦国に禍根を残す事になりましょう。何しろ我等と賦国は互い

に信用しておりません。我等の思惑に関わらず、ここが決断の時となってしまいましたな」

 漢嵩と央斉の付き合いは長い、歳も近い所為か今では臣下と言うよりは友人にも似た関係になっている。

央斉がこう言ったのは漢嵩の思考を敏感に感じ取っているからだろう。

「そうか・・・、やはりここが決断の時となったか」

 漢嵩は天を仰ぐようにして、天幕越しに視線を宙へと舞わせた。未だ決せざる、そんな様子が細かい仕草

にまで出始めている。

 央斉はそんな将軍に一抹の危うさを覚えたようだったが、しかしそれについては何も言わなかった。

「央斉よ・・・・」

「ハッ、なんでございましょう」

 漢嵩は央斉へと向き直った。

「私に兵は付いて来てくれるであろうか」

「次将軍、貴方がどれだけこの国を愛し、この国に貢献してきたか。それは兵が、そして民が一番解ってお

ります。貴方がどう考え、どう進むにしても。貴方がその民と兵を慈しむ心を忘れなければ、決して彼らは

貴方を裏切りますまい。そしてそれはここに居る我等も同じ事、貴方に付いてここまで来た者達に最早迷い

はありません。我等は皆貴方に従いましょう」

 央斉はそう言って深々と頷いた。本来は礼の姿勢でもとりたかったのだろうが、幕僚の中には彼らの意に

同調しない貴族出の者も居る。不自然な行為は今はなるべく慎むべきだろう。

「もし意にそぐわない者がおりましたら」

 央斉は軽く儀礼的な装飾がされた短刀の柄を握った。

 幸いと言うか当たり前と言うべきか、貴族出の言わば監視として付けられている者は少ない。そして貴族

出の彼らは当然壬よりも賦に付くべきだと考えているはずである。単純な戦力だけの算段として。

 思想のまったく違う相手を一瞬で屈するには純粋な武力に頼る以外に無いだろう。

「すまぬな、央斉」

 漢嵩はそれだけを言って深く頭を垂れた。

 央斉がここまで強引な姿勢を見せる事は少ない。それは即ち央斉個人の考えではなく、漢嵩に協力的な者

の総意と考えていいだろう。それをそういう彼に似合わない姿勢をとる事でより強固に教えてくれたのだ。

 部下達の考えがそうであるならば、漢嵩の決める道はただ一つである。

 こうして漢嵩の心はようやく決せられた。

 ただ、それでも不安がまったく消えた訳では無かったのだが。 




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