3-1.楓仁、参る


 司譜(シフ)上将が双国、北昇(ホクショウ)へと遠征してから数日後、壬国南部、賦国との境界にある

南砦から敵襲ありの報告が入った。

 その行軍は驚く程速く。遠征で軍備が手薄になる機会を再接近領にてひしひしと窺っていたに違い無かった。

正確な総数は解らないが、数万の大軍である事は今までの経験から言っても間違い無いだろう。

 壬劉(ジンリュウ)は即座に対応し、賦国方面担当である楓仁(フウジン)竜将に黒竜五千、そして漢嵩

(カンスウ)の降兵から五千を選び、総数一万を与えた。そして戦場での一切の権限を楓仁へ委任し、これ

を急ぎ出兵させた。

 楓仁は騎馬兵二千を編成し、首都衛塞(エイサイ)を雷発。後軍は緑犀(リョクサイ)大長へ任せた。

 楓仁の部隊は黒竜一の速度を誇る。馬の巧みな者と足の速い者達の中でも特に選ばれた者が配備され、正

に疾風雷鳴の如く駆け抜ける。

 その中にあっても楓仁は圧倒的な速度を誇っていた。

 彼の愛馬、黒桜(コクオウ)は壬国産の山馬であり、大柄な楓仁すら霞む程の巨体を誇る。その上、速度

も体力も無限と言われる程の強靭な体躯を誇っており。未だこの馬が息を切らした事は一度として無い、と

すら言われている。しかしその気性の荒さも仁国一で、楓仁以外は乗るどころか、近付けも出来ないようだ。



 昔、この黒桜をどうしても欲しいと、今は亡き先代の王が楓仁に特に願ったのだが。先王でもどうして

も手懐ける事が出来なかった。無理に騎乗しようとしては振り落とされ、餌を与えようとすればそっぽを向

かれ、一種笑い話として当時世間を賑わせた事がある。

 ただ先王もさるもので、これに怒るどころか一緒になって笑い、上に立つ者としての度量の広さを示し、

結果として皆から敬せられる事となった。ただ、流石に悔しいのは悔しかったらしく、在世時は時に厩

(うまや)に忍び込み、黒桜の餌に苦草を混ぜたりしたらしい。なかなか食えない御仁だったようだ。



 楓仁はとにかく駆ける。他の将軍も火急の時はこうして先発騎馬隊を組んで雷発するのであるが、それで

も軍としての足並みは最低限は揃える。だがこの楓仁はとにかく一人でも駆ける、ひたすらに駆ける。部下

が追いつけまいが取り残されようが構わない。只、全速で駆け続けるのだ。

 その為、数キロも行くと、もう彼の周りに辛うじて付いて行けているのは壬の山馬に乗れる数名だけ、と

言う有様になる。だが不思議にもこれで士気が驚くほどに奮い立つのだ。

 全軍一丸となって、竜将に遅れるな、とばかりに必死に駆ける。馬も駆ける。

 それが結果として更なる速度を生み出し、だからこそ楓仁の部隊は最速と言われるのだろう。これはそれ

だけ楓仁が部下の将兵に慕われ、信じられていると言う事の証明でもある。

「・・・急がねば」

 しかし当の楓仁の心はその将兵達よりは複雑なモノであった。彼としてみても、本当はこのような無理な

行軍はしたくは無い。彼が神速を好むのも事実であるが、如何に速度、速度と言っても限度があるだろう。

「・・・・・・・・」

 それを敢えてやらせるのは何か。

 その答えは一つ、単純な恐怖である。

 驚くかも知れないが、楓仁も賦国の軍事力を恐れているのである。正直に言えば怖い。兵の前では見せな

いが、戦に赴く時は常に死を覚悟して行く。誰でも死は恐ろしい、手綱を持つ手が震える事もある。

「・・・黒竜よ、大聖真君よ・・・我の前に武運あらん事を・・・」

 楓仁の頬を汗が走る。

 賦族の強さは何も腕力や技術だけでは無い。恐るべきはその心、決死の兵となって怒涛の如く襲い来るそ

の様は、大流のように抗う術が無い。

 だから怖い、心底恐ろしい。だがそう思う事と、そこから目を背ける事は似ているが同じ事では無い。彼

は恐怖を覚えつつも、立ち向かっているのだ。だからこそ彼は、黒き修羅、とまでその賦族にすら恐れら

れるのだろう。

 そして全てを飲み込むように、実直、愚直な程に速度に身を任すのである。開戦前の余計な思考で戦意を

失わないように。

「はあッ!!」

 楓仁は自らを奮わせるように気合を発し、更に速度を上げた。 



 一方、南砦の守将の名は大隊長、布周(フシュウ)。美周と呼ばれる程、薫るような美丈夫であり、気

品ある姿は女性を魅了してやまない。繊細な気配りの人であり、士気を保つ事が上手く、状勢を読む事に長

けている。その外見に似合わず、武芸も胆力もなかなかのもので。統率力にかけては、或いは楓仁に匹敵す

るとまで言われている男である。

 もう一人の大隊長、緑犀(リョクサイ)と共に上手く楓仁を補佐し、黒竜の中でも最も精強で、常に危な

げの無い安定した強さを誇ると噂される。しかし厳つい顔の楓仁に仕える大隊長二人が二人とも優男然とし

た男だと言うのも、なかなかに面白い。

 この布周、如才なくすでに防衛の準備は尽く整えており、南砦は敵を迎え撃つのみと言った状態に置かれ

ていた。彼自身も愛弓を手に砦内を監督し、いざ敵襲とあれば、すぐさま矢を馳走してやろうと言った様で

ある。彼は弓の名手であり、それを最も得意とした。

「しかし今進軍すると言う事は、我らが北昇攻めに労する事が解っていたと言う事なのでしょうか」

 布周は一通り見回りを済ませ。今は遠望出来る守将室から、遠く山道の先を見詰めていた。

「ですが、果たしてそこまで読み切れるものなのでしょうか・・・」

 今回の賦の進軍は如何にも狙い済ました風であり、結果として壬国が一番疲弊する事になった時に、見事

に襲い来ている。しかし本来ならば、漢嵩軍が壬へ攻めた時に同時に賦国も攻めるのが常道であり、誰でも

そうするだろう。

 何故ならば、その時、それがおそらくは一番有効な策であるからだ。

 それに凱の存在もある。

 双が賦国に付いた今、凱はそこに在るだけで壬の脅威となりうる。だからこそ、壬国は後先が不安であっ

ても漢嵩軍を急いで取り込み、そして現在の北昇奪還軍まで派軍しているのだ。守りの壬国としては、これ

は異例の事であるに違い無い。

 結果として壬は悪戯に国力を疲弊したと言っても良いだろう。勿論、他に良い方法は無い事も明白であり、

布周自身も今回の戦略構想には異論は無い。それ以外に無かった、とまで思っている。

 ただ、おかしいのは賦国である。

 結果論を言えば、賦国は一番効果的な時に、壬へと攻め入る事となった。しかしそれはあくまでも結果

論であり、これはそうなる事を知っていなければ出来ない事である。後世の歴史家が討論する事に似ており、

その後の状況までもを解っているからこそ言える事なのだ。

 と考えれば、この一連の流れは。

「あくまでも賦の掌の上、と言う事でしょうか・・・」

 布周はそこに不安を感じている。

 明らかに賦は変わった。今までの勢いと兵の強さに任せた攻勢一辺倒ではなく、じりじりと他の四国家を

疲弊させ、或いは仲違いさせようとしているのが感じられる。このまま行けば、おそらく最後にはこの大陸

に存在する国家は賦一国だけとなるだろう。そして今まで虐げられていた賦族の怒りが大陸人達を焼き尽く

すであろう。一対一で賦と対峙して勝負になる国など、残念ながら一国とて無いのだから。

 それは考えるだけでも身震いする。その時はおそらく自分達軍人は生きてはいないだろうが。直接自分に

その災厄が降りかからないとしても、例えば自分の家族や親類がそうなる様を想像すれば・・・・。

 それは簡単に想像出来る。まるで今その光景が実際に広がっているように、ありありと目に浮かぶ。

「だけれど、私達の祖先達は同じ事を賦族にして来たのでしょうね・・・。そして私達も同罪には違いありません」

 壬国は壬牙(ジンガ)の血を受け継ぐ国を自称している事もあり、他国よりも賦族に対しては遥かに寛大

であると言われている。しかし寛大だの言っている時点で、賦族を明確に差別している事は変わらない。そ

の寛容さも、賦族側から見れば他国と五十歩百歩であるだろう。

「しかし、それでもむざむざ賦国にこの砦を空け渡す訳にはいきません」

 そう、賦には賦の想いがあるように。壬には壬の想いがあるのだ。

 正しい、正しく無いは関係は無い。ただ、守りたいものを守るのみである。

 虐げられたから、虐げ返して良いと言う法もあらず。結局言い方と見方が違うだけで、同じ事をやろうと

するのであれば、それはやはり等しく許してはならない。

 布周はこうして気構えを正し、決意を揺ぎ無いモノへ昇華させた。

 敵軍はもう何時来てもおかしくない距離にあるのだから。

 緊張故か、彼は全身に不可視の圧迫感がひしひしと襲いくるのも感じていた。

 大陸最恐の賦兵が来る。 




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